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喪失

帝都から離れるにつれて、道が荒れていく。

城壁の影が完全に消え去るまで歩き続けた頃、

雨はようやく勢いを失い、

代わりに肺の奥まで凍てつかせるような霧が道を包み込み始めた。


足取りは重い。

それは雨を海綿のように吸った衣服のせいだけではなく、

腰にぶら下げられた“鉄の棒“のせいでもあった。


断罪の場で投げ与えられた、

錆びた鉄剣。

かつてボードゥアンから授かった、

神の意志を示す言葉が刻まれた剣に比べれば、

それはただの重石に等しかった。

だが今は、このなまくらだけが、

夢から醒めきらずに済むための重りだった。


「……ハァ、ハァ……」


立ち止まり、激しく咳き込む。

咳とともに、胃の奥がきしんだ。


温かい食事に慣れた腹は、

霧の冷たさでは誤魔化せないらしい。


数年前なら、

泥水を啜ってでも、

腐ったパンを食べてでも、

三日三晩は走れたはずなのに。


「……戻っただけだ。

 何も、失ってなどいない」


そう言い聞かせなければ、

立っていられなかった。


自分に言い聞かせるが、声はすぐ消えた。


街道の脇に、ひっそりと白い花が咲いていた。

叩きつけるような雨に打たれ、

誇りなどとうに剥げ落ちているはずなのに、

まだ細い茎をのばしながら、

こんな世界でも“生き残ろう“としている。


「馬鹿だな……」


……昔も、こんな花を見たことがある。

まだ小さかった頃、

誰かが摘んで「これ、きれいだろ」と

笑っていたやつがいた。


何について笑っていたのかも、

どんな会話だったかすらも、

それが誰だったのかも、

今は、思い出さないようにしている。


俺は視線を逸らした。

触れもしないまま、歩き出す。

花びらが一枚、

風に飛ばされて俺の足元に落ちた。


踏まないように、そっとよけて、

通り過ぎる。


俺は見知らぬ村に辿り着いた。


寄せ集めの石と、腐りかけた木材で組まれた、

墓標のような村だった。

騎士団の白馬で駆け抜ければ、

数瞬で通り過ぎてしまうほどの小さな集落。


だが、徒歩で辿り着いたこの場所は、

ひどく“遠く“感じられた。


村の入り口に立つと、

その視線は、

かつて城門で浴びた”歓声”とは違う。


期待でも、敬意でもない。


ただ、

「厄介ごとが来た」

という類のものだった。


井戸端にいた女が、

子供の肩を引き寄せる。


男たちは、

こちらを見ないふりをしながら、

それでも歩調をわずかに速めた。


「……違う」


そう言いかけて、

口を閉じる。


訂正するほどの言葉を、

俺はもう持っていなかった。


騎士ではない。

だが、

盗賊でもない。

どちらの居場所も、

この村にはなかった。


村外れで、道はゆるやかに川へ落ちていた。


雨上がりだというのに、

そこを流れる水は不思議なほど澄んでいて、

底の小石まで、はっきりと見えた。

濁りは、すでにどこかへ流れ去ったらしい。


俺は膝を折り、

川縁にしゃがみ込んだ。


水面に映ったのは、

見慣れたはずの顔だった。

だが、

城門の下で誓いを立てていた頃のものとも、

泥の中で明日を奪い合っていた頃のものとも、

どこか違う。


削ぎ落とされたものだけが残ったような顔。

名も、肩書きも、

剣に刻まれた言葉すらも映さない、

ただの”人間”の輪郭。


俺は、

その顔をしばらく見つめていた。


水は、何も問いかけてこない。

期待も、

失望も、

裁きすらもない。


ただ、

そこにあるものを、

あるがままに映しているだけだ。


指先で水に触れると、

輪郭はゆっくりと崩れ、

すぐにまた静かに戻った。



村に戻った頃、

村人の怒号が村中に響き渡った。


「このクソガキが!また食べ物を盗みやがって!

