さっぱりした関係
下校時刻の頃合いになった。
校舎は赤く染まって、夕日が落ちかけた午後4時半、部活もなく長袖の学ラン制服のままの水無月龍土は、第1体育館倉庫前に呼び出されていた。
中庭から続くそこは体育館の裏にもなり、人気は少なく、『呼び出しスポット』としては隠れて有名でもあった。たまに約束が重なり先に訪れた者同士が会って、「おやアナタもですか」「告白でしょうかねえ」と老人のように悟って会話することもある。いやしかし、ここは中学校だった。
呼び出された龍土は、冷たい風に吹かれて飛んでいく枯れ葉の行く先を見つめている。校舎の裏には幾つかの山が並んでいた。時折、野生のうさぎなんかが目撃されている。カンガルーだと勘違いされたこともあった。
「お待たせ、……あのう」
声がして、龍土は振り返った。
背後にいたのは、大人しそうで小柄な女生徒……ベージュのカーディガンを羽織った、制服姿の赤良部和歌奈だった。龍土の機嫌を窺っていた。「何か用」
和歌奈が来て早速、龍土は用件を聞いていた。余計な物を寄せつけていないような、厳しさに和歌奈は少しだけ躊躇ってしまう、だが。
勇気を出して和歌奈は言った。精一杯の思いを込めていた。
「ずっと……好きだったんです。私とお付き合いしてくれませんか? ……」
焦られながらも、小さな勇気は一歩を踏み出していた。
それに対して龍土は、表情を変えることなく冷静だった。始め黙って相手を見ていたが、返事らしい返事が一応は返ってきていた。
「『さっぱりした関係』でいよう」
彼の思惑は、和歌奈にはさっぱりと解らなかった。
……
彼いわく、付き合いはOKだが、朝と帰りの登下校以外は学校で一緒にいないこと、携帯でのやり取りはメールのみで、用件のみであること。まだあるかもしれないけれど、とりあえずそれだけを今約束してと和歌奈に突きつけていた。
和歌奈は「はあ……」と空気のような返事で、承諾している。理由を聞いても、「あんまり縛られたくないんで」としか龍土からは返ってはこなかった。
確かに、四六時中べっとり付き纏われたら誰だってうざいと思うわよね、と……和歌奈は思った、仕方がなく、とも言えた。
好きなんだし。別にいいわよ……ね?
そう思うことで、和歌奈は不安を打ち消そうと思っていた。
だが、段々とそれは、……揺れていった。
「おはよ、水無月くん」
朝一番で出た声は明るく、相応しい挨拶だった。和歌奈は楽しそうに、学校の渡り廊下を歩いて向かってくる龍土に笑いかけていた。
今日の龍土も昨日とは変わりはなく、言わば寝癖が頭からはみ出ていて見つけてしまったぐらいだった。返事があってから言ってみちゃおうかと和歌奈は心待ちにしていたが、龍土は。
「……」
無言で、和歌奈の横を通りすぎて行った。
(あ、あれ?)
思ってもみなかった彼の無視攻撃に、和歌奈はぽつんと取り残されてしまって行き場を失くしてしまっていた。追いかける前に、そばに来た友人から声をかけられている。
「おはよ~、和歌奈。……和歌奈? どしたの」
和歌奈の様子に異変を感じたのか、佐奈美といった友人は首を傾げていた。
「あ、ううん。何でもないヨ……えへへ」
頭を掻きながら、和歌奈は場を取り繕って逃げていた。龍土に無視されたことなど、知られたくはないし自分でそれを認めたくはなかった。
だって私、水無月くんの『彼女』だもん!
この時に自信は、ほんの一部を欠けただけにしかすぎない。
……
付き合い始めてから数週間が経っていた。
和歌奈の心配は、膨れても、縮みを見せない。心配というより不安、不安が恐れへと――なるまでにはまだ日が浅く至らなかったが、和歌奈に翳りは忍び寄って襲いかかってきていた。
調理実習でクッキーを作った、胸を弾ませながら渡したそれは、龍土に響きはしなかった。
「ありがと」
表情は硬く、お礼は言ったものので、一度渡されたクッキーの袋は1個だけを口に放り入れて和歌奈に返されてしまっていた。「あ、う、うん」和歌奈はまさか袋ごと返ってくるとは思わなかったので、受け止めて戸惑ってしまっていた。
「龍ー」
「今行くー」
教室の入口から、いつも龍土と一緒になって遊んでいる男子たちが呼びかけていた。
龍土は和歌奈を見ることなく、呼ばれた方へと机と机の間を縫って一心に行ってしまった、和歌奈にずしんと重い物がのしかかって、動かなくさせていた。
(どうして)
ぼそ、と内面から呟きが漏れていた。誰にも聞こえない所でそれは、大きく和歌奈にだけ聞こえるように響いている。
(なんで)
歯がゆく、唇を噛み締める。
(なんで?)
