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皇后

「皇后陛下がお呼びです」



不躾な声が、蓮瑛の祈りを遮った。

声のした方を見ると、厳めしい顔つきの女官が立っていた。彼女は皇后付きの女官だ。そうだと認知した瞬間、手が震え、心臓がどくどくと鳴り響くの感じながらも、ゆっくりと立ち上がる。


「皇后陛下がお待ちです」


もう一度同じ言葉が繰り返される。


さっさとついて来いと言わんばかりに、女官は既に踵を返して歩き出していた。蓮瑛が付いてくるのを当たり前のことと思っているからこその行動なのだろう。けれども、蓮瑛に逃げるという選択肢はない。いかに『龍の巫女』という特別な地位にあっても、無能で役立たずとされる蓮瑛が、偉大なる龍華国の皇后に逆らうことを許しはしないだろう。



蓮瑛はただただ怯え、逃げ出したいという衝動を抱えつつも、女官の案内に従い、後宮の中にある皇后の居室へと足を進めた。


恐怖に押し潰されそうな心地で扉の前に立つと、ゆっくりと開かれ、深紅と金の装飾で彩られた、まさに皇后に相応しい部屋が、蓮瑛の目の前に広がった。


龍や鳳凰が彫り込まれた紫壇材の調度品が配置され、床には西方から運ばれて来た絨毯。壁側に置かれた美しい屏風は、花鳥風月を描いたもので、古典的な美を称える衣装が見受けられる。


けれど、この部屋に足を踏み入れた蓮瑛は、芸術品など目に入らなかった。

彼女の目は、部屋の奥にある御簾に釘付けになっていた。蓮瑛の胸は恐れと緊張でいっぱいであった。


「皇后陛下がいらっしゃいました」


女官が低い声で告げる。蓮瑛はその場で地に伏して頭を垂れた。


「帝都は連日雨ばかり。一体いつからか、そなたは分かっているのか?」


何の前触れも無く、単刀直入に本題に入って来た。皇后の声は冷たく、嫌味が滲んでいる。蓮瑛はただただ黙って頭を下げ、耳を傾けることしか出来ない。


「このまま降り続ければ、いずれは被害が出るかもしれない。死者や飢えに苦しむ者が出るかもしれないな」


皇后の言葉が、蓮瑛の心に深い傷を刻んだ。けれど、それは初めてのことではなかった。過去から蘇る記憶が、彼女の心を縛りつける。


「よもや龍の巫女の務めを怠っているのではないだろうな?」

「め、滅相もございませんッ」


皇后の厳しい視線、宮廷の者達の辛辣な言葉が彼女の心に突き刺さる。自分の無力さを痛感し、体調不良も相まってますます苦悩した。


「……申し訳ございません」


自分の力を信じることも出来ないほどに心をすり減らした蓮瑛は、もはや謝罪することしか出来なかった。そして謝罪することしか出来ない無能で無力な自分を蓮瑛は嘆いていた。


皇后は蓮瑛の謝罪を一瞥すると、御簾がバサリと払われ、皇后の姿が明るみにさらされ、蓮瑛の前に現れた。


「貴様は龍の巫女なのだろう!!ならばどうして雨は止まない!!」

「も、申し訳ありませんッ……」


一歩一歩近づいて来る皇后に、身を震わせて応える蓮瑛。床に額を擦りつけるように謝罪を続ける。けれど、皇后はますます顔を歪めた。彼女の怒りはどんどんと高まり、抑えようのないものとなっていた。


「貴様の謝罪ごときで雨が止むのかッ!」

「――ッ!!」


ついには、その手に持った豪奢な扇で蓮瑛を打ち叩いたのだった。


「真に龍の巫女だというなら、帝都の雲を晴らしてみせよッ!!」


扇は何度も何度も蓮瑛の体を打つ。蓮瑛の体が痛みに震え、扇の打撃が響く音が部屋に響き渡った。しかし、誰一人として皇后を止める者はいない。


「薄汚い野良犬が、巫女だと煽てられて調子に乗ったか!!」


かつては美しいと評判だった皇后。その髪は長く、黒髪に翡翠や赤い瑪瑙、深紅の珊瑚を飾っている。しかし、その美しさは遠い記憶の中に埋もれ、今や容色も衰え、衣装や宝飾品の優雅さだけがその名残を留めているようだった。


皇帝の寵愛は移り、子もいない。名ばかりの皇后としての地位は、虚しさと孤立感を彼女は身の内に抱え込んでいた。その抱え込んだ闇をぶつける先が、何の後ろ盾も無い、無力な蓮瑛だっただけの話なのだ。


「どうして貴様のような無能な女が皇宮で、のうのうと暮らしているのだッ!」


渾身の一撃が入り、蓮瑛の体が揺れ、その衝撃に耐えきることが出来ず、床に転がった。頭痛が襲い、視界がぼやける。しかし、蓮瑛はすぐに体を起こし、皇后に向かって頭を下げた。


「申し訳ございませんッ!申し訳――」


けれど、追撃の手が止むことはない。皇后の足が、額づく蓮瑛の頭を踏みつける。



「無能など消えてしまえ」



皇后は最後に罵声を残し、そのまま去っていった。部屋には怒りの余韻が漂い、蓮瑛は一人取り残された。



龍の巫女という尊い地位にありながら、まるで最下層の奴婢と等しき扱いであった。駆け寄って心配してくれる者などいない。蓮瑛は唇を噛み締めて涙を堪えた。体中に痛みが残り、打たれた恐怖が心をかき乱す。


蓮瑛は無力で、孤独で、胸が悲しみで張り裂けそうだった。

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