初恋引き出し
誰にでも、夢でいいから続きを知りたくなるような「恋の残り香」は胸の中にないだろうか?
それは、傷ついていないから手放せない衣類のように、奥底にしまい込まれた恋。
今の自分にしっくりこない時、クローゼットをかきまわすように、探して胸を温める。
そんな引き出しについて書きました。
終電のガラガラの座面にもたれかかり「お疲れ、俺」向こうの窓に自分が映らない程ずるずると身体を滑り落とす。三十一歳。人生の半分以上をチビチビ言われてきた自分が嘘の様に、今は長い手足を持て余している。こんな姿、お客さんには見せられないよな。狭いアパートまでは自転車で二十分程あれば着いてしまう。それでも電車通勤に拘っているのは電車には「終わり」があるからだ。仕事には終わりなんてない、区切があるだけだ。それも自分で作らなくてはやってこない。視界に入る限り人の気配はない。広げられるだけ足を広げ、目を閉じる。明日は開店前から「トクワク」が二名入っている。若い女の二人組に結婚式参列用のヘアメイクだなんて、薄っぺらい持ち上げトークを想像して脳みそが溜息をついてしまう。そんなわけで実家に置きっぱなしのアレンジ本をかき集めに帰るのだ。いやいや、もうそんな事考えるな、更に目をギュッと瞑ると、ドアが開き足元に夜風が周り込む。
「さっみ。つー」
小柄な女性が入ってくるのが目に入る。この路線で初めて見る相手ではない。職業柄、髪の毛を無意識に見てしまうからだろうか。何度か見かけた事のあるその黒髪ロングは、カラー未経験なのではないかと思うくらい無垢を感じた。「最近ああいう髪触ってねえな」ジロジロと見続けることが出来るのは、彼女は決して座らないことが分かっているからだ。ドア側の手すりに身体を少し預け外を向いて電車に揺られている。
車体がスピードを増し始めていた。ちらほらと町が整い始めた後から通ったこの線路は真っ直ぐに走っていない。昼間はカーブの前には必ずアナウンスが入る。終電だからか、たまたまなのか、今日は車内に響くものはない。ガタン!背中に大きく揺れを感じ取っていると、黒髪ロングが揺れと共にバランスを崩し鞄を落とした。トートバックが倒れ、中身がほんの少し顔を覗かせる。そんな中、丸いボールのようなものがいくつか転がり出た。カラフルなそれは、カーブに合わせ踊るように弧を描いていく。車両内にいるのは彼女と俺だけだ。四方八方に散ったボールは揺れに合わせて止まりそうもない。
「はいよ」
一番近くにあったボールを掴みあげると、この手触りには覚えがある。ガチャガチャのカプセルだ。球体の半分に色が付き、もう半分は透明で中身が丸見えのそれには、子どもの頃流行ったキャラクターの何かが入っていた。
「あ、ありがとうございます。すみません…」
側に立つと随分身長が低い人だ。
「このキャラって、すんごい昔のっすよね?」
渡そうとしながら自分の顔の高さにカプセルを掲げたので、その声につられて女性が顎をあげる。
「…あれ?粕谷…じゃね?」
黒髪ロングが二度三度ゆっくりと瞬きをする。
「中島君…?」
「そう!そうそう!なんだー。あ、じゃあ何回も見かけてたのも粕谷か…あっ」
言ってしまってから手を口に当てる。女ばっかり目で追ってる奴って思われただろうか?
