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毒の行方

「―――兄さん!」


鼓膜を震わせたその声は、甘い夢を切り裂く刃のようだった。


ラザロが反射的に跳ね起きたとき、視界に飛び込んできたのは、

星明かりを背に必死に走ってくる、小さな影。

昨日、泥の中で銀貨を投げ与えた、あの子供だ。


「……っ、ハァ、ハァ! 逃げて、兄さん!」


子供の顔は、昨日の泥よりも黒い煤と、鮮烈な血の跡で汚れていた。

その背後、夜霧の向こうから、

不規則に揺れる複数の赤い光、

松明の炎が迫っているのが見えた。


「いたぞ! あの野郎だ!」

「ガキを追えば、やっぱり隠れてやがった!」


怒号が夜の静寂を汚していく。

ラザロは腰のなまくらを握りしめた。胸の奥で、宿屋の主人の冷たい声が蘇る。


「……あんたの存在自体が、俺たちには毒なんだよ」


俺が渡したあの銀貨が、この子の平穏を買い、

代わりに、俺たち二人の居場所を焼き払ったんだ。


「見つけたぞ……!

 お前を殺せば……俺らの村は助かるんだ!」


松明を掲げる男たちの顔は、憎しみよりも先に”恐怖”で歪んでいた。


「助かる……だと?」


ラザロの声は、霧に溶けて消えそうなほど静かだった。


「誰の差し金だ。誰が、あんたたちにそんなことを言った」


「決まってるだろ!

 領主、ルートヴィヒ・フォン・ワルトシュタイン卿の書状が届いたんだよ!」


 ――ルートヴィヒ・フォン・ワルトシュタイン。


その名が放たれた瞬間、ラザロの心臓が、氷の楔を打ち込まれたように跳ねた。


脳裏をよぎるのは、あの雨の断罪の日。

泥の中に錆びた鉄を投げ捨て、

ラザロを豚のように蔑む、あの理知的で色のない瞳。


「ルートヴィヒ……。あいつが……」


「そうだ! ワルトシュタイン卿の言葉は絶対だ!

『汚泥を放置すれば、やがて平原すべてが腐る。

 追放者を匿う村は、その一滴の毒と同じだ。

 反逆の意志ありと見なし、村ごと浄化する』ってなぁ!


