第12話 小さな手でできることを
拠点の裏手。
朝のうちはまだ薄曇りだった空の下で、マールはハンナ婆さんと並んで洗濯をしていた。
桶の中でぱしゃぱしゃと水をはねさせながら、小さな手で一生懸命に布を揉む。冷たい水に指先が少し赤くなっていたが、マールは眉一つひそめず、黙々と作業を続けていた。
「ほんと、あの男どもはねぇ」
隣で洗濯板を叩きながら、ハンナ婆さんがふん、と鼻を鳴らす。
「ちょっと油断すると、すーぐ洗濯をサボるんだから。剣や鎧の手入れは一丁前なのにさ」
「えへへ、そうですね」
マールは小さく笑った。
「だから今はマールがいてくれるから助かってるよ。ありがとね」
そう言われて、胸の奥がぽっと温かくなる。
「……うん。マール、てつだうの、すき」
ハンナ婆さんは一瞬目を細め、優しげに頷いた。そのとき、ふと空を見上げて言う。
「……あちゃあ。こりゃあ、雨が来るね」
言葉どおりだった。しばらくもしないうちに、ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が落ちてきて、あっという間に地面を濡らしていく。
「あらら……今日は室内干しだね」
軒下に洗濯物を移しながら、ハンナ婆さんがため息をつく。
「雨の日は乾かなくて大変なんだよ。特に冬はねぇ……水も冷たいし、手はかじかむし」
その言葉を聞いた瞬間。マールの胸の奥に、ひやりとした感覚が広がった。
冷たい水。
真冬の井戸。
凍える指で洗わされた、乾かない洗濯物。
(……)
辺境伯家での日々。
誰も労わってくれなかった時間が、ふっと蘇る。
気づけば、マールの手は止まっていた。
「……おや」
異変に気づいたハンナ婆さんが、マールの顔を覗き込む。曇った表情を見て、すぐに察したのだろう。
「……大丈夫だよ」
ごつごつした、でもとても温かい手が、マールの頭にそっと置かれる。
「今はもう、ひとりじゃないんだからね」
「……うん」
小さく頷くと、胸の苦しさが少しだけ和らいだ。洗濯を再開しながら、マールは考える。
(……つめたいの、つらい……)
ハンナ婆さんの手も、少し赤くなっていた。
(どうにか……できないかな……)
ふと、マールは手を止め、そっと手のひらを見つめる。意識を集中すると、淡い光が滲むように浮かび上がった。小さな、小さな結界。
戦うためのものじゃない。
誰かを守るためでもなく――誰かの暮らしを、少しだけ楽にするための結界。
「……うーん……」
首を傾げた、そのとき。
ばしゃっ。
足元で水音がした。
ハンナ婆さんの飼い猫が、桶の水に前脚を突っ込み、そのまま勢いよく水浴びを始めていたのだ。
「ちょっと、あんた――」
叱る声が飛ぶより早く、猫は満足したのか、ぶるっと大きく身震いをした。
ぱぱぱっ、と。
毛皮から水滴が弾かれ、周囲に飛び散る。
その瞬間。
マールの目が、きらりと光った。
(……はじいてる……)
猫は素知らぬ顔で、二人の元からトコトコと去っていく。
(……なにか……つかえるかも……?)
胸の奥で、かすかに何かが噛み合う感覚があった。まだ言葉にはならない、でも確かな予感。
そのときだった。
「――何を考えてる」
低く落ち着いた声が、雨音の向こうから届いた。
顔を上げると、拠点の軒下にレグルスが立っていた。濡れない位置から洗濯場の様子を眺め、マールの手のひらに浮かぶ淡い光へ、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「……結界か。随分と慣れてきたな」
問いではない。確認するような一言だった。
「明日、晴れたら採取の依頼に出る予定だ」
唐突だが、いつもの調子だ。
レグルスは一拍置き、今度ははっきりとマールを見る。
「魔獣討伐はしない。浅い森での採取だけだが……来るか?」
一瞬。
マールは、何を聞いたのか分からないという顔をした。
「……え?」
すぐに意味が追いつき、次の瞬間には――
「……いく!」
ぱっと、花が咲いたように顔が輝いた。
「……マール、いく……!」
その様子を見て、レグルスは小さく頷く。
「条件はひとつだ。採取のみ。危険があれば即撤退」
「……うん! わかった!」
◆
翌日。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、澄んだ朝の空気が森の入り口まで広がっていた。
マールはレグルス隊とともに、初めて“正式な採取同行”として魔の森へ足を踏み入れる。
(……どうしよう、わくわくする……!)
湿った土と、葉の匂い。
どこかぴりっとした魔力の感触。
だが、恐怖はなかった。
結界が、呼吸のように自然に身体を包んでいる。
「よし。まずはこれだ」
レグルスが指さした先にあるのは、紫色の実をつけた低木――コブラ苺だ。
「採取の方法は覚えているな?」
「……うん」
マールは小さく頷き、そっと手を伸ばす。
結界を、薄く、実の周囲だけに。毒の気配を遮断しながら、茎を切る。
ぽとり。
紫の実が、無事に籠の中へ落ちた。
「成功だ」
短い言葉だったが、それで十分だった。
そして――
「次が本命だ」
森を流れる川辺へ向かう。
水面が揺れ、ぶくりと。丸く、愛嬌のある姿が顔を出した。
豚のような鼻。薄ピンク色をした魚の体。通称――《河豚》だ。
「……かわいい……」
だが、その血には強い毒がある。通常は捌いた瞬間、身に毒が回り、食用にはならない。骨だけが錬金術の素材として価値を持つ――それが常識だった。
「今回は骨の回収が依頼だ」
レグルスがそう言った、そのとき。
マールが、そっと手を挙げた。
「……マール、できるかも」
「どういうことだ?」
全員の視線が集まる。
「……血と……おにく……わけられたら……」
言葉は拙いが、意味ははっきりしていた。
結界で“血と身を分ける”。
その発想に、レグルスは一瞬、言葉を失う。
川辺で跳ねる河豚。
その前で、マールはそっと手を伸ばした。
(……生活のための結界。食べるための結界)
小さな挑戦が、また一つ始まろうとしていた。




