05:猫は鍵盤上を踊る
05:猫は鍵盤上を踊る
目の前に広がる光景は、幼いころに熱心に読んだ絵本の中そのもので。
長い長いテーブルには豪華な料理が並び、花や宝石で彩りを添えられたテーブルには、使うのが躊躇われる程の見事な細工が施されたフォークやナイフが複数並んでいた。
「マリア、食事は口に合うかい?」
「ん、は、はい!とても、おいしい、ですっ!」
「そう。ゆっくりお食べ」
「は、はい!」
あらぬことかマリアの席は、クランツ王子の隣。国王陛下並びに女王陛下の正面であった。
これで緊張しない娘がいるだろうか。
マリアは震える指で、ぎこちなくフォークとナイフを扱いながらなんとか目の前の食べ物を口にする。
おいしいはずなのだ。この国の中で一番腕のある料理人が作った最高の食事。
なのに、マリアの口の中では美味しいメインディッシュも、味が全くしなかった。
時折優しく声をかけてくれるクランツの言葉に返事をしながら、必死で目の前の料理を口にする。
話がうまくもない、女性らしいことの作法も完璧でないマリアにとって、料理の話や使用されている香草の名前など口にしようものなら墓穴を掘ってしまうことに変わりはなかったので、マリアには食べることしか意思表示の方法がなかったのだ。
「母さん、マリアには次の舞踏会でピアノの演奏をしてもらうことになっているんだ」
「まぁ……そうなのね。あなたが女性を連れてくるから、私はてっきり………ほほほ」
白いハンカチを口元に微笑むその姿はとても美しい。
茶色の髪の毛を惜しげもなく結い上げ、花で飾られた目の前の女性はどことなしか楽しそうにマリアを見つめる。この女性、若くみえるものの王子を生んで20年は過ぎているというから驚きだ。
「マリアの奏でる音色はとても美しく、繊細なんだ。きっと…母さんも父さんも気に入ると思う」
「そうか。……ところでクランツ、次回の舞踏会の趣旨は把握しているだろうな」
「あぁ、もちろん。舞踏会と銘打った他国との均衡を図るための交流会とでもいえばいいんだろ?」
「わかっていればよい。そろそろ…お前に全権を譲ろうと思っている」
国王陛下の言葉に、一瞬にしてその場の空気が変わった。
もちろん、人払いはしてあるものの必要最低限の給仕は控えているわけで。
国家機密ともいえる国王陛下の言葉に、マリアは口に含んだエンドウのソテーを噛むことなく飲み込んでしまった。
言われた当の本人は、無言で微笑みながら食事を続けるもんだから、部屋にはただ食事をする音だけが静かに響き渡たる。
何故、部外者がいる前でこのような重要なことを述べるのか。
そして、本当に自分はこの場にいてよかったのだろうか。
マリアはぐるぐると考える。
きっと聡い娘であれば、この答えも簡単にみつかるのだろうが、生憎出来損ないのレッテルを貼られている自分にはさっぱり答えを導くことはできない。
その間にもフォークを口に運ぶ手を止めることをしなかったことを唯一自分でも褒めたいぐらいだ。
「マリア」
「ん、ふぁい!」
いきなり声をかけられ、マリアは無我夢中で返事をする。
マリアの様子に、クランツは一瞬目を見開いたもののすぐに声をたてて笑った。
一瞬、なぜクランツが笑ったのかわからずそのままの状態で首をかしげるとクランツはゆったりと目を細めて面白そうにマリアの口元を指さす。
「?」
「マリア、そんなに慌てなくてもいいから」
「っ…!」
クランツの言葉に、マリアは一気に顔が真っ赤になる。
マナー講師から常に口酸っぱく言われていた。
『いつでも、誰に対しても、食事の際は口にものを含んだまま喋ってはなりませんよ』
『それは、子供でもしなような行為です!マリア様!何度言ったらわかるのですか!!』
見事に口にデザートのオレンジを咥えた状態である自分。
目の前には、この国の中枢にいる人達。
なんてことをしてしまったのだろうか。
目の前で急に真っ赤になったり、真っ青になったりする少女にその場の人々は一斉に笑みをこぼした。
「まぁまぁ…なんて可愛らしい子でしょう。ねぇ、陛下!」
「あぁ。マリア嬢、そんなに気を負わないように。私たちのことは気にせず、食事を楽しみなさい」
「娘ができたようだわ!うふふっ、演奏する時の衣装は私に任せてちょうだい。いいでしょう?クランツ」
「はい。母上におまかせしますよ」
楽しそうに会話する一家に、マリアも羨望をふくんだ、まるでまぶしいものを見るかのように、幸せそうな笑みを見せた。
***
「騒がしかった?」
「いいえ、国王陛下も…女王陛下もとても明るく、寛大な方々で…うれしかったです」
快晴の日の夜空は美しい。
無数の星々が輝く下、城のバルコニーに立てば夜風がふわりと髪を揺らす。
マリアの隣に立つクランツは先ほどとはうってかわってラフな格好で、眼下に広がる城下町を見つめていた。
マリアはちらりと横目で、彼の姿を見る。
整った顔と、真剣な表情。
美しい赤髪は月明かりに照らされて神秘的で。
家にいたときは、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。
田舎で、ただずっとピアノを弾いて。
きっとどこかの男性と結婚させられて、家庭にはいって。
「……ゆめ、みたいですね」
「ん?どうした?」
「い、いえ!……クランツ王子と隣に並んで立つなんて今まで夢にも思っていなかったので…」
例え、ピアノを弾くためだけに一時的にこの場に呼ばれたとしても、夢が覚めてしまうように一瞬だとしても。
「………私は、幸せも」
言葉がとまった。
いや、この世界の時がとまったのかもしれない。
優しい香りと、唇にふれる熱。
「っ…………」
「マリアは本当に可愛いね」
「!?く、クランツさ…ま?」
「さぁ、今日は疲れただろう。早く寝るといい」
「え、……あ……は、はい」
その後は記憶が定かではなくて。
気が付けばピアノの椅子に座って、頬をぴったりとピアノにつけていた。
「っ……わ、わたし…!」
思い出しただけで顔から火が出そうで。
その夜マリアは一睡もすることができなかった。