「お前がこの村にいるだけで、俺たちは……俺たちの子供は、

 明日の朝には灰にされるんだよ!」



そうだ……俺は毒だ。

ここにいるだけで、

誰かの人生を腐らせる。


善意のつもりで差し出した手さえ、

すべては地獄への焚き付けにしかならない。


殺意を剥き出しにして迫る村人たち。

その手にあるのは、

昨日まで麦を刈り、

薪を割るための道具だった。

それが今は、

ただ一人の命を断つための凶器へと成り果てている。


「すまねぇな………でも恨むなら、

 この地獄を恨んでくれ…」


鍬が振り下ろされ、

空を切って湿った土を抉った。


ラザロの体は、思考よりも先に動いていた。

それは騎士として磨き上げた洗練された武技ではなく、

泥の中で生き延びるために骨に刻み込まれた、

獲物の隙を突く盗賊の身のこなしだった。


「――っ!」


一歩、踏み込む。

振り下ろされた鍬の柄を左腕で受け流し、剥き出しになった男の懐に滑り込む。

手にあるのは、なまくらの鉄剣。

だが、ラザロは刃を向けない。


固く握った拳で、男の顎を叩き上げた。


脳を揺らされた男の膝が、糸の切れた人形のように折れる。

続いて襲い来る二人目の横腹を、鞘を払ったままの鉄剣の柄で突き上げた。


「ガ、ハッ……!」


肺から空気を叩き出された男が、泥の中に転がる。

ラザロは斬らなかった。

肉を裂く手応えも、

血の熱さも、

今はまだ、この掌にはない。


ここで誰かを殺せば、俺は二度と、ボードゥアンの背中を追えなくなる。

騎士という仮面を剥がされ、

剣さえ奪われ、それでも手放さなかった最後の矜持が、

かろうじて彼に一線を越えさせなかった。


数分後、そこには立ち上がれる男はいなかった。

呻き声と、泥を噛む音。

松明の火が地面に落ち、夜霧を不気味な橙色に染めている。


「……ハァ、ハァ……」


荒い息を吐きながら、ラザロは剣を収めようとした。

だが。


「……兄さん。どいて」


氷のように冷たい声が、背中を打った。


振り返ると、そこには子供が立っていた。

さっきまで震えていたはずの小さな手は、

今、人の頭ほどもある鋭い石を掲げている。


その目は、もはや怯えてなどいなかった。

倒れ伏し、必死に息を整えている男を、

自分を殴ったあの男の頭部を、静かに見下ろしている。


「こいつを殺せば、終わるんでしょ?」


「……待て。やめろ」


「なんで? こいつらが死ねば、

 兄さんはもう逃げなくていいし、僕も殴られない。

 悪いのは、僕たちを殺そうとしたこいつらだ」


子供の瞳に宿っているのは、

純粋で、それゆえに逃げ場のない”殺意”だった。

善意を、銀貨を、希望を。

ラザロが与えたはずの光が、

この子供の中で、もっとも暗い復讐の炎へと形を変えていた。


「やめろ!」


ラザロは石を振り終わる前に、

子供を強く抱きしめた。


小さな体が、ラザロの腕の中で激しく震えた。

掲げられた石が、泥の上に力なく落ちる。


「……殺せば、お前も俺と同じ場所に来ることになる」


ラザロは、子供の耳元で掠れた声を絞り出した。


「ここから先は、地獄だ。

 ……俺一人で十分だ。お前は、まだ、そっちにいろ」


遠くで、また新しい松明の光が揺れた。

村の騒ぎを聞きつけたのか、

あるいはワルトシュタインの軍が近づいているのか。

いずれにせよ、素早く逃げなくては。


「おい、逃げるぞ!」


ラザロは子供を抱え、

急いで走り去る。


抱え上げた子供の体は、驚くほど軽かった。

それは、昨日投げ与えた銀貨一枚分の重みすら感じさせないほど、

脆く、頼りない生命の質量だった。


「……離して! 殺さなきゃ、また追いかけてくるよ!」


「追いかけてこないところまで行くんだ。いいから黙ってろ!」


ラザロは子供を背負い直し、霧の深い森へと足を踏み入れた。

背後では、倒れ伏した男たちの呻き声と、遠くから近づく馬蹄の音が夜の空気を震わせている。


森の奥深く、ラザロは肺が焼けるような痛みを感じながら走り続けていた。

背中の子供は、いつの間にか暴れるのをやめ、

ラザロの首に細い腕を回してしがみついている。その小さな心臓の鼓動が、

背中越しにトクトクと伝わってきた。


「……兄さん、ごめんなさい」


不意に、子供が耳元で小さく呟いた。


「僕が、銀貨なんて……あんなの、取り戻そうとしなきゃ……」


「……気にするな。あれは俺が勝手に投げたものだ」


ラザロは途切れ途切れの息でそう返した。

森の木々が、夜霧を吸って巨人のように行く手を阻む。

背後の馬蹄の音は、一度止まった。それは追跡を諦めた音ではない。

獲物の足跡を”精査”し始めた音だ。


「ルートヴィヒ……」


ラザロは口の中でその名を噛み締めた。

あの男のやり方だ。

自ら手を汚さず、村人に”恐怖”という刃を持たせ、

敵を炙り出す。

そして、疲弊しきったところを、

法の名の下に”掃除”する。


「おい、いいか。ここからは一人で走るんだ」


ラザロは森の切れ目、獣道が二手に分かれる場所で子供を下ろした。

子供の目はまだ恐怖に揺れている。

だが、ここで立ち止まれば二人ともルートヴィヒの「天秤」にかけられ、等しく切り捨てられるだけだ。


「この道を真っ直ぐ行け。川の音が聞こえたら、それに沿って下れ。大きな街道に出るはずだ。

そこなら、巡礼の馬車も通る……いいな、絶対に振り返るなよ」


「兄さんは……? 兄さんはどうするの!」


「俺は……”毒”の始末をつけなきゃならない」


ラザロはなまくらの鉄剣を抜き、わざと重い足音を立てて逆方向の茂みへと踏み込んだ。

子供を逃がすための囮。

それが、元盗賊で、元騎士の、今の自分にできる唯一の「正義」だった。


「行け!」


霧が一段と深くなる。

背後で子供が走り去る気配が消えた。それと入れ替わるように、

前方から冷徹な、しかし聞き慣れた金属の擦れる音が響く。


霧の向こうから現れたのは、馬上の兵たちではない。

一人の男だった。

整えられた鎧、泥ひとつ跳ねていない靴


「……やはり、そこか」


――ラウルだ。


城壁の下、あの日”間違えない場所”に立っていた男が、

今はルートヴィヒの猟犬として霧の中に立っていた。


「貴様、ルートヴィヒの犬に成り下がったのか」


ラザロの問いに、ラウルは表情一つ変えない。

ただ、霧を吸い込むように深く息を吐いただけだ。


「成り下がった?違うな、ラザロ。俺はあの日”生き残る方”を選ぶと言ったはずだ。

 あの方は合理的だ。あの方に従えば、無駄な死は出ない。

 ……お前一人が死ねば、あの村の連中も、あのガキも、明日には笑って過ごせる」


ラウルがゆっくりと剣を抜く。

その刃は、月明かりで鋭利に光った。ラザロの持っているなまくらとは、格が違う。


「お前の”良心”が、何人を危険に晒した?

