毒の代償
背後で、誰かが倒れる鈍い音がした。
振り返る余裕はなかった。
生きているのか、死んだのか、
確かめる暇もなく、
ラザロは闇へと走った。
「……くそっ、腕が……」
焼けるような熱さが左腕を支配していた。
ラウルの放った最後の一閃。なまくらの剣を撥ね飛ばされた際、鋭利な刃先が肉を削いでいた。
傷口から溢れる鮮血が、指先を伝って泥の中に吸い込まれていく。
だが、止まっている暇はなかった。
ラザロは千切れるような痛みを無視して、ぬかるんだ夜の闇を駆ける。
脳裏に焼き付いているのは、自分を守るために石を掲げ、
闇へと消えたあの子供の、震える背中が、まぶたの裏から離れなかった。
空が、重く唸り声を上げた。
城門を出たあの日と同じ、冷たく、容赦のない雨が降り始める。
雨粒が傷口を叩き、痛みを増幅させる。
視界は白く濁り、どこまでが霧でどこからが雨なのかも分からない。
その白の向こうに、
彼が追う”命”があるのか、すでに”死”なのかも。
「おい!どこだ!」
ラザロはひたすらに叫ぶが、
雨音が声をかき消したかのように、
返ってくるのは無慈悲な”沈黙”だった
――またか。
また、この”沈黙”に置き去りにされるのか。
あの日の夜も、雨が降っていた。
離した自分よりも小さな手の冷たさだけを、この手が覚えている。
「頼む……………お願いだから、
返事をしてくれ………」
「こ……こ……」
その声は、雨粒が地面を叩く音よりも、ずっと脆かった。
「助けて………」
霧の向こうで、鈍い呻き声がした。
地面に伏せた子供の背には、矢が突き立っていた。
泥に濡れた肩が、小さく震えている。
その上に、影が立つ。
刃を逆手に構え、振り下ろそうとする影。
その小さな体が、前に倒れかける。
叫ぶより先に、
刃が振り下ろされるよりも前に、
ラザロの体は動いていた。
なまくらの剣と影の剣がぶつかり、
火花が散る。
(重い……)
片腕を負傷した身で、
相手の剣を受け止めるには、あまりにも重かった。
相手の腕が、震え、
刃が、わずかに逸れる。
「……っ」
ラザロは、押し返した。
足元が滑り、影の体勢が崩れる。
その瞬間、剣先が喉に食い込み、
皮膚と筋肉だけが、ずるりと削げた。
切れ味の悪い刃が、肉の奥で引っかかり、
ぐしゃり、と湿った音がした。
血が、霧の中に散った。
影は、何か言おうと口を開いたまま、
そのまま、ゆっくりと崩れ落ちた。
倒れた拍子に、フードが外れる。
ラザロは、その顔を見た。
——村で見た顔だった。
ラザロは、剣を剣帯に戻した。
残ったのは、後悔でも、罪悪感でもない。
ただ、
また一つ、
戻れない場所に踏み込んだ感触と、死体だけだった。
「大丈夫か……?」
「兄さん…………腕……血が……」
その響きが、耳の奥でひどく不快に震えた。
「俺のことを兄さんなんて呼ぶのはやめろ、
……俺は、誰かの兄でいられるような人間じゃない」
「それでも、兄さんは兄さんだ……」
子供は、震える手でラザロのボロボロの肩に、さらに強くしがみついた。
「助けてくれた。兄さんじゃなきゃ、誰が助けてくれたの」
子供の声は小さかったが、雨音に消されることはなかった。
「村のみんなは、家族もいない僕に石を投げた。
……でも、兄さんだけは違った。
だから……兄さんなんだ。名前なんて、知らない」
「……勝手にしろ」
ラザロは吐き捨て、子供を背負い直した。
左腕の感覚は、すでに薄れている。
熱を帯びた拍動だけが、そこに肉があると知らせていた。
「捕まってろ。街へ行く」
ぬかるむ闇の中を、ラザロは歩き出す。
目指すのは、街道の先にある国境近くの小都市だ。
正面の門へ行けば、傷だらけの男と矢を射られた子供など、
衛兵に止められるのが目に見えている。
それでも――
ラザロには、別の道が見えていた。
(……あいつが言っていた通りだ)
思い出したくもない声と一緒に、
不敵な笑みが脳裏を掠めた。
かつて、この街の近くを拠点にしていた頃。
略奪の合間に盗賊団のリーダーは、酒の混じった息でこう笑った。
「いいか、光が強い街ほど、影は深くて長い。表の門が閉ざされても、ネズミの通り道は必ずある。
そこを覚えている奴だけが、次の日の太陽を拝めるんだ。…………おい、聞いてるのか、―――」
リーダーが、隣にいた自分の肩を乱暴に叩く。
その呼び声を、ラザロは聞かなかったことにした。
門は閉じられていた。
それでも、夜の街には夜の入口がある。
ラザロは壁際の闇に身を滑り込ませ、
腐った木の柵の隙間を抜けた。
「どこに行くの……?」
「医者だ、……まともな看板は掲げていないがな」
路地は急に狭くなり、灯りが少なくなる。
湿った石壁に、古い血の跡が残っていた。
「ここ……?」
「帰りたくなる場所じゃない。だが、生き延びたいなら入るぞ」
ラザロは、扉を三度、短く叩いた。
間を置いて、もう一度。
内側で、何かが擦れる音がする。
「誰だよ……こんな朝っぱらに、
死体なら裏の川へ流しとけ。生きてるなら、診察料を置いてから喋れ」
隙間から漏れてきたのは、安酒と、鼻を突くような強い鉄錆の匂い
「……俺だ」
短い返事だった。
扉の向こうで、舌打ちが一つ。
「……生きてたのか。騎士様は、
立派な鎧を着て、白馬に跨って凱旋したんじゃなかったのか?」
