第一話 嚆矢(こうし)と謁見
季節外れのモンスーンが、幾度となく城壁を打ち据える。
風は夜半過ぎに強さを増し、雨を巻き込こむと、その姿をより凶暴なものに変化させた。荒れ狂う風と叩き付ける雨が、森と大地、そして街を襲った。
(強固な作りの城でさえ、この有様だ。明日は大変なことになるだろう。)
眠れぬ夜を過ごすエリシアは、ぼんやりとした意識の中で明日のことを考えていた。まず夜が開けると嵐の被害報告を受け、諸々の対処などで忙しくなるだろう。
まだ慣れない領地の運営に、復興の指示まで求められると、一人での対応はまず無理だろう。それを考えただけでも、げんなりとさせられた。
鳴り止まない音と時々の閃光に悩まされ、何度も寝返りを繰り返した。
(今は少しでも寝なくては、体を休ませておかないと明日は保たない。)
そう考えて、何度も寝ようと努力した。しかし、時間が経過するほど眠気が失せて行く。考えなくてもいい事が頭の片隅をチラつき、ベッドに横たわったまま溜息をついていた。
(全く眠れない。明日の執務を考えると、今は無理にでも眠っておきたい。加えて、のしかかる重責と夜更かしは、美容と健康に非常に悪い。加齢と共に肌の色艶も衰えてきた。疲れが中々抜け切らない。若かった頃は問題にもしなかったが、十代の後半からはかなり焦っていた。許嫁や将来を誓った相手などいる訳もなく。そのまま二十代に突入した。この頃、父は事あるごとに「慌てることはない。エリシアは魅力的過ぎるからだよ。」と言ってくれた。だが、そんな父はもういない。)
いまは亡き父親の言葉は気安めでしかない。自分でも充分理解している。本当の理由は、エリシアが持つギフトにあった。そして、そのギフトの能力が他の貴族を寄せ付けない原因だった。彼女は周りから、人の心を読むギフト持ちと噂されていた。
初まりは、他愛もない子供の遊びだった。ただ単純に、木札に書いた言葉を当てるというもの。エリシア自身その提案が面白そうでワクワクした。もともと子供にしては勘が冴え、周りの状況を読むことに長けていると思われていた。貴族の資質としては申し分のないものと、周囲の大人達からはむしろ歓迎されていた。そんなとき、エリシアと侍女が簡単なゲームをした。結果的にこのゲームが全ての元凶となり、他の貴族から露骨に敬遠されるはめになった。
このとき少女達は、ただ単純にゲームを楽しんでいた。しかし、十問前後から状況が変化を始めた、紛れだと言うにはあまりにも正解が多過ぎたのだ。確かに出題者の性格を熟知していれば、ある程度の答えは予測できる。しかし十問中十問、全てが正解となると、周囲の者も不審に思う。この結果には本人でさえ、言葉を失ってしまった。ここで止めておけば、まだ勘が鋭い子供で誤摩化す事も出来たかもしれない。傷口も噂も拡がることも無かっただろう。さらに確証を得ようとした少女達は、一旦中断されたゲームを再開してしまった。
結果的に話を持ちかけた侍女は、心を読まれているという思いから、顔面は蒼白となり恐怖に震えた。そんな侍女の姿を見れば、心を読まなくても考えていることは分かる。エリシアが事の重大さに気付いたときは、既に手遅れの状態だった。
その後、侍女は体調が優れないと暇を願い、領主に了承された。それなりの金額で口止めをしたのだが、いつの間にかエリシアのギフトに関する噂は、真しやかに囁かれていた。
この噂への対応に辺境伯は苦慮した。確かに彼女のギフトは人の心を読む事が出来る。だが、その力は強力とは言い難いものだった。守りの指輪や自身を厳しく律すことが出来る人物には、効果が極めて薄いものだった。しかし、それを説明したところで誰も納得はしてくれない。彼女の伴侶となる男性が、全く見つからないことが、彼女の貴族としての立場が、難しいことを物語っていた。
それでも娘のためにと手を尽くしたのだが、元々貴族としての身分が高いため、極端に相手が限定されていた。さらに囁かれる噂が、その数少ない対象者を、更に減少させてしまった。確かに心を読まれるとなると、喜んで手を挙げる者など皆無だろう。たとえ当人同士が了承しても、その周囲の者は決して賛成しない。さらに身分のつり合いを考えるのなら、やはり中央へ行かねばならない。しかし、心を読むギフト持ちが生きて行ける場所ではない。辺境伯は時間を掛け、娘のギフトは思慮深い人のそれと同程度のものと、ゆっくり広めて行くつもりだった。
その後、少しずつ噂を広めながら時間を掛けて対応していたのだが、辺境伯が病に倒れ、碌に引き継ぎも出来ないまま他界してしまった。エリシアは跡目を継ぎ、慣れない政務に戸惑いながらも、何とか落ち着きを取り戻すまでに三年の月日が流れてしまった。今では“往き遅れのフェルスティン(女辺境伯)”などと呼ばれていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