不満である。
和歌奈は、つまらない……と、窓から見える外のグランドを憎らしく見下ろしていた。
『さっぱりした関係』って何なのさ……和歌奈は口を尖らせる。用件以外でメールは打てないし、と加えて用とはいっても登下校の待ち合わせに使うくらいだった和歌奈は、携帯電話を池にでも放り投げたいと投げやりだった。
部活の所属で龍土は声聞部、和歌奈は漫画同好会と2人ともは文化部だったが全く興味が違うため、話すことは何もなかった。声聞部って何する所と和歌奈が下校時に聞いてみたら「声聞く所」と、答えに差し障りはなかった。龍土の落ち着きと関係があるのだろうかと詮索してしまう和歌奈だった。
会話が続かないので自分の好きな、または龍土の好きそうな漫画の話をしようと試みるが。
「興味ない」
と、一刀両断にされるだけで、空しくひとり空回りを和歌奈は演じるしかない。「水無月くん!」
ついに遣り切れなくなって、和歌奈は龍土に聞いてみようとした。
「何」
家までの道中、駅まであと少しといった人通りの少ない一方通行の道路で、龍土の能面のような顔は崩れることがなく和歌奈を余計に苦しめていった。
私たちって、付き合ってるって言えるの? ……
聞きたいことが、和歌奈の口からは飛び出してこなかった。告白の時のような、勇気は全然出なかった……和歌奈の小さな元気はしぼんで、出口を塞いでいる。
「何でもな……あ、ううん、ねえねえ、『大根マスター』って漫画、知ってる?」
新たな突破口を和歌奈は開こうと、無駄だと思いつつも頑張ってもみた、すると。
「興味な……い」
翌日朝の登校時、和歌奈は全7巻を持ってきてこっそりと龍土に貸していた。
……
学校では、始業時間を迎えていた。
「転校生を紹介する。全員、席に着けー」
和歌奈と龍土のいるクラスの担任教師が、教檀で手を叩く。生徒が皆、席に着いたのを見届けたあとに告知通り転校生を招き入れていった。
ゆっくりと教室に入って来たのは男子生徒で、少し茶に髪を染めた、見るからにやんちゃそうな雰囲気を持った人物だった。「どーもー」軽く挨拶をしている。裾のだぶついた指定学生ズボンをひきずる手前に履いていた。
「間ノビ、ヤスヒロ。よろしく」
ふざけた奴で、「ぴーす」とピースサインを掲げて周りの反応を試しているかのようだった。しかし反応は様々でも、彼に言い返す生徒はいない。先生は黒板に白のチョークで『間伸康広』と正確に改めて名前を書いてあげていた。
「ご両親の仕事の都合でしばらくの間ここにいるそうだ、皆、仲よくなー」
先生が当たり障りなく付け加えてやると、間伸は耳を小指でほじりながら「そゆことで」と言っている。そしてクラス中を舐めまわすかのように目を動かしたあと、くす、と口元をほころばせながらはっきりと皆に質問した。
「こんなかで一番可愛い子と付き合いたいんだけど」
「は?」
どよ。
声に出したのは先生だけだったが、クラス中でどよ、とざわめきが立つ。まさかそんなことを言い放つとは予想だにしていなかったために、動揺が場にいた全員に見えて教室内に充満していった。
「うーんと……」
何度も何度も、彼は女子生徒の顔を物色して眺めていっていた。
何だあいつ。
クラス中の皆が思うことだった。しかしやがて。
「あの子でいいや。そこのピン留めの女子」
指をさし、ご指名を受けたひとりの女子。窓際で、つまらなそうに肘を立て傍観していた女子。
……受けたのは、和歌奈だった。
「へ?」
和歌奈は、間の抜けた声を出し頬杖づいていた顔を手から離した、そしてしばらく固まっていた。
和歌奈と間伸は、かちっと目が合い、間伸の方が先ににや、と顔で答えていた。
(わ、……私!?)
信じられず、和歌奈はまだ固まっていた。間伸が和歌奈に近づいていった。「お、おい」先生はどうしたものかと挙げかけた手を遊ばせていた。
和歌奈と至近で近づいた間伸、彼は、机に手をつき和歌奈を見下ろしてこう言った。
「カレシいる? 誰?」
いけ図々しく和歌奈に詰め寄っている。「あ、あのその……」和歌奈は、間伸を通り越して前側に座っている龍土に視線で助けを求めていた。それに間伸は気がついたようで、目線を辿り、後ろを振り返って納得していった。「ふーん。アンタがカレシ」
何も誰も言ってはいないがそう決めつけて、間伸は龍土を見て言った。
「一週間くらいだけど。いい?」
極めて挑戦的で大胆で、大問題な話のおかずになろう言葉を間伸は軽く吐いている。
「……」
すぐには返せず、龍土は始め黙っていたが。しかし。
「いいけど」
割とあっさりと、承諾した。
(えええ!?)
信じられない第2弾。幻覚だがラッパを吹いた小人たちが和歌奈の頭上で踊りながら回って楽しんでいた。気が動転している。
激しくショックを受けていた。
はたからでも「何それ」と野次が飛んでくる。無理もなかった、それもそうである。自分の彼女を他人に引き渡すとは。慌てず騒がず、静観して事を皆は見守っていた。
「許可もらったし。じゃ、よろしく」
おかまいなしに微笑んで、間伸はそう宣言した。潔くいい度胸だった。
「ひゅう~」
「いいんかそれー」「いいんでねえのお」「知らねえぞ俺え~」……
主に男子は、人ごとだった。状況を楽しんでからかっていた。
「ちょっとそれどういう」「許せなあい!」
「可哀そう、赤良部さん……」
女子には、反感を買っている。
(嘘でしょ……)
よろしくと言われても。
(水無月くんの……)
いまだ名前さえ呼べていない関係の和歌奈は、最大限に叫ぶ。
(ばかああああッ!)
心のなかで。
和歌奈は魂が抜けて、無残にも殻になっていた。
……
一時限目の間はずっと授業内容も聞いていても上の空で、欠片となって散っていた自分を何とか取り戻した和歌奈は、授業が終わったあとに急いで龍土に問いただしに行った。
「水無月くん……どういうつもり」
誰に見られようと構わず、和歌奈は正気を保ちながら龍土に真正面から聞いてみた。
龍土は、表情を変えず和歌奈を見つめて、言ったことの撤回などするはずもないようにまた言った。
「一週間だけなんだろ。別にいいよ俺は」
本当は聞きたくもなかったが、聞いてしまった和歌奈はまた落ち込んだ。
そして今度はちゃんと声に出して叫んだのだった。
「バカぁッ……!」
そしてそのまま、僅かに泣きながら教室を去って行った。
近くにいた女子男子、それぞれにまた噂でひそひそ、または堂々と言ってやる。
「さいてい、水無月くん」
「やるねえ」
……それが彼に下された評価だった。二分、男子のほとんどは同意的で味方に、女子は大抵が敵に回っていた。心中奥底までは不明だが、彼の態度に対しての賛否は両論、支持する者と拒否の者。対立し、論争は一度巻き起こってしまうと朝まで続いていくだろうと予想される。
(水無月くんの考えてることが、ちっともわかんないよ!)
