再始動
初投稿です。
本作は「長い年月をかけて歪んでしまった宗教・世界」に抗う、
追放された元騎士の旅の物語です。
流血表現・宗教モチーフがあります。
人が人としてどう生きるかを描く物語を目指しています。
ヴィンランドサガ・ベルセルクのような空気感が好きな方には、刺さる部分があるかもしれません。
「Deus Vult(神がそれを望む)」
剣を奪われたのは、断罪の宣告が下されるその瞬間だった。
降りしきる雨の中、城壁を伝う水が泥を溶かし、
この場で行われる“正義”を、世界が涙で洗い流そうとしているかのようだった。
剣帯から無造作に引き抜かれた剣は、ボードゥアンの形見だった。
幾度も手入れされ、鍛え上げられたその刃には、神を信じる者たちの心を燃やす「Deus Vult」の言葉が確かに刻まれている。
それが、今、血統の威を借りる貴族の手によって、まるで穢れたもののように扱われる。
「見よ、この剣を」
貴族の背後には、
見物人と、
命令に従うだけの騎士たちが、
濡れた石畳の上に並んでいた。
誰もが、俺ではなく、俺の“罪”だけを見ている。
その列の端に、
見覚えのある顔があった。
ラウルだ。
雨を避けるでもなく立ち尽くしている。
視線が合った瞬間、
ほんのわずかに、
彼の眉が動き、目を逸らした。
それだけだった。
助けに来たわけでもない。
抗議するでもない。
剣に手をかけることすらない。
ただ、
そこに“いた”。
――ああ。
生き残る方を選ぶ男は、
こういう時、
“間違えない場所”に立つ。
俺は、
そのことを知っていたはずなのに、
なぜか胸の奥が、
ひどく冷えた。
傲慢な声が、雨音を切り裂いて響く。
「神がそれを望む、か。
……随分と都合のいい言葉だな。
盗賊崩れの腰にぶら下がるには」
貴族の顔は歓喜に歪んでいた。
俺の、いや、ボードゥアンの剣が、まるで証拠品のように高く掲げられる。
雨粒がその刃を滑り落ち、キラリと光を反射するたび、
俺の胸に焼き付いた村の炎が蘇った。
あの時、俺は正しかったはずだ。
殺されるはずだった子供たちを、確かに救った。
それが、この国の「正義」ではなかったのか?
だが、目の前の貴族たちは、まるで俺が最も忌まわしい豚であるかのように、嘲笑を投げつける。
「貴様の血は、この聖なる城を汚す。
故に、追放する」
判決は簡潔だった。
そして、無造作に足元に投げ捨てられたのは、見慣れぬ一本の剣。
錆びつき、刃こぼれした、どこにでもある「普通の鉄剣」。
泥の中に半ば埋もれたそれが、俺に残された唯一の『武器』だった。
泥に沈んだ鉄剣を見つめる俺の視界が、
雨の冷たさに滲み、過去へと引きずり戻される。
——あの日も、こんな雨だった。
月のない夜。
雲が低く垂れ込み、森も街道も、
まるで世界そのものが闇に沈んでいた。
盗みに入った隊商の荷は、思ったよりも重かった。
金になると思った樽の中身は、
乾ききった保存食ばかりだった。
それでも、俺は抱えて走った。
空腹より、仲間に“役立たず”と切り捨てられることの方が、
ずっと怖かったからだ。
だが、石に足を取られた瞬間、
乾いた音がして、足首がねじれた。
立ち上がろうとしても、
体は言うことをきかず、
泥の中で、獣のように逃げるしかなかった。
置いていかないで。
仲間の背中は、
振り返りもしなかった。
そのとき、
靴が地面を叩く音がした。
重く、ゆっくりとした足取り。
逃げ場はなかった。
俺は歯を食いしばり、
せめて“みっともなく泣き叫ばない”ことだけを守ろうとした。
目の前に立ったのは、
一人の騎士だった。
雨に濡れた白髪混じりの髪と、
皺の刻まれた額に、
剣を振るってきた年月が滲んでいた。
「……生きたいか」
俺は答えられなかった。
ただ、雨の中で息を整えることしかできなかった。
しばらくして、
彼は俺の顔をまじまじと見つめ、
ぽつりと呟いた。
「名前は」
「……ない」
俺は、そう答えた。
盗賊の仲間に呼ばれていた名はあったが、
それを“自分の名前”だと思ったことはなかった。
いや、思いたくなかった。
彼は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、
それから言った。
「なら、今日から“ラザロ”だ」
「……死んだと思われていた人間が、
もう一度呼び戻される時の名だ」
俺は、その名を聞いて、
なぜか胸の奥が痛んだ。
生き返っていいのは、
俺じゃない。
そう思った理由を、
その時の俺は、
言葉にできなかった。
ただ、
雨の中で「ラザロ」と呼ばれ、