これはうちの子のなんだぞ!」


「お前みたいな”ゴミ”がいるから、

この村はいつまでたっても楽にならねぇんだ!」


囲まれた子供は、

言い訳も、涙も、もう出てこない顔をしていた。

蹴られるたびに、小さな身体が土の上を転がる。


止めに入る者はいない。

誰もが”正しい側”に立っているつもりだった。


この村では、

これが当たり前で、

それ以外のことを知らないのだ。


俺は一歩、踏み出しかけて、止まった。


ここで剣を抜けば、

俺はまた”騎士”になる。


ここで目を逸らせば、

俺は”元の自分”に戻る。


あの背中を思い出してしまった時点で、

もう逃げ場はなかった。


俺は、

剣から手を離した。


代わりに、

殴り上げられた腕の前に出る。


「……もういい」


声は、自分でも驚くほど低かった。


男がこちらを見る。

初めて、

”異物”を見る目だった。


「何だてめぇ、関係ねぇだろ」


その通りだ。

関係ない。


それでも


俺みたいな人間をこれ以上増やしたくないだけだ。


「ほら、これで許してやってくれないか?」


腰の袋から、銀貨を一枚取り出して投げる。

地面を転がったそれは、男の足元で止まった。


「それでも足りないのなら、

俺を殴れ。痛みには慣れてる」


「チッ 運がよかったな…」


男たちの足音が遠ざかり、

取り囲んでいた村人たちも、興を削がれたように散っていく。

そこにあるのは正義の達成感ではなく、

ただの日常への回帰だった。

村には再び重苦しい静寂が戻る。


残されたのは、

なけなしの銀貨を失った俺と、

泥まみれの子供だけだった。


「大丈夫か……?」


子供は少しだけ頷き、地面に落ちた干し肉を少し分けてくれた。


「あ………ありがとう」


感謝か………

その言葉を聞いたのは、

何か月ぶりだろうか。


子供はそれだけ言うと、

逃げるように細い路地の奥へと消えていった。


掌に残されたのは、土の匂いが混じった小さな干し肉の欠片。

俺はそれを口に放り込み、

ゆっくりと噛み締める。

酷く塩辛く、そして硬かった。

だが、その刺激だけが、今の俺が生きていることを実感させてくれた。


小腹を満たし、俺は村唯一の宿屋に向かった。

せめて一日、

屋根の下で眠りたかった。


宿屋の扉を開けると、

安酒と、獣臭が鼻をつく。


カウンターの奥で、煤けた布を弄んでいた主人が顔を上げた。

俺の姿を上から下まで、

舐めるように値踏みする。

そして、その視線が俺の腰にある剣に止まった瞬間、

そいつの瞳から感情が消えた。


「……一晩、頼みたい」


俺が口を開くより早く、そいつは顎で出口を指した。


「あいにくだが、空きはねぇよ」


嘘だ。俺の背後、

薄暗い酒場には空席が目立っている。

二階へ続く階段に、

人の気配も、暖かな寝具の匂いもない。


「……金なら払う。銀貨はないが、これなら」


俺は袋に残った数少ない銅貨を差し出そうとした。

だが、主人はそいつを手で遮り、ひどく冷めた声で吐き捨てた。


「あんたみたいな”厄介者”を置いといて、

 夜中に村の連中が殴り込んできたら、うちの店が保たねぇんだ。

 さっきの男は執念深い。……あんたが何を言おうが、

 あんたの存在自体が、俺たちには毒なんだよ」


毒か。

その言葉が、なまくらの剣よりも深く胸に刺さった。

俺は差し出しかけた手を、静かに引っ込める。

反論する言葉も、食い下がる気力も、

もう残っていなかった。


「……そうか」


背を向けて店を出ると、

外はいつの間にか暗くなっていた。

村の窓からは、次々と灯りが消えていく。

どの扉も、どの窓も、俺を拒むように固く閉ざされていた。


結局、俺が辿り着いたのは、川だった。

村の灯りが霧の向こうに遠ざかり、

人の気配が完全に消えた場所に、その巨木は立っていた。

雨に洗われた葉が、

夜風に揺れて微かな音を立てている。


俺は樹の根元に腰を下ろし、湿った地面にマントを広げた。