悲しさと興奮で、まとまりがつかなくなった頭は、和歌奈を苦しめていた。
……
和歌奈の知らない所でも事は、起こり進んでいる。
「よう」
軽く挨拶をし、校舎の屋上で間伸は先に来て昼寝をしていた龍土に話しかけていた。昼休み、弁当を早くに食べ終えた龍土は日課でもあった日向ぼっこをしていた所に、だった。本日は天気がよろしく、雲も綿毛のようにぽんぽんぽんと浮かんでいた。
寒さはあったが。
日光がちょうどよく気温が昼寝には合っている。
「お前ってスゴイこと平気でやっちゃう奴?」
間伸は、寝ている龍土の上から話しかけている。他には誰もいないので、間伸は遠慮なく……いや、元より一歩もひくつもりはなかっただろう。言いたいことを言っていた。
「スゴイこと?」
「女子のハートも一刀両断。ばっさり。何でああいうことが平然と言えるかねえ」
ずっと寝転んだままの龍土に、呆れて肩を竦めてみせたりと間伸は繕っていた。龍土は態度も口調も変えることはなく動揺も微塵すら見せない、およそ今どきの中学生とはこんなものなのかと疑うこともありそうだった。
「その方が嫌われるかと思って」
「はあ?」
「モテたくないんで」……
さらりと交わす会話の内容に、間伸は本気で呆れていた。
(すげー自信……)
間伸の心中、呆れたと同時に龍土を面白い奴とも思った。
龍土は親切なのか、間伸にしっかりと説明までしている。
「お前は来たばかりで知らないだろうけど、俺、校内学年別モテ男ランキングとかいうので一位なんだそうだ。裏アンケートで知った。何ならウチの学校の書き込み掲示板でも覗いてみ。好き勝手に暴れてくれてるから、ファンが」
「ファンて……何だそりゃ」
「俺が頼んだわけじゃない」
全く予想外の事情を知った間伸、今度は、目の前の能面男に羨ましいというより同情したくなってしまった。これっぽっちも嬉しくはなさそうだからだった。
「……歪むぞ、お前」
つい、言葉が出てしまった間伸。悪気はなかった。
「もう歪んでる」
そう答えた龍土に、おいおい、と間伸はまた呆れていた。
「人に振り回されるくらいなら、振り回す」
宣言した。
龍土は言ったあと、目を閉じて昼寝の続きをしようと試みた。しばらくは眺めていただけの間伸は、深いため息をつき、それからニッ、と笑って態度を変えていた。
「じゃ、赤良部さん借りとくなっ」
返事を期待していなかった間伸は、そのまま出て行こうと龍土のそばを離れていったが、龍土はちゃんと返答をし変わることのない意思の決着をつけていた。
「……どうぞ」
……
三叉路に続く脇にもう何年も健在しているコンビニがあり、そこで和歌奈や、女友達数人がたむろしていた。同じクラスの者が数人、部活が同じ者が数人。学校帰りに立ち寄る『道草スポット』として挙げられる、ひとつの場所だった。都会ではないので建物は少なく電柱が並び、見晴らしはよく、近くに山がある。川も自転車を飛ばせば近い。
和歌奈は友達と段になったコンビニの前に連なって座り、始め楽しくおしゃべりをしていたが、話題がふいに逸れて和歌奈へ一斉に集中していった。
「あんな奴やめときなよ和歌! すっごーく、がっかりした! 水無月くんが、あんなに冷酷非情で外道で不届き者、狼藉者だったなんて」
戦国に嵌っていたらしい、言葉のアヤシイ和歌奈の友人は、いきり立って興奮し出していた。
「クールで素敵……」
頬をぽ、と淡いピンクに染めながら、アヤシイ方向へと向く友人もいた。
「マジやめなよ。反吐が出る」
マジでうんざりとした顔の友人も龍土には否定的だった。コンビニ限定・豆ソバというキャラクターのボトルキャップがついたコーラのペットボトルを開封して飲んでいた。
「何か理由があるんじゃないかな……?」
朝よりもほとんど冷静になってきていた和歌奈は、気を取り直して回復しつつあった。聞いた途端、和歌奈の態度に納得のいかない友人たちはまた一斉に責め立てていった。
「まぁた和歌奈は甘い。懲りなさいよぉ!」「やめときなって。あの間伸って奴に乗り換えちゃえっ」
「そーだそーだ。その方が幸せだよッ」……
友人たちは各々にヒートし、自論を思う存分に展開して和歌奈を巻き込もうと引き寄せていった。
「う、ううーん……」
一気に攻撃を受け、庇いきれない和歌奈は困惑するに至ってしまった。本当にどうしたらいいんだろうと、寒くなった体をさすり悩んで俯いて黙ってしまった。
「あ、あれ、噂の間伸くんじゃない」
困憊していた和歌奈は、その時の友人のひと声で塞ぎこみがちだった頭を上げた。
(え?)