遠雷の光りが部屋に入り込んでくる。雨風の音に混じり、雷の音もわずかに聴こえてきた。諦めとともに起き上がり、溜息混じりにガウンに袖を通す。
ぼやけた意識に欠伸が漏れる。
ふと、扉の外に人の気配を感じて急速に意識が覚醒する。音を立てずに扉へ近寄り、そっと様子を窺うと何かの音がする。やはり、扉の外に誰かが居る。
本当は扉の外に居る人物に見当は付いているが、自分の考えがあえて外れている事を願っていた。
無意識の内に息を止め、鼓動が徐々に早まるのを感じる。自身の城でありながら何故このような状況に置かれているのか、納得のいかない腹立たしさを抱えつつも、ゆっくりと扉を開けた。
雷の光りが廊下に佇む人物を浮かび上がらせる。叫び出しそうになる衝動を必死に抑え込み、引き攣った笑顔で何とか言葉を絞り出す。
「如何なされました。皇女殿下。」
そこには目の下に不健康な隈を作り、紛い物のような薄紫の瞳、病的なまでに透き通った白い肌、その顔は死人のぎこちない微笑みを連想させた。
無言で立ち尽くす皇女は、薄い寝間着にルームシューズのまま、例の如くお人形(意味不明なズタ袋)と共にそこに居た。城内の口さがない者達は、何かの標本だの、物言わぬ人形だのと揶揄していたが、本人は全く意に介していない。
「エリシアお姉様、わたくし何だか寝付けなくて、セフィードと相談いたしましたの。そしたらセフィードが言うには、お姉様のお部屋を、お伺いしては如何かと、勧められまして…。」
皇女殿下はズタ袋に話しつつ、こちらの様子を上目遣いに伺ってくる。さらにそのズタ袋を何度も頷かせたりして、意味不明な不気味さを増幅させていた。
「皇女様、斯様な時刻にそのようなお姿では、下々の者に示しが付きません。こちらに早く入って下さいませ。」
取り敢えず他の者に見つかる前に部屋に入らせ人目を避けることにする。
溜息が漏れそうになるが、なんとか耐える。少しは休めた筈なのに、もう既に疲れている自分に、またも溜息が出そうになる。
フェリエス・アルマティナ・フォン・アストリアは神聖アストリア皇帝ランバルト二世とアスティアナ皇后の第三皇女として誕生した。皇女は、何故か母アスティアナや祖母のエリサベートに全く懐く事が無く、乳母である使用人のマリエルにのみ、心を開いていた。勿論、他の兄弟や姉妹達にも全く懐く事もなく、いつも一人で静かに遊んでいた。笑う事もなく、怒る事もなく、ましてや泣く事など一度もなかった。
エリシアが皇女と初めて会ったのは、皇女が五歳の頃だった。産まれて間もない頃は誰も気付かなかったが、しばらくすると誰もが何か変だと感じていた。授乳期間から固形物に切り替わる頃から、その片鱗が見え始める。まず、乳母のマリエル以外には懐かなかった。皇后が抱きかかえようとすると、露骨に嫌がるのだ。これは他の侍女達でも同じことで、何故マリエルだけなのか分からなかった。一部の人間は、乳を分け与えたことで母親と勘違いしているのではと考えていが、本当の理由は誰にも分からなかった。
さらに不思議な事に一歳位になると、本を読んでやると異常にご機嫌になり、いつの間にか普通に喋り、部屋の中を執拗に這いずり回っていた。乳母の事をマリと呼び、皇后のことは母様と読んでいた。このとき皇后は泣いて喜んだという。ただ、抱きしめようとするとその小さな体を踏ん張り、頑なに抵抗した。この頃から、皇后も心が折れてしまったのか、フェリエスを無理に構うこともなく、当たらず触らずの距離で対応するようになっていた。
そんなある日、心が読めるギフトの噂を聞いた。皇帝と皇后は、皇女が何を考えているのか、何が問題なのかエリシアに確認して欲しいと願った。当時、先代の辺境伯は願いを受け入れる事を拒んだ。頼みを聞けば、単なる噂話から真実になってしまう。この対処を誤ると、非常に危険状況に置かれることは明白だった。人の心が読めるという噂が真実となると、暗殺される可能性が非常に高くなるからだ。
辺境伯自身は、娘のギフトがそんなに強力なものではない事を知っている。しかし、他の貴族からすると非常に危険で厄介な存在であることは間違いないのだ。自身の安全を考える貴族にとって、存在しては困る人物なのだ。
このとき皇帝と辺境伯の間で密約が交わされた。エリシアのギフトの件は既に知れ渡っている。ならば敢えてその能力に言及し、暗殺などの実力行使が必要ないと思わせることが肝要なのではないかと。その為に一芝居打ち、尚かつフェリエスも普通の娘であるという確証と、あらぬ噂が広まりつつある現状を、打開するための一手を打つのだった。