その名と一緒に肩にかけられた外套の温もりだけは、
俺の中に、はっきりと残った。
それが、
初めて触れた“人の善意”だった。
——その夜、
俺は初めて、
生き延びるのではなく、
“生きていい”と言われた気がした。
それから数か月。
あの人は俺に、一本の剣を渡した。
「これは、俺が若い頃に誓いを立てた剣だ」
刃には、
『Deus Vult』の文字が刻まれていた。
「この言葉はな……」
彼は焚き火を見つめたまま、少し間を置いた。
「“神が戦えと命じている”って意味で使われることが多い」
そう言ってから、
自分でも可笑しいと思ったのか、
かすかに口の端を歪める。
「だが俺は、そうは受け取っていない」
「神が世界を創ったなら……
まだ、この世界を見捨ててはいない、
そう思いたいだけだ」
「だから、
この剣を振るうときは、
憎しみのためじゃなく、
まだ救われる余地があると“信じたい何か”のために振れ」
「まぁ……結局のところ、
神の言葉なんてのは、
受け取る側の都合で形を変えるもんだ」
それから季節が巡り、
その背中を追いかけるうちに、“逃げ場”は“帰る場所”に変わっていった。
春になると、
彼は村々を巡る護衛の仕事に俺を連れていった。
盗賊だった俺は、
村の視線が怖かった。
水を差し出されても、
毒が入っている気がして、口をつけられなかった。
誰かが石を投げた。
だが、
彼は一度も剣に手をかけなかった。
二年目の夏、
俺は、
人を斬るのが初めてじゃない。
それでも――
今日のこれは、
あの時と同じだった。
盗賊団の残党だった。
相手の刃が、
ボードゥアンの喉元に迫った瞬間、
俺の体は勝手に動いた。
剣が、
思っていたよりも簡単に、
人の体を裂いた。
倒れた男の目は、
驚いたまま動かなくなった。
俺は、
震える手で剣を落とし、
吐いた。
その瞬間、
なぜ吐いたのか、
自分でもわからなかった。
その日、
ボードゥアンは何も言わなかった。
ただ、
俺の吐瀉物が乾くまで、
隣に座っていた。
「……斬ることを、誇るな」
しばらくしてから、
それだけ言った。
「だが、
背負ったことから逃げるな」
三年目、
彼の動きは、目に見えて鈍くなった。
傷が癒えるのが遅くなり、
息が切れるのも早くなった。
それでも、
村が襲われると聞けば、
彼は黙って立ち上がった。
「俺は、世界を平和にしたいわけじゃない」
ある夜、
焚き火を挟んで、
彼はそう言った。
「ただ、
俺の目の前で泣いている誰かを、
見捨てたくないだけだ」
その背中は、
剣よりも、
ずっと重たく見えた。
それから幾度目かの巡回の折、
俺たちは街道から外れた、
人の寄りつかぬ古い炭焼き小屋に泊まった。
風を避けるだけの、
壁に穴の空いた小屋だったが、
焚き火を起こせば夜は越えられる。
扉の外で、
枝を踏み折る音がした。
俺が剣に手をかけるより早く、
ボードゥアンが静かに手で制した。
扉を開けると、
そこにいたのは武装した兵でも、
獣でもなかった。
ぼろ切れを重ね着した若い男と、
腕に抱かれた赤子。
その背後で、
女が膝をつき、
息を荒くしていた。
逃げてきたのだと、
説明はいらなかった。
男の目は、
俺がかつて見たことのある色をしていた。
飢えと恐怖で濁りきった、
“助けを乞う余裕さえ失った目”だ。
「……追われてるのか」
俺の口から、
そんな言葉が漏れた。
男は何も答えず、
ただ赤子を強く抱きしめた。
その小さな体が、
かすかに震えているのが見えた。
「入れ」
ボードゥアンは、
短くそう言った。
「だが――」
横にいたラウルが、
舌打ちする。
「赤子がいる。
泣けば終わりだ」
「分かっている」
「分かってて言ってるなら、
なおさらだ」
ラウルは焚き火の前に腰を下ろし、
顔を背けた。
「俺は、生き残る方を選ぶ。
……誰かの“正しさの”ために、死にたくはない」
それでも、
ボードゥアンは扉を大きく開けた。
「生き残るために、人を見捨てるのは……俺のやり方じゃない。
……それが、どれだけ馬鹿でもな」
男は何度も頭を下げ、
女はその場に崩れ落ちた。
赤子は、
泣かなかった。
まるで、
この場所が“安全ではない”ことを、
生まれたばかりの体で悟っているかのように。
その夜、
俺は眠れなかった。
焚き火の向こうで、
ラウルが低い声で言った。
「……あの人は、
いつもそうだ」
「そう、って?」
「救う。
理由なんて後からつける」
その言葉に、
俺は何も返せなかった。
――翌朝、
俺とラウルは、
近くの村まで物資を取りに行った。
村の様子を探る名目だったが、