辺りをうかがうと、自転車に乗ってガードレールの向こうから、それらしき学生がやって来た……間伸である。彼ひとりだった。
ペダルを漕ぎながらコンビニの横を通過してしまうのかと思っていると、途中で向き先を変更したらしく駐車場に進入してきていた。
そして、和歌奈の前にまで走ってくると「キュ」とブレーキの音をさせて、難なく止まって話しかけていた。
「まだいてよかった。既に帰ったもんかと、さ」
子犬のように人懐こい笑い顔を浮かべながら、間伸は和歌奈だけに注目していた。
(間伸くん……)
放課後まで間伸を避けてきた和歌奈は、ついに対面してしまって怖くなり、どうにもできなくなってしまっていた。しかし構わず間伸の方から誘いを受ける。
「遊びに行こ」
「えっ……」
ぐいと、腕を引っ張られた。体はついていき、立ちあがった。「ちょ……」強引に引かれて、和歌奈は眉をひそめて間伸を訴えるが、
「いいじゃん、この辺遊ぶとこないの。案内してよ。和・歌・奈ちゃん」
どちらかというと龍土否定派で『間伸派』だった友人たち数人は、和歌奈を応援するべく「行け行けGOGO」コールで何回も後押しするように2人を送り出していた。成り行きで和歌奈は間伸の漕ぐ自転車の荷台に乗せられ。「しっかりつかまって」という運転者の命のもとに、言うことを聞いていた。
自転車は走り出す……2人を乗せて。風が触れている。
道路の緩やかなカーブの先には、短いトンネルがあり、抜けると隣町だよ、……と和歌奈は背後から間伸に指さして、進む先を教えてあげていた。
……
隣町に出ると商店が並び、看板が多くなってくる。
使い古された道路の脇を漕ぎ走りながら、2人を乗せた自転車は賑やかな方へ。「遊ぶとこないの」と聞かれて和歌奈が思いついたのは、カラオケボックスやネットカフェ、ファーストフード店などが混在するドライブインだった。
そこにはゲーセン、ゲームセンターもある。
両開きの自動ドアから入ると、UFOキャッチャーやプリクラ機が、備え付いた装飾電球をピコピコと点滅させて2人を楽しく迎え入れている。
「何かしたい?」
「え、と……」
間伸は和歌奈の横で意見を伺うと、すぐに店内の方を見まわしに切り替えていた。出入り口付近は広いフロアでクレーンゲームやトレーディングカードアーケードゲーム、その他小さい子ども向けの乗り物がたくさん、段差越しに奥は競馬ゲームのカウンターやスロット、コクピット型やテーブル型筐体が多く、暗めの照明下でひっそりと静かに佇んでいた。
そんなにお金を持ち合わせているわけでもなく、さしてゲームにも興味のない、というよりあまり知らない和歌奈は来たものの、と少し考えてしまっていた。
「あ」
ふいに、間伸が上げた声に反応し視線を向けた。「え?」
向けた和歌奈は同じく「あ」と声を上げてしまっていた。
2人の視線の先に、見慣れた人物がいたためである。龍土だった。
テーブル筐体でゲームをしているようだった。ちらほらと他の一般客がいるなか、上の学生服を脱いで隣のイスの上に投げていて、白いブラウスになった龍土は地味に、だがひとり幼げで少し目立っていた。だからこそ気がつけたのだろう、先に声を出してしまった間伸は『やべ』といった顔を和歌奈から逸らし手で覆い隠そうとしていた。
(水無月くんだ……)
どうしてこんな所でひとりで、と思ったと同時に、和歌奈は今、自分が置かれている状況を思い出すことができて慌てていた。
(ま、まずいんじゃ。もし間伸くんといるとこ見られたら!?)
和歌奈をレンタルすることを許可したとはいえ、強引に連れられてとはいえ、はいこんにちはとスムーズに笑えるわけではなかった。
するとその心配を無くすようにか、間伸は和歌奈の様子を一瞥した後に手を思い切り大きく掴み、行き先の方向を変えて戻って行こうと促した。「こっち」
さてまた強引に手を引っ張られて和歌奈は足が止まらず、元来た方へ連れて行かれて。間伸は設置されていたゲームの台のひとつをやろうと誘っていた。「やろ♪」……ニヒヒと笑い断りを許さない姿勢と背後からのオーラビームが見えて、否応なしに眩しかった。「う、ん……」
間伸がやろうと誘ったのは、エアホッケー。外枠のあるコートのような盤台の上で、対向したプレイヤーはマレットと呼ばれる専用器具を使ってパックを打ち合い相手側内枠のゴールポストへ入れる。
それが得点となり、高い点を稼ぐか、時間が来れば試合終了である。
尚、薄べったく煎餅のような『パック』は、盤上から噴き出す空気の力で浮いており、とてもプレイしやすくよく滑る。
間伸に気圧されて始めたエアホッケー、和歌奈は夢中になって遊ぶことが出来ていた。
得点をどちらかが入れた時折、ふうと息を吐きながら肩の力みを外して、ゲーセンの奥に龍土がいるんだということを思い出しながらも、和歌奈は単に楽しんでいた。
まさか、間伸くん、わざと……?
薄々と、和歌奈は感じていた。気を遣ってくれている。
和歌奈を悲しませないために。
反対に、どうして付きあっているはずの水無月龍土はこんなにも態度が冷たいのか。
和歌奈は、揺れる。傾きを正そうとする天秤のように。
ここまで送り出してくれた友人たちの無責任な『行け行けGOGO』コールが、脳裏をよぎる。
自分は一体、どうしたらいいのだろうかと……。
和歌奈を追い詰めた決定打は、ひと試合が終わる直前だった。
(え……?)