「何回も…?そうだっけ?」
幸い、考え込んだ粕谷の目線は俺の肩より下にある。
「中島君…背、伸びたよね、すごく」
斜め下から見上げられる高揚感を押さえる。
「カズ、でいいよ。そう呼んでただろ、みんな。高校ん時伸びたんだよ」
そりあえず座ろうぜ、と粕谷だけを座席に落ち着かせると、散らばったカプセルを手早く集める。
「それで全部?」
尋ねながら、少し開けて、それでも間には人ひとり座る事は出来ないくらい、近い距離で腰を下ろす。鼓動が早まる。そうだ、この近さは小学生以来か。いつから粕谷は俺のことを下の名前で呼ばなくなったんだろう。動揺を抑える為に、缶ボトルを取り出し口にする。
「そう言えばお母さん、お元気?今も働かれてるの?あれ、どこだっけ…ええっと、マーメイド?」
パステルカラーの思い出引き出しを開けていた俺からしたら、原色な質問が飛んできて、含んでいたコーヒーでむせ返る。
「…っ!なんつー角度から話がくるんだよ。母ちゃんな、元気だよ。あと、グレースな、ドライクリーニング・グレース。もう名物妖怪なんじゃない?働いてるよ。」
そうだそうだ、グレースだ、と肯く横顔を見て、再び柔らかい気持ちにさせられる。
「久しぶり、だよな。いや、会ったのが、ってんじゃなくて。笑い顔見るのがさ。急に暗…おしとやかになっちゃったからさ。でも、そうやって沢山しゃべる感じが粕谷だよな。」
そうかな、と小首をかしげる感じ。そうだよ、粕谷のその言動ひとつが、俺の引き出しには捨てられず、他の物に入れ替えも出来ずに、ずっと詰まってるんだ。
初めて同じクラスになったのは小三。でも俺は一年の頃からずっと知っていた。学級員の任命式や書道、読書感想文なんかでいつも賞状をもらう、ふたクラス向こうの女の子。代表で舞台に呼ばれても背筋を伸ばして堂々としているその姿に、いつしか目が離せなくなった。お互い一番背が低いから学年集会では横は同じ列になる。これは同じクラスになったら隣になれる!三年生で願いが通じた時には思わずガッツポーズをしたものだった。サッカー仲間のイッちゃんがクラス発表の張り出し前で肩を組んできたけど、ごめん、俺の喜びの理由は粕谷だけだったんだ。
俺の夢は叶わなかった。いや、正確には叶ってるのだけど、誤算が生じた。お互い背の順では一番前なのだけれど、あの頃の学級委員は先頭に立ち、並ばせたり引き連れたりする役割があった。他薦で学級委員に選ばれる粕谷と、そんなものかすりもしない俺。自薦は…出来るわけがない。外野で野次専門程度の俺が立候補するなんて可笑しいに決まっている。そんなわけで、女子の一番前は粕谷、男子の一番前は学級委員。二人組も、フォークダンスのパートナーも、思ってたんと違う、を嫌って程体験したのであった。
「いつもこんな時間なのか?危なくね?」
何度も見かけていたとは、もう言えない。
「うん…。仕事終わりにね…絵を習いに行ってるの。今日はその帰り。」
「絵かぁ。そうだよな。めちゃめちゃ上手かったもんな。」
粕谷の視線がこちらに向く。
「私の事、覚えててくれてるんだね…。なんかさ、あきらめられない事ってあるよね。四年生の時に、なかっ…カズをモデルに絵を描いたの覚えてる?ピアニカを吹く人、だったかな。あれで賞を貰った事とか、中学で吹奏楽部に入部した時に『美術部じゃないの?』って言ってくれた事とか…そう言えばカズの思い出パズルって良いものばっかりだな。」
「なんだよ、思い出パズルって」
相変わらず天然ちゃん発言だな、と笑いながら、俺の方こそ思い当たる事ばかりだと汗ばむ。そうなんだ、粕谷との思い出は嫌なものが一つもない。蓋をしたいことも忘れたい事もない。でも、粕谷の中にも俺が残っていてくれたなんて。
「カズは、いつもこの時間なの?」
「まー、早く帰れてこの時間なんだよな。チャリでも仕事場行けんだけどよ、最近特に忙しっ…!なぁ!髪、切らせてくれねぇ?」
チーフとして出なければならないコンテストは2か月後に迫っていた。モデルの当たりは付けていたが、これはチャンスだろ。
「髪…?髪の毛が要るの?」
「あ?なんでそうなんだよ。カットカット。俺今美容師なんだわ。」
「あぁ、そうなんだ。うんうん、なんか雰囲気あるね。髪切り屋さんっぽい。」
上から下まで視線を走らせて粕谷が頷く。
「髪切り屋て。オイ。チャラいとか思ってんだろ?」
「うん、少し」
間髪を入れずに粕谷が微笑みながら答える。
「思ってんのかよ!」
拳を突きだし、粕谷の額を小突くようなしぐさをして見せる。なんだよ、この時間は。
真っ暗で思考を閉じてくれる事だけが幸いと思っていた終電、今はまだ駅に着くなと願っている自分がいる。
閉店時間が待ち遠しい。
「チーフ、お知り合いとかですか」
閉店後の電源の切れた自動ドアに近づいたり離れたり、ちょっとジャンプしてみたり…小動物か!