正直に言えば、
あの小屋に残る勇気がなかっただけだ。
嫌な予感は、
背中に張りついて離れなかった。
帰る途中、
遠くの森の向こうに、
薄い煙が立ちのぼるのが見えた。
俺は、
走った。
息が切れ、
視界が揺れ、
足がもつれる。
炭焼き小屋は、
半ば焼け落ちていた。
壁は崩れ、
屋根は落ち、
焚き火の跡だけが踏み荒らされていた。
「……くそ」
ラウルが、
歯を噛みしめる。
小屋の奥、
倒れた梁の下で、
ボードゥアンが横たわっていた。
鎧はへこみ、
血と泥にまみれている。
それでも、
まだ息はあった。
俺は駆け寄り、
膝をついてその体を抱えた。
「……戻るな」
掠れた声が、
喉の奥から漏れた。
「……追うな」
俺の顔を見て、
ボードゥアンは、
かすかに目を細めた。
「……あの家族を、
責めるな……」
俺は、
頷けなかった。
だが、
首を振ることも、
できなかった。
「どうして……」
声が、
震えた。
「あいつらは……生きようとしただけだ……」
それだけ言うと、
あの人の視線は、
もうどこにも焦点を結ばなくなった。
ラウルは、
剣を抜いたまま、
動かなかった。
その夜、
俺は初めて、
“守るために離れた場所”で、
誰かを失った。
俺は城門を出た。
城壁の影から一歩踏み出した瞬間、
世界は俺のことを忘れたように静かだった。
石畳は途中で途切れ、
帝都の整った道は、
泥と水たまりの道に変わっていた。
振り返っても、
門はもう見えない。
閉じる音すら聞こえなかった。
胸の奥で、
何かが音もなく剥がれ落ちる。
騎士の名も、
誓いも、
剣に刻まれた言葉も、
すべて城壁の向こうに置いてきたはずなのに、
なぜか肩だけが、
まだ重かった。
足元で、
かすかな気配が動いた。
荷袋に伸びる、小さな手。
振り向くと、
痩せた子供が立っていた。
逃げ道を探るような視線。
殴られるか、見逃されるかを測る目。
――ああ。
俺は、
こんな目で世界を見ていた。
俺が一歩近づいた瞬間、
子供は身を引き、
ぬかるみに足を取られて転んだ。
思わず、腕を掴んで起こす。
軽い。
生きているのに、
生き物の重さがしなかった。
「……盗むつもりだったのか」
子供は答えなかった。
否定する言葉を覚える前に、
この場所では手の方が先に動く。
俺は腰の剣を見下ろし、
それから荷袋に手を伸ばした。
乾いた保存食を一つ取り出し、
泥の上に落とす。
子供は一瞬だけためらい、
それでも腹の音に負けたように掴み取り、
何も言わずに走り去った。
振り返りもせず、
礼も残さず、
城壁の影に溶けて消える。
もう、二度と会わない。
この世界は、
人の善意を覚えていてくれるほど、
優しくない。
胸の奥が、
ゆっくりと冷えていく。
――追放されたんじゃない。
俺は、
元いた場所に戻されただけだ。
城壁の内側で過ごした時間は、
俺にとっての“例外”だった。
本来、
俺はこの泥の上で生きる側の人間だ。
裏切られ、
見捨てられ、
それでも明日の食い扶持を探して生きる側の人間だ。
あの人は、
そんな場所で剣を抜かなかった。
……いや、
ボードゥアンは、
そういう男だった。
信じた。
匿った。
それで、殺された。
あの人は、
間違っていたのだろうか。
――もし俺が、ここで剣を捨てたら。
あの人の慈悲は、
ただの愚かさになる。
裏切りこそが現実で、
信じることは間違いだったと、
この世界の言い分を
そのまま認めることになる。
それだけは、
できなかった。
俺は剣の柄を握った。
それでも、
何もしない自分に戻るのが、
何より怖かった。
誇りのためじゃない。
騎士の名のためでもない。
ただ、
あの人の生き方を、
間違いだったと言わせないために。
それがどれだけ愚かでも、
この世界ではどれだけ損でも、
それでも。
俺は歩き出した。
ここが、
俺の元いた場所だ。
だから、
ここから始める。
かつての自分に戻らぬために。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ラザロの「守るために剣を取る」という選択は、
この物語の中で、これからもずっと尾を引いていきます。
それは正義だったのか、ただの自己満足だったのか。
彼自身も、まだ答えを持っていません。
次話からは、旅の色が濃くなっていきます。
この世界で人としてどう生きるのか、
彼が悩み、迷い、時に間違いながら進む物語になります。
合わないと感じたら、ここで離れてもらって構いません。
それでも続きを読んでくれる人がいたら、
最後まで、誠実に書き切りたいです。