和歌奈の視界の隅に予想外で異様な、信じ難い光景が映ったためである。
小さくても見える龍土の背中に、近づいてくる女の子。
プレイに没頭していたのか暇を潰していたのかは知れないが、その龍土の肩をトントンと叩き、話しかけてきた女の子。
お、ん、な、の、こ。
フレア袖Aライン、レースチュニックにデニムを合わせた私服だが年は、れっきと10代くらいだろうと思われた。
そして、振り向いた龍土の表情は、笑いかけている。
それが、どんなことを意味するのか。
和歌奈は突きつけられた『信じられない』、第3弾めを、またもや避けられなかった。
ガラガラと足元が崩れていくような錯覚を覚えていた。平衡感覚が狂う、ぐらりと体が傾いていた。
(あんな顔をするなんて……)
女の子は、龍土の知り合いなのかそうではないのか、そんなことはどうでもよかった。
自分に向けたことのないあの愛想が、許せなかった。
(酷いよ……)
心情を被るように、間伸が茫然ともして疑問を口に出す。「ダレ、あいつ……」関心は一向に相手へ注がれていた。相手、即ち、こちらには恐らくは気がついていない龍土に――。
(もうダメだ……)
積もりに積もったものが溢れてくるみたく、涙は和歌奈の目からとめどなくこぼれて流れて落ちて、落ちて、そしてまた落ちて――。
瞬間に足も崩れた。
膝をカクンと折り曲げて、床について顔を塞いだ。「ふ……えぇぇえん……」和歌奈は泣く、何も構わずに。
暫くは、間伸もどうしたらいいのかが判らなかった。
関係のない無関心なエアホッケーの盤はプレイ時間の終了を告げるだけかのように、プシュウウ、と最後に音を立てて空気を盤上に吐き出すのを止めていた。
カラン……
用の済んだマレットは僅かに円を描きながら駒のように回転して、やがて停止した。
このままでは、和歌奈が目立ってしまう。
龍土にも気がつかれてしまうかも。
そう間伸は真っ先に判断したと思われる。行動が先に出ていた。
何度めかも数えきらない強引さは、活躍していた。和歌奈を無理やりに起こさせて、立ち上がらせて、いっそ抱きかかえてでも、間伸は和歌奈を引っ張っていた。「――!」そして2人は人目を避けるようにして、なかへ。なかとは、プリクラ機体が設置された、隔てのカーテン向こうの空間である。
丸っ切りではないが、一時的に避難するには隠れられて充分だった。
そこに飛び込んだ2人を待っていたのは、嗚咽に苦しむ和歌奈に与えられた時間だった。
そっと、落ち着きの頃合いを見計らった間伸は、囁いている。
「……俺と、付き合わない?」
引っ張ってきて繋いだままの手の温かさが、和歌奈へと届いていくようで、心地良さに身を委ねて。和歌奈は、抵抗しなかった。「うん……」
赤らめた顔は、熱を冷ますには時を要してなかなか治まってはくれない。
……
翌朝を迎えた。
それまでに、和歌奈は考えていた。起きている間――家に帰ってご飯を食べている間も、宿題に頭を捻っている間も、テレビで好きなアニメをエンディングまでしっかりと見届け音痴な歌まで歌いながらも、お風呂に入ってシャワーを浴びている間も、買ったばかりの単行本を読み返している間も。
寝ている間――夢との境をまどろみながらも。
朝までに、ぐらついていたはずの和歌奈がしっかりと認識できたことが、ひとつ。
和歌奈は、やっぱり龍土が好きだった。
だからこそショックを受けたのだ。そう考えている。
(ひと目ぼれ、ってやつかな……)
和歌奈が龍土を意識し始めた頃というのは、だいぶ前のことになる。それは春の郊外学習で、同じ班になった2人は、成り行きで班長と副班長をすることになった。
初めて赴く地での行動予定、かかる時間の計算、移動手段、必要あれば交通費などの予算の見積もり、先生への報告。6人という班員のなかだけではあるが、リーダーとしての龍土の賢さは存分に発揮でき、和歌奈はそれをサポートする形で助言をしたりする。見守っていたことの方が多かった。和歌奈も他の班員も先生も、龍土のことは認めて、任せていた。
いつしか、龍土のことを尊敬なのか憧れなのか、照れなのか判らないが、気になり出してしまう。それから、だった。
和歌奈が告白を決心したのは、夏を越えて秋も去って、冬に入るとき。ずっと心のなかで温めていた想いは、同じクラスで過ごすことのできる残りの時間や、来年になると受験が控えていることなどを思い巡らせているうちに、爆発しそうになった。
ダメならダメで、決着をつけたい。
でももし告白をOKしてくれたなら。とても嬉しい……!
一縷の望みをかけての決死のダイブだったに違いない、和歌奈の告白という試みは、中途半端に華開く。
『さっぱりした関係でいよう』
それが試練の始まりとも知らずに。
「はあ……」
洗面台の鏡に映った自分の顔に、和歌奈は朝から情けないため息を吐いていた。
「学校に行くのかぁ……億劫」
誰も聞いてないしと好き勝手な不満を言っていた。「は~……」
何度も息を落としてしまって、空気を吸うことを忘れそうだった。重い体と頭をどうにかと動かしながら、手で集めたぬるい水を顔へと浴びた。けれどもちっとも気分は晴れず、凍りつきそうに一瞬で外気に冷やされた水分が和歌奈の心にまで深く染み込んでいった。
学校へ行く準備を終えた和歌奈が、常時通りに「行ってきます」と声を上げて、玄関を出た途端だった。
門の所につけて立っていたのは、陽光に当てられて茶髪がいつもより一層と目立っていた同い年の少年……間伸だった。目に飛び込んできて、それまでに巡らせていた考えが全て消えて、和歌奈に新しいような風が吹く。
コンビニに寄って買ったのか、焼きそばパンを口にしながら間伸は挨拶をしていた。「おはよ」焼きそばの一本がパンから垂れている。「……お、はよう、……間伸くん」玄関のドアが勝手に閉まった後、最後のひとくちを口に入れた間伸は、見慣れた愛想笑いを浮かべていた。
「一緒に行こ」
間伸の優しさは一日経っても変わらない。おかげで和歌奈にゆとりが生まれていた。
「うん」
今朝一番目の引き締まった笑顔は、目の前の少年に向けられたのだった。
朝の登校中、間伸がする話は、好きな刑事ドラマや映画の話だった。ここに転校してくる前に地元放送局で再放送していたという名作ドラマ、『カサブランカ警部補~淡路ホワイトハウス~』について熱く語っていた。モロッコ出身の警部補が淡路で奔走する。渋いドラマだった。
全く知らない別次元の話をされて和歌奈は最初、引いてはいたが、歩きと話に連れられて、学校に辿り着く頃には和歌奈に『お遍路さんを回りたい』とまで思わせるようになってしまっていた。間伸は勝利、と、太陽から照る光の下でぴーす、とサインを晴れた天に送っていた。
そんな楽しいと思えた時間を過ごして、2人が校舎へと入り、教室が廊下の先に見えてくると、間伸が突然思い出したようにポンと手を打った。「ちょっとトイレ。先行ってて」
和歌奈は言われた通りに、教室へと向かって行った。
間伸はトイレへ行くふりをして階段のある曲がり角を折れ、誰もいないことが分かると、そこにしゃがんで白い冷えた壁に背をかけていた。
しゃがんで同時にドサリと落ちた鞄を見つめていた。有名メーカーのボストンバッグであるそれのなかには、教科書、筆記用具、隠れてお菓子、雑誌、体操服に携帯電話と、コンビニで買った八ツ矢サイダーの飲料ペットボトルと昼食用に坊主マン豪華印のお好み焼きアンド特大もっちりカレーパンが入っていた。
鞄から携帯電話を取ると、入れたままだった電源だけを切って、また仕舞っていた。
そして「さて、行くか」と呟いたあと、重かった腰を上げて尻についた塵を払い、先に行ったはずの和歌奈を追って歩き出していた。平穏であればと祈りながら。
……
教室へ先に着いた和歌奈は、入口の開いていた引き戸ドア付近で立ち止まる。しかし一瞬だった。
「おはよう。エリ、佐奈美」
昨日と髪型は同じでも、着けているヘアピンやクリップ、ヘアゴム、シュシュが違っていた。何故か顔を曇らせた友人の2人は、それでも変わらない挨拶をした。「おはよ、和歌」「おはよう」窓際の席で和歌奈を迎え、昨夜テレビで観たというお笑い芸人の話を持ち出していた。
和歌奈が確かに感じたであろう、『違和感』は、誰も避けて教えてはくれていない。
誰も。
(はっきりさせなきゃ……)
迷いを抱えたままの和歌奈は、うわの空で友人たちの会話を聞いていた。はっきり、とは、無論、龍土か間伸のどちらかの選択である。付き合っているはずの龍土、流されて付き合っている間伸。この両方の狭間で揺れている自分に、いつまでも納得がいかなかった。別れなら別れ、付き合うのなら付き合うと、けじめを求めていた。
(苦しい……)
誰かが決めてくれるわけではない。自分で決めなければと……それを何処かで小さく思っていた。
(水無月くんに……相談してみようかな……?)