「もうできるような立場じゃない………」
「だろうな。その様子じゃ、誰から逃げてきましたって感じか?」
「そんなとこだ」
「追手は?」
「まだ遠い。……と思いたいが…」
「”思いたい”で助かる命はねぇよ。
早く入れ、血が垂れると掃除がめんどくせぇ」
「ガキか……面倒なもん拾ったな」
「拾ったんじゃない。……殺されかけてた」
「同じだ。いるだけで、面倒が増える」
医者は背中の矢を見るなり、短く息を吐いた。
「運がいい。深くは入ってねぇ。
これをしっかり噛め」
医者は革のベルトを外し、子供の口に放り込んだ。
古びた革の匂いと、汗と脂の味が口いっぱいに広がる。
それから医者は、棚から小さな瓶を取り出し、
中の黒っぽい液体を唇の端から流し込んだ。
「ぶっ飛ぶほどじゃねぇ。……だが、痛みはぼやける」
子供の頬がじわりと赤くなり、
視線が定まらなくなった。
「…………死なないだろうな」
「死なせたら金がもらえねぇだろ。
まあ、死んだならそこまでの運だったてことだ」
思い出しかけた何かを、ラザロは噛み潰した。
子供の肩が強張る。
「……泣くな。叫ぶな。動くな
お前もガキ抑えとけよ」
「抜くぞ」
医者の手が、躊躇なく矢の根元を掴む。
ラザロは全体重をかけ、子供の細い肩を床に押さえつけた。
「っ……ッ!!」
革のベルトを噛み締めた喉の奥から、潰れた悲鳴が漏れる。
引き抜かれた瞬間、肉が裂ける不快な感触が、
押さえているラザロの手のひらにまで伝わってきた。
それはまるで、かつて握りしめた小さな手の感触のようだった。
「おい」
「おい、聞いてんのか、―――」
不意に、耳の奥で甲高い不協和音が鳴り響いた。
医者の唇は確かに動いたはずなのに、
その名前だけが、意味を持たないノイズとなって霧散する。
「……その名で呼ぶな………」
ラザロは低く、地を這うような声で言った。
耳鳴りは止まない。
だが、そのノイズこそが、「ラザロ」として生きるための防壁だった。
「……名前を変えたところで、過去は消せねぇぞ
そんなことより、治療費だ。子供の矢抜きと薬、それにその腕の縫合。……金貨一枚ってところだな」
ラザロは腰の袋から銅貨5枚を出す。
指の上で軽い音を立てる。
「今はこれしか……………」
一瞬だけ硬直し、それから鼻で笑った。
「冗談だろ……」
銅貨を見下ろしたまま、しばらく黙った。
「……そんな端金じゃ、ガキの瓶代にすらならねぇぞ」
医者は、血に濡れた手を布で拭いながら言った。
「だがな……仕事はある」
「正規の仕事か?」
ラザロの問いに、医者はこらえきれないといった様子で肩を揺らした。
「正規なわけねぇだろ。
依頼主は、この街の物流を牛耳ってる奴だ。
その商会の輸送隊が、北の街道で野盗に襲われた。
奪われたのは、ヴェネリアの英雄”クロード”が吐き出した”汚い金”と、
出所不明の積み荷だ」
かつての自分なら、その中身を問いただしただろう。
法に触れるものではないか。
民を害するものではないか。
正義という名の天秤にかけ、
納得できなければ剣を抜いたはずだ。
だが、今のラザロには、
その中身を吟味する権利すらない。
医者が差し出しているのは、救いではなく、
泥の中で生き延びるための”取引”なのだ。
「騎士団に泣きつけば、
積み荷の中身まで検分される……
だから、死んでもいい”外側”の人間を探してるのさ」
「報告します。
北の街道付近で、盗賊を確認しました」
甲冑の音を抑えながら、部下が片膝をつく。
「北の街道に現れた盗賊団は、
ヴェネリア側で掃討された残党と見られます。
現在、オズウェル領の森に潜伏中」
「……異端の巣だな」
部下は、喉を鳴らした。
「……もう一つ、報告が」
その言葉で、部屋の空気がわずかに張り詰める。
「先遣隊のラウルが、例の『裏切り者』と接触……。
ですが、仕留め損ねたようで、対象は負傷したまま北へ向かった模様」
ルートヴィヒの指が止まった。
「仕損じたか……。やはり、ラウルは優しすぎる。
かつての友に、最後の情けでもかけたか」
「直ちに増援を送り、街道先にある街を封鎖させますか?」
「いや、その必要はない」
ルートヴィヒは、書類から目を上げなかった。
その瞳に、怒りはない。
あるのは、計算だけだった。
「盗賊残党が潜む北の森。
そこへ、追放された騎士も逃げ込んだ。
……偶然とは思えんな」
ルートヴィヒは羽ペンを置き、
組んだ指の上に顎を乗せた。
「一つずつ潰すのは、時間の無駄だ。
ラザロが毒なら、その毒を異端の巣に流し込め。
追い詰められたネズミ同士、
共食いを始めるか……
あるいは、仲良く一つの穴に固まるだろう」
「情けは、人を殺す……」
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
自分の名前すらも「ノイズ」として拒絶し、泥の中に沈んでいく。
騎士としての光を失った彼に残されたのは、
金貨一枚にも満たない安っぽい命と、
捨てきれない良心だけでした。
医者が提示した「仕事」は、
彼にとって生き延びるための取引であると同時に、
さらに深く泥に踏み込むための入口でもあります。
もし、続きが気になる少しと思ってもらえたら、
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