 あのガキに石を持たせたのは、お前のその中途半端な慈悲だ」


「……あいつの計算には、人の心が入っていない」


ラザロは低く構えた。

肺は悲鳴を上げている。だが、不思議と心は凪いでいた。


ラウルが踏み込んだ。

速い。

鋭い金属音が夜の森に響き渡り、火花が霧を裂いた。

ラザロの錆びた剣が、悲鳴を上げるようにしなる。


「死ね、ラザロ。お前が死ぬことが、今の世界にとって唯一の”善”だ」


重い一撃を、ラザロは泥を這うような姿勢で受け流す。

かつての仲間であり、かつての同胞。

二人の剣が交差するたびに、奪い合ってきた明日と、誓い合った騎士の言葉が、音を立てて崩れていった。


「ルードヴィヒはどこだ?

 ……血の匂いもしない場所で、茶会か?」


「なぜここで死ぬ奴のために、

 教えなくてはならないのだ?」


ラウルの剣が、冷徹な一閃となって空気を切り裂く。

ラザロはなまくらの鉄剣でそれを受け止めたが、

衝撃が骨まで響き、痺れが肘を突き抜けた。

圧倒的な技の冴え。

ルートヴィヒの下で磨かれたラウルの剣は、もはや迷いも澱みもない、

完成された道具だった。


「……ハァ、ハァ……!やるじゃないか…」


ラザロの足が、泥に滑る。

次の一撃。

ラウルが大きく踏み込み、上段から断罪の重圧を込めて振り下ろす。

これをまともに受ければ、なまくらの刃など容易く折れるだろう。


(……今だ)


ラザロは、剣を支える手の力を不自然に抜いた。


「っ!?」


ラウルの顔に驚愕が走る。

打ち合った瞬間、手応えが消えたからだ。

渾身の力を込めたラウルの刃は、抵抗を失ったラザロの剣を紙切れのように撥ね飛ばした。


高く、宙を舞う鉄の棒。

それが回転しながら湿った土に突き刺さる鈍い音が響いた。


ラザロは勢いのまま、地面に膝をつく。

首筋には、ラウルの鋭利な刃が、

震えることもなく突きつけられていた。


「……なぜだ。なぜ、防ぐのをやめた」


ラウルの声に、初めて戸惑いの色が混じる


騎士としての死闘。その果てにあるはずの”勝利”という手応えが、

ラザロの無抵抗によって空虚なものへと書き換えられたからだ。


「言っただろ。……お前が正しい場所で生き残れるなら、俺の死にも価値が出る」


ラザロは、喉元に触れる冷たい刃を気にする様子もなく、穏やかにラウルを見上げた。

その瞳には、かつて二人でボードゥアンの背中を追っていた頃のような、透明な信頼が宿っていた。


「殺せよ、ラウル。お前を『間違えない場所』に立たせてやるのが、俺にできる最後の騎士道だ」


「…………っ!」


ラウルの手が、目に見えて震え始めた。

合理的で、冷徹なルートヴィヒの論理。

それに従っていれば、自分は正義の側にいられるはずだった。


ラウルの剣先が、ラザロの喉元でかすかに震える。

その微かな金属の震動が、

今のラウルが抱える迷いのすべてだった。


「……ふざけるな。……ふざけるな、ラザロォ!」


ラウルは叫んだ。

それは騎士の咆哮ではなく、

信じてきた世界の足場が崩れゆく子供の悲鳴に近かった。


「お前がそうやって”善人”として死ねば、俺はどうなる!

 お前を殺して生き残る俺は、ただの薄汚い裏切り者じゃないか!」


「……それでいいんだ、ラウル」


ラザロが静かに目を閉じた。

その瞬間、ラウルの視界から”敵”としてのラザロが消え、

記憶の中の”友”が色鮮やかに蘇る。

雨の日、共にパンを分け合った夜。

ボードゥアンの厳しい稽古の後、

川の字になって眠った夕暮れ。


ラウルの剣先が、数センチ、泳いだ。

完璧に計算されたルートヴィヒの”正解”に、致命的な余白が生まれた瞬間だった。


――その刹那。


ラザロの閉じていた瞳が、猛禽のような鋭さで開かれた。


「悪いな、ラウル。……地獄への道連れは、まだ先だ!」


膝をついていたラザロが、突如石を投げた。


「なっ……!?」


その瞬間、石がラウルの視覚を赤く染めた。

ラウルは反射的に顔を背け、剣筋が大きく乱れた。


騎士としての誇りを説き、

友としての情に訴えかけ、

相手の心を極限まで揺さぶる。

そのすべてが、この一瞬の”隙”を生み出すための、元盗賊としての残酷な計算だった。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


騎士の名を剥がされたラザロは、

今回、ルートヴィヒによって「毒」と定義されました。善意で差し出した銀貨で、守ろうとした子供に石を握らせる。

その因果を突きつけられた彼にとって、もはや「正義」は手の届かない場所にあるのかもしれません。


今後、ラザロはこの「毒」という呼び名を、呪縛として、あるいは新たな武器として背負い、

泥の中を歩んでいくことになります。

この物語では今後も、「毒」という言葉が、

誰かを切り捨てるために、

そして“関わらないこと”を選ぶための理由として使われていきます。


見て見ぬふりをすることは、

本当に罪ではないのか。


その答えは、この先で、

ラザロ自身が痛みとして知ることになります。


もし、続きが気になる少しと思ってもらえたら、

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