背中に伝わるゴツゴツとした樹皮の感触が、

宿屋の主人の冷たい視線よりも、今はいくらか優しく感じられた。


腰の袋を弄る。

残っているのは、数枚の銅貨だけだ。

帝都の華やかな市場なら、一瞬で消えてなくなるような端金。


「……はぁ」


深く息を吐き、俺は樹に頭を預けて顔を上げた。


そこには、息を呑むような星空が広がっていた。


雨雲を霧が押し流したのか、

空はどこまでも深く、

澄み渡っている。

帝都の城壁の上から眺めた星よりも、

ずっと近く、そしてずっと冷酷に輝いていた。


あの星の光は、

俺が騎士として叙任された夜も、

そして全てを奪われ、ここに辿り着いた今夜も、

あの日の夜も、

何一つ変わらずにそこにある。


人間が何をし、何を失おうとも、

星はただ、あるがままに光を放っているだけだ。

それは、さっきの川と同じだった。

期待も、失望も、裁きもない。

ただ、そこに俺という人間がいることを、

無言で照らしている。


「きれいだ」


ふと、昼間に見た白い花を思い出す。

あいつも今頃、この星空の下で、

誰に褒められることもなく茎を伸ばしているのだろうか。


俺は袋に残った銅貨の感触を、指先で確かめる。

かつての俺なら、従者の酒代にでもと投げ与えていた端金だ。

だが、今の俺にとっては、それが「俺の命の残り時間」そのものだった。


銀貨を、あの男に投げていなければ。

脳裏をよぎった卑屈な後悔を、

夜霧と一緒に飲み込んで吐き出した。


銀貨で子供の未来を買えたのか、

あるいは俺の安眠を捨てただけだったのか。

今の俺に、それを測る秤はない。


俺は剣を抱きしめるようにして、マントを深く被り直した。

硬い樹の根が、背中に痛いほど食い込む。

宿屋のシーツの香りはしない。

暖炉の火照りもない。

あるのは、濡れた土の匂いと、

肺を刺す冷たい空気だけだ。


だが、不思議と心は穏やかだった。


明日もまた、道は荒れているだろう。

空腹はさらに鋭く、

身体はさらに重くなっているはずだ。

それでも、この星空の下で、あの花と同じように夜を越える。


俺はゆっくりと目を閉じた。

意識が闇に沈んでいく間際、遠くで川のせせらぎが聞こえた気がした。

それは、誰の耳にも届かない、

小さな、けれど確かな”世界”の音だった。



まどろみの中で、冷たい夜風は、いつの間にか柔らかな日光に変わっていた。


そこは、帝都の喧騒も、錆びた鉄の匂いもない場所だった。


「見て。これ、きれいだろ」


聞き覚えのある声。

振り返ると、そこには泥にまみれた白い花を差し出し、鼻の頭を汚して笑うあいつがいた。

まだ小さく、騎士の剣の重さも、世界の残酷さも知らなかった頃の姿。


俺は、その花を受け取ろうと手を伸ばす。

だが、俺の手は汚れすぎていた。

指先が触れる直前、あいつの笑顔が陽炎のように揺らぎ、遠ざかっていく。


「起きて!ねぇ、起きて!」








「―――兄さん!」

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


道端に咲いていた白い花は、アネモネをイメージしています。

花言葉にはいくつか意味がありますが、この物語では

「希望」と「見捨てられたもの」の両方を背負わせました。


踏まれやすく、誰にも気に留められない場所でも、

それでも折れずに咲いているものがある。

彼自身も、まだその段階にいるだけなのだと思っています。


そして最後に響いた、彼を呼ぶ声。

すべてを失い、ようやく「ラザロ」というただの人間として眠りにつこうとした彼を、

過去の残響が逃がしてはくれませんでした。


名前を捨てラザロとして生き返った理由も、

彼が子供に手を差し伸べてしまう理由も、

“良心”を捨てきれずにいる理由も、

そこがきっかけかもしれません。

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