微かに希望を寄せながら。予鈴のチャイムが鳴り、慌ただしく人の歩く音や騒ぐ音、がさがさと物音が激しくなってくる。先に行ってと言っていた間伸も、先生がやって来る前のギリギリになって入ってきていた。
決着をつけよう。『さっぱり』としよう。
そんな龍土の真似ごとのように決心をつけつつ、2択の答えが決まらないままであるにも関わらず、和歌奈は妙に落ち着き払って自分の席へと――着いていた。
3時間目は、数学の抜き打ち小テストだった。関数が、和歌奈を苦しめていた。頭を抱え、肘をついていた腕が崩れたときに、和歌奈は自分の消しゴムを床へと音もなく落としてしまった。
(わ……)
机の足から前すぎに、消しゴムはとんとんと転がり、斜め向かいでやっと止まってくれていた。同じく和歌奈が止まっていると、それに気がついたすぐ横のクラスメイトが拾ってくれて、和歌奈を見るとヒョイと投げた。
だが残念なことに、和歌奈の額にコツンと当たってしまったという。
投げたクラスメイトは『ごめん』を表情に出して、肩を竦めてテスト用紙にと戻っていった。
額をさすりながら和歌奈も、テストの問題へと返っていった。難しくても答えのある問いへ。手に持った消しゴムで字は消せても、消せないものはいくらでもある。
和歌奈の知らない書き込みは、知る人ぞ知る。
和歌奈は、知らない。知らなくて『正解』だった。
放課後、和歌奈は朝に思いついたことを行動しようと、何度目かは分からない『勇気』を出していた。帰りかけか、部活へとこれから行こうとするのか、支度を終えて龍土が席を立ったときだった。
「水無月くん! ……あの!」
まずは出始め、和歌奈は張り上げて龍土を呼んでいた。
「何」
抑揚のない受け答えだった。気持ち、和歌奈は後ずさっていた。
「は、話があるんだけど。これからちょっといい、か、な?」声が上ずっていた。
「俺は話すことないけど。話が『ある』より、『したい』んだろ、そっちが」
今日の龍土は盾のように和歌奈には思えた。変だな? 怒っているみたいだと……焦りのようなざわつきが胸の内を支配する。しかしそれでも引き下がらないで、と和歌奈が自分を励まして頑張って続けて言った。
「ごめんなさい。でも、どうしても」
時々、和歌奈は強情になる。あまり自覚はしていないが、和歌奈のなかには譲れない『何か』があった。
龍土の顔が強張った。軽蔑にも似ていた。和歌奈は歯を食いしばり、それに耐えていた。
――私ってば、こんなに我慢して、何やってんだろう。
――水無月くんに、何を言うつもり? 別れて? それとも、やっぱり好きですって言う? どっちなの。
緊張を緩めたら、崩れてそれで終わりになってしまうと、それだけは分かっていた。
授業の終わった喧騒感が漂うなか、龍土と和歌奈だけに訪れた時間は、たった数分でも長く感じられる。
それを遠くで見守る生徒がいたが、別の友人たちにからかわれて愛想笑いで返していた。
「行ってきたら。ヒュー♪」
「どおも。それじゃお言葉に甘えまして」
間伸はさらに調子にのって、上げた手をくるくると回していた。まるで姫を迎えにでも行く王子に成りきっていた。拍手さえ聞こえてくる。和歌奈たちの空気は知らずに、こっちはこっちで盛り上がっているらしかった。
「……さてと」
友人たちから離れた間伸は、頭のなかを切り替えた。
別のスイッチを入れて動いているのかもしれない。
そのとき、和歌奈と龍土は双方どちらも相手の出方を窺い、真正面でぶつかっているさなかだった。2人の背景には、消し去れていないチョークの跡が残った黒板がある。日付は、今日のままで、掃除が始まれば日直にこの後消されてしまうだろうと思われる。
「……赤良部さんが何を何処まで知ってるのか知らないけど」
龍土が勿体振った言い方をすると、和歌奈は「?」と眉をひそめていた。
「俺に何の話なの。今日は間伸と約束してないわけ。昨日、ゲーセンで遊んできたんだろ?」
和歌奈は龍土を驚いて見た。何故知っている。
そして閉じ込めていた記憶を呼び起こしていた。龍土が、見たこともない女の子と――。聞き返したくなる衝動に駆られていた。
「か、かんけい……」
俯き出かけた言葉は言葉にはならなかった。今は関係ないでしょ、きっとそれが言いたかったに違いないが、本人には訳がわかっていない。混乱は、焦りを呼んでいた。顔から汗が蒸気して、これでは沸騰したヤカンだった。
和歌奈のことを見て言っているのかいないのか、龍土の調子は変わらない。
「さっさとしてくれる。今日は早く帰りたいから」
龍土の言葉が頭上に降りかかる。和歌奈の視線の先には自分の足もと、だが、ぼやけて見えなかった。
つう、と、頬の上を滑り、涙がひと筋、流れていた。
麻痺したなかで別の、低い声が耳を打った。
「ちょっといい。お2人さん」
頭の上げられない和歌奈に代わって、龍土が声の主に振り向き、「何だ?」と反応した。
「ちょっと」
