04:指揮棒は華麗に舞う
04:指揮棒は華麗に舞う
「王子」
「ん?」
午後の日差しが温かく降り注ぐ中、部屋の片隅で二名の男が黙々とペンをはしらせていた。
その静寂を破った一人は、ぐっと両手に力を入れると伸びをしながらもう一人の男を振り返える。
「よーやく、後宮に人をいれる気になったのか?」
鳥のさえずりが無音の空間にちちちと響き、もう一人の男のペンをはしらせる指がぴたりと止まった。
振り向くことはせず、ただ、淡々と言葉が紡がれる。
「……どういうことだ、ケイン」
「いや、そのままの意味さ。クランツ王子?」
にやりと口端を上げるのは、側近の証である黄金の十字のモチーフを襟につけた黒髪の青年。
こちらを振り向きもしない背筋を伸ばしたまま書類に向かう男の背を、おもしろそうに見た。
「美しい音色を奏でる小鳥を手に入れたとか。役人たちが騒ぎ始めてるぞ」
「………早いな」
「あぁ、そのうち国中の令嬢たちが騒ぎ始めるだろうなぁ」
カタリという音と共にペンが机の上に置かれると共に小さな溜息をはき、クランツは書類を数枚持つと後ろに座るケインに手渡した。
「お、否定しないのか」
「否定も肯定もしない……今のところは、な」
「ふーん……ま、いいけど」
「この三件は、早急に頼む」
「了解。了解っと…お、さっそく小鳥ちゃんの件か」
ケインは手渡された書類にさっと目を通すと何冊かの書籍を小脇に抱え、扉を開ける。
「では、今日はこれにて。クランツ王子」
「あぁ。頼むぞ…優秀な側近」
「はいはい。もう少し休みをくれたら嬉しいんだけど」
「俺より仕事をしてから言うんだな」
「ははは……遠慮しとく」
ケインが立ち去った後、クランツは本棚にある膨大な量の数冊を抜き取り机の上に並べる。
マリア・カインズをこの城に住まわせてから早一週間。ほぼ毎日、彼女に会わない日はないほど通いつめている自分がいた。
儚げな水色の瞳が真剣に追いかけるのは黒い音符の羅列。
細くしなやかな指がなぞるのは白と黒のコントラストの鍵盤。
呼べば顔を真っ赤にして、必死で喋る姿はとても愛らしい。
文字の羅列を追うクランツの瞳がとろりと溶けるように閉じられる。
風に乗って聞こえるのは、ピアノの旋律。
優しく、儚い音がクランツの脳内に響き渡った。
****
目が楽譜を追い、指が鍵盤を滑る。
マリアは一日の大半を自分に与えられた部屋の中でピアノに向かう日々を過ごしていた。
クランツから与えらえた楽譜を目の前に、指をはしらせる。
音楽界でも名高い音楽家が作曲と編曲を行ったこの曲は、難易度は中の上。
マリアの実力とほぼ同等のこの課題を、舞踏会で披露する。つまりは、ミスは許されないということで。
マリアは、ふぅと一息つくとピアノの鍵盤の蓋を閉じ、その上にうつぶせになった。
窓から吹き込む風が、その美しいブロンドの髪をふわりとすくってゆく。
「……どうしよう…」
小さすぎる呟きは、風の音にかき消されてしまう程で。
人生でこんな大役は二度とこないのではないかと思うほどの重圧がマリアの心を重くしていた。
クランツからの命令に背くつもりはない。
しかし、何故自分なのだろうか。その思いがぐるぐると支配する。
ここ最近は、クランツ王子が毎日顔をみせにやってくる日々だった。
慣れない土地にきたことを気遣ってのことだろう。
彼の優しさには、心を救われる。
真っ赤なあの燃えるような真紅の髪と、美しい黒い瞳を見れば、この城での孤独感も薄れてゆく。
それが何故かは解らない、けれど。
「……クランツ様」
ピアノの蓋を再び開け、指を滑らせる。
楽譜を無視し、感じたままに指を滑らせた。
この国の未来を背負うことになるであろう、あの麗しき青年を想いながら。
『優しい音ね』
「…………え?」
『すごく、優しい音』
不意に聞こえる軽やかな声。
マリアは鍵盤から指を離し、あたりを見回したが誰もいない。
侍女のアノだろうかとも思ったが、ピアノの練習の間は極力人を近づけないようにしてもらっているので、その可能性は低いだろう。
では、一体だれが……。
マリアの瞳が不安の色で陰る。
生まれてこの方、幽霊などといった類に出会ったことがないが今のがそうなのだろうか。
ぎゅっと自らのドレスを握り締めたときだった。
ドンドンというノックの音が響き扉が開く。
「っ……!」
マリアは真っ青な顔をして扉を見つめていた。
「マリア…?」
「く、クランツさま…」
「どうしたんだい?顔が真っ青だが…」
「い、いえ…なんでも」
一瞬にしてマリアを包み込む爽やかな香り。
「っ!?え?……」
「こうしてれば、少しは安心する?」
「っ…………!あ、あの!」
気が付けばマリアの身体はクランツの胸の内に抱きしめられていて。
思いもよらぬ事態に、じたばたとするマリアにクランツはクスリと笑い自らの腕の中で顔を真っ赤にする少女を覗き込んだ。
「もう、大丈夫そうだね」
「っ、あ、あの」
「それとも、もっといたい?」
「く、クランツさま!!」
マリアの様子に、クランツは微笑みながらゆっくりとその身体を離した。
「どうだい、ピアノの方は」
「は、はい…。なんとか、中盤までは大丈夫です」
「無理を言ってすまない」
クランツは、部屋の中央に置かれたグランドピアノに近寄ると優しい手つきでひとなでした。
「い、いえ……。あの、本当に…私なんかで…よろしいのでしょうか」
「あぁ……君にしか、できないんだ」
その瞳は磨き上げられた美しいピアノの鍵盤を見つめているものの、どこか遠くを見ているような気がして声をかけるのをためらわせるような、そんな雰囲気だった。
彼は何故、私に頼んだのだろう。
何故、私なんだろう。
「………マリア」
「はい」
「今日、夕食を共にしないか?」
「え…?」
「会わせたい、人がいるんだ」