髪のケアと言っても塗りたくればいいと言うものでもない。土台である頭皮から取り組まねばならない。シャンプーと乾かし方でグッと変わってくる。「準備」という名目で毎日の様に店に寄ってもらう事になったのだ。
「前にカットしたのっていつよ?」
見定めと称して髪を触れる幸せを噛みしめながら、シャンプー台へと促す。
「二年前かな?ちょっと苦手意識があって。」
「なんで?トークが、とか?」
「うーん…なんでだろ。トークもあるんだけど、逃げられないから?服屋とか、自分には敷居が高いというか…入る前から笑われるんじゃないかな、なんて身構えちゃうんだよね。服は置いて帰れるけど、美容室は引き返せないでしょ?…あとは、シャンプーは自分でしたいっていうか…」
中一の終わりに転校生が来た。女子ながらに皆を笑わすのが抜群に上手いその転校生・松井がある日、粕谷の頭を見下ろして、
「ワー!カスさん、フケがあるー。」
男子の中では、そんな事もあるじゃん、くらいのその場限りの話であったが、女子の間ではフケカスとあだ名が付いたとか。俺はあの一件が、元々大人しい粕谷が変に頑なになった一因なんじゃないかとずっと思っていた。雑誌を持ってくる事は校則違反だったけれど、手帳に好きな芸能人の切り抜きなんかを張り付けていたあの頃。どんなのが好みなんて下世話な話になった。すぐ近くに粕谷がいるのに!
「俺?オレは…俺の名前が大きく入っている人だな!」
一瞬の間ののち、大爆笑が起こる。なんだよ、結局身体かよ!俺の名前はムネカズだ。タイプを並べて行ったら粕谷だって事がばれる。それだけは回避せねばと取った受け身により、胸の大きな女子=松井が好きだと噂が流れた時期もあった。
「松井か!もう、あいつの事なんてどーでもいいじゃんか!」
語尾を荒げる俺にびっくりして身体を起こそうとする粕谷に、泡だらけだぞ、と声をかけ制止する。
「…松井さんね…しょうがなかったんじゃないかな。転校生だったから。学生時代って椅子取りゲームみたいなところあるじゃない?誰かにどいてもらわないと自分の席が確保できなかったのかもね。それに私がこんな感じ?になったのはね、自分からなんだよね、たぶん。幸せの数に限りが有るような気がしたら、なんか今までの自分ではいけないような…って何言ってんだかわかんないよね?」
「おぉ、全然わかんねー。」
タオルの下の粕谷は今どんな顔してるんだろう。
「髪って続くよね。素敵に仕上げてもらったら、ずっと効果のある栄養ドリンクみたいな、ね。苦手って言ってごめんね。でも得意分野じゃないからお願いしたいって思える。本当、今回声を掛けもらえて、毎日カズからお守り貰ってるみたいだよ。」
シャワーで生え際辺りを優しく流す。頭皮って肌だよな。今、粕谷の肌に触れてるんだ。思い出した、とは違う。そうだ、俺はこうやって笑顔を作りたくって美容師になったんだ。
「なぁ、下の名前で呼んでいいか?」
初恋の引き出しが今、優しく開かれていく音がする。
不器用にでも心に正直に生きている人に出会うと、自分の「おざなり感」を見つめ直す機会になりませんか?
息苦しい理由とは、自分自身が決めた「範囲」なのかもしれません。
どう見られるかにとらわれていた主人公が、引き出しに大事にしまっていた「着心地の良い」に向き合う様を綴れていたらいいなと思います。