くいくい、と指を動かして誘い、もう片方の手で和歌奈の腕を引っ張っていた。
和歌奈は顔を見なかったが、声の主は間伸だということはちゃんと分かっていた。
教室を出て廊下を出て、昇降口を出て階段を下ってぐるりと校舎の裏側にまで回ると、普段の日曜に外部者も使用できる多目的グランド5へと、3人は歩いて行った。先に和歌奈と歩いていた間伸は、時々に振り返りながら、龍土がついてきているのかどうかを確かめていた。幸いにも、龍土は文句も言わずに黙ってついてきていて、とても安心していた。
間伸の目に龍土の像が映る。
学ランの制服に上着で、ワイドハイネックの光沢があるジャケットを着ているが、それでも細い。骨格や姿勢がいいのか、余計な肉や脂肪がついていないのか、肩幅ががっしりとしていて、なるほどモテ男ランキング一位というのも頷けるな、と間伸は思った。
茶髪の間伸とは反対に、さらさらとした真っ黒な髪をしており、くすりとも笑いそうにない端正な顔は目を閉じると怒っているように見えた。
「ここでいいや。水無月」
高い連なったフェンスの向こう、グランドに出る。そこですぐに振り返った間伸は、和歌奈から身を離して龍土を迎えていた。
「何の用。こんな所まで連れてきて」
暫くぶりに口を開いた龍土は間伸に問いかけた。悪戯でも思いついた顔をした間伸は、素直に答えている。「決着をつけようと思って」
龍土も和歌奈も、はあ? と首を傾げていた。「何の?」「俺とオマエの」「はああ?」「どういうことなの、間伸くん?」……真意が汲み取れていなかった。
「俺とオマエ、どっちが赤良部さんと付き合えるのか? ……」
和歌奈は息を呑んだ。龍土は変わらず、答えていた。
「馬鹿らしい。赤良部さんはもう、お前と付き合ってんだろ? だったらいいだろうが、決着はついてる」
龍土の頭のなかでは、問題はないらしい。
和歌奈を一週間ほどだけ目の前の軽そうな男の子に貸し、和歌奈も抵抗はしながら間伸とはデートをするなどして上手くやっているようだ。
人からどう言われようが思われようが構わない、そんなものに振り回されはしないからと、龍土の解釈は『完璧』だった。綺麗だった。
あくまでも、龍土の『なか』では。
論争を好まない態度に間伸は、龍土をいきなり固めたこぶしで一度、殴った。
ガシャン。
近くにあったフェンスに、打ちつけられた格好になった。「!」
声にもならない悲鳴を上げた和歌奈、信じられないと寒気が全身を走っていた。は、と和歌奈は気がつく、殴ったままのこぶしをさげた、悲しそうな間伸の顔に。
だがそれは本当に一瞬のことで、見れたのは幸運か気のせいだったのではと後に扱われてしまった。薄い眉の上になぞった黒のライン、逆八の字に吊り上がったそれと間に寄った皺。髪の毛は逆立ちはしていなかったが、風に当たっている。
『怒り』は、治まらなかった。
「オマエはそれでいいのかもしれんけど、こっちはそうはいかない」
宣戦布告だった。間伸は龍土のハイネックの上着ごと、首元を掴んで顔を寄せ合った。至近距離になって近づいた2人に、怖がって動けない和歌奈は叫んでいた。
「やめて! 間伸くん!」
「俺はオマエみたいな世の中みんな見透かしたような奴がでえっ嫌いだ」
冷めていた。龍土の目は死んでいた。そうも見えたのは、今、倒れている龍土の目の前にいる男の子の息が荒く、『生きて』いるからなのかもしれない。
抵抗しない龍土に、さらにもう一発が加わった。
「やめて!」
空しく音が頭のなかでこだまするだけ。和歌奈は何度も止めようとしていた。しかし、止めない。
「オマエのせいで赤良部さんは何度でも傷ついた。泣いた」
ドカ、バキ、カシャン。それは骨が砕けた音なのかフェンスの音なのか、制服が地面などに擦り切れた音なのか。やられっ放しの龍土の脳では、片付かない。
「俺はオマエが許せない」
そしてまた一発。激しく龍土の頭が揺れた。「もう、やめ、てえッ!」絶叫になって和歌奈は立ち竦んでいただけだった。
口元を見ると、血が付いて、切れてしまったのだとわかる。
「じゃあ……」
血の味がして、龍土にもそれが判ったのだろう、初めて反撃に出た。
「じゃあ聞くが、お前に俺の何が解るってんだよ!」
素早く立ちあがって間伸の頬を殴った。ばき。先ほど聞いた同じような音がした。
間伸は、そのまま背中で地面に着けた、頭は打たなかったようで立ち上がろうとしたが、それより先に砂のついた龍土が覆い被さって馬乗りになった。間伸が龍土にしたように、首元を掴んでいる。
「お前からすりゃ、俺はスカして、赤良部さんが可哀そうで、いい加減おちゃらけままごと極まりない奴らに見えるんだろう。でも違うな。俺はお前やクラスの奴らと違って自分に真っ直ぐ正直だ。俺は一応赤良部さんが好きだし、お前は嫌いだ、赤良部さんだって正直だ、だから迷ってんだろ?」
誰にも見せたことがないような怖い顔は、例えるなら獅子。一気に捲し立てた内容が、間伸や和歌奈の度肝を抜く破目になっていた。
え?
焦点が定かではなく、疑問が空に浮かんでいる。
え? 今、何て?
『俺は一応赤良部さんが好きだし』
それであの態度?
焦点が定かではなく、疑問が宙に浮かんでいる。
納得という言葉も、何処かに置いて忘れてきてしまっていた。なので納得できないでいた。
『さっぱりした関係でいよう』
和歌奈の脳裏に龍土のセリフが懐かしく響いている。
やはりさっぱりと、理解不能だった。まだこのときの和歌奈にとっては、……である。
「なるほど……正直、ね……」
いち早く理解したらしい、間伸は馬乗りになった下に倒れたままで、龍土ではなく空を見て言った。
「お前はスカして他人を傷つける。俺はこぶしでオマエを傷つける……痛みは、変わらない」
龍土に最後、と、弾くように体を強く思い切り押した。反対に倒れることを受け入れて、仰向けに龍土も倒れていった。
「清々した……」
争いに終止符が打たれたと判断するより先に、金縛りの解けた和歌奈は倒れた2人に駆けて行き叫んでいた。「水無月くん!」間伸は呼ばなかった。
龍土は消えかけた声で、独り言を吐き捨てる。
「人の痛みなんてわからない」
……。
砂の混じった風を肌で感じながら、龍土はここ数年の自分を振り返っていた。浮かぶ、夕焼けに染まりかけた雲と、それ以外に何もない空という大きな揺りかご。それは、いつからだったのだろう、遠く、忘れてしまったほどに昔だったような気さえする。中学生から小学生、遡ってみれば、僅か数年間の出来ごと……。
これまで、女の子たちが龍土に恥ずかしそうに告白してきた。される自分、初めてのときは緊張していたし、断るのが精一杯で、体裁なんて整える必要はないくらいにまだ小さかった。
何度も、複数に、告白をされて。次第に慣れていってしまった。断り方も決まってくる、行事のようだ、設定が決まっていて龍土用のテンプレートが出来あがってしまっていた。「お付き合い、いいですか」「悪いけど」「そうですか……」
目を閉じれば、龍土は何も見えなくなった。
平等に隔てなく無条件に行き届く風や空は、そこにあるだけで、何を龍土に与えてくれる。
「でも殴られた痛みは解る……」
龍土は、上半身だけを起こして向かいの間伸を見つめた。グランドの地面に足を龍土に向けて大の字になっている少年。不細工面の青あざになって、恐らく自分も鏡で見たらこんなのだろうなと思ったら、にわかに笑えて込み上げてきていた。「サンキュ……」
お礼を言われて「キショ(キショい)」と返ってきた。さらに「歪んでるよ、オマエ」と続いていた。
間伸が立ち上がり、龍土に汚れた手を差し出した。
「方向修正だ」
これで終わりにしようと、間伸は訴え、つかまるようにと手を促した。しかし龍土は触れようとしたが、手は可笑しくすり抜けドンと肩を押されて、また地面に背中が着いてしまった。「水無月くん!」
ひとり取り残された和歌奈が、叫んでいる。
「俺はオマエが、嫌いだ。理解できても」
間伸が言ったか言わないかの内に、和歌奈の平手が飛んできていた。ぱしん。小気味好い音が鳴っていた。「さいていっ」
間伸も龍土も、腹を抱えて気が済むまで、笑いたかった。和歌奈がこの場にいなければ、恐らくはそうしたのだろう。
夕日が、落ちていく。
……
和歌奈の、レンタル期間は過ぎていた。
そして、間伸康広は、本日をもって当校を去りますと、教室の黒板の前で宣言していた。始めから親の仕事の都合でとは聞いていたのでそんなに衝撃を受けることはなく「ついに来たか」といった方に全員が受けとめていた。
「ま、そういうこと!」
放課後を迎えた、校舎の前で。昇降口を出て隅にある花壇まで歩くと、間伸は一緒にここまで歩いてきた和歌奈に最後の挨拶、と言って振り返った。とても爽やかに、天上人を演じているかのように見えない羽が、和歌奈には見えた。「もう行っちゃうんだね……」名残を惜しんで、呟きが、出発を妨げている。
「奴に言っときな」「え?」
「10年後に決着つけるぞ、ってな」……
ここにはいない『奴』へと、最後に伝えられるメッセージ。
和歌奈には『さっぱり』解らなかった。「まだ続くの?」と和歌奈の疑問は、空に浮いている。
答えのない問いを人は、繰り返すのだろう。解るまでと。解れば、それも解る。
間伸は片手を上げて振りながら、校門へと消えていった。あの背中は忘れない、和歌奈の目に一生、焼きついている。
「赤良部さん」
ぼうっと突っ立っていた背後で、和歌奈は名前を呼ばれて振り向いた。珍しいものを見たとも取れそうな挙動、どきんと和歌奈の胸が高鳴った。「は、はい? 水無月くん」
いつからそこにいたの、という質問を自分のなかに黙らせて、相手の出方を窺い、行儀よく立っていた。
「『奴』は行ったんだ、もう」
聞かれて、うん、と頷いた和歌奈だったが、内心、何でお互い『奴』呼ばわりなんだと腑には落ちていなかった。何処までも『さっぱり』解らないらしい、既に悩むことも放棄していた。
「ふうん……」
まだ何かを言いたげな龍土の顔を見つめている。
和歌奈に見られて龍土は、思い出したことを聞いていた。「借りた『大根マスター』だけど」
和歌奈の頭には、『大根マスター』の主人公が踊っていた。とても楽しそうだった。「それが……どしたの」龍土の機嫌を損ねたらとおずおずと逃げ腰だったが、踏ん張り留まっている。
「あれ、セカンドがあるみたいなんだけど、持ってたら貸して」……
照れ屋で不器用なカレシによろしくと、旅立った『奴』は、笑って行った。
《END》
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