最終話
ハルオくんが帰ってきた時には、もう神矢さんは仕事に戻っていた。
一報は入れていた。けれど用が済まないからまだ戻れないと返事をくれたハルオくんは、連絡して少ししてから帰ってきたのだ。
神矢さんも居ないというのにシャッターも開けないまま、ハルオくんは意外そうに「行っちゃったかと思った」と笑う。
「行かなかったよ。……マサオくんは?」
「第一声がそれか。雅臣なら先に帰ったよ」
「え、なんで! 一緒に帰ろうって言ったのに……」
天井の高いギャラリーに声が響く。自分のものだというのに、なんだか違う人の声みたいだ。
「……雅臣も、由衣が彼について行くって思っていたからね。ここに戻ってくる必要なんかないって思ったんだろ」
「……それは」
仕方がないのかもしれない。
これまでだってそうだったのだ。私はマサオくんの事を忘れて、東京で楽しんでいた。都合よく弱った時だけ島に行ったのだから、神矢さんと関係が戻ったのなら島にはもう行かないだろうと思うのも分かる。
それでも。
今、マサオくんに会いたいと思った。
「……ここにある絵は売約済って言ったんだけどさ、実は二枚だけ違うんだよ」
コツコツと、靴を鳴らして、ハルオくんがこちらにやってくる。ゆったりとした歩みに焦りはなく、視線はどこか一点を見つめて。私を通り過ぎたかと思えば、その絵の前で足を止めた。
「羨望、と、分別と恋情。この二枚だけは雅臣が売ることを拒否したんだ。……この二枚は、特別高値がついていたんだけどね……画商としては残念だったなあ」
“羨望”はさっき見たものだ。今もハルオくんの前にあるもので、雪降る海に、ぽつりと女性が立っている絵。神々しいようにも見えるそれは、雪が降っているというのに色彩鮮やかに描かれている。
“分別と恋情”はどこにあるのかは分からないけれど……探している私に気づいたのか、ハルオくんがこっちにおいでと言わんばかりに歩き出した。
「雅臣って分かりにくいだろ。口数も少ないし、表情も乏しいし」
「……え、ああ……まあ、一般的に見れば、そうだね」
「けどさあ、感情が出ないんじゃないんだよ。出せないんだ。……出し方を知らない、というのが正しいのかもしれない」
「……なんで?」
「それは俺にも分からないよ。だけど……雅臣が絵を描き始めたきっかけは、ただ暇だったから、なのかもしれないけど、もしかしたら感情を出す唯一の手段だったからなのかもしれないなと、今はそう思うんだ」
感情を出す手段。あまりピンと来なかったけど、ハルオくんはもう何も言ってくれそうにない。どうしてそう思ったのかも分からないまま、ある絵の前でハルオくんがピタリと足を止めた。
「分別とは、善悪や損得、そういうものを識別して、道理をわきまえるという意味がある。……我が儘にも自分勝手にもなってしまう恋情なんて言葉とは正反対だけど、感情とはままならないものだから、その対極的とも思える二つが並ぶのは葛藤が浮かんでいるみたいで、実に人間らしいよね」
大きめのキャンバス。それを眩しそうに見上げるハルオくんの視線を追いかけるように、私もその絵に目を向ける。
「…………私?」
ただし、それは横顔だった。
最近のものでもない。まだまだ幼く描かれている私は、一人で本を読んでいる。
――覚えがある。マサオくんの側が落ち着くからと、絵を描きに行くマサオくんに勝手について行っていた時だ。この絵にあるのがいったいいつ頃のものなのかは分からないけれど、当時の私は暇だったからよく本を読んでいた。
「描き手側が濃い配色で、一番手前は真っ黒だ。感情そのものだろ」
確かに、山が背景で全体的に淡い色合いなのに、手前に近づくにつれてだんだんと濃い色に変わっている。グラデーションのように美しい色合いのそれを見て、ふとマサオくんの言葉を思い出した。
『色は、感情に似てる』
一番手前の黒。それは何を表しているのか。
「……気負うな、とは言ったけど……雅臣はね、ショックだったと思うよ」
「……ショック?」
「そう。由衣が島に行かなくなってさ。……あいつには、由衣だけだったからね」
分別と恋情。その分別の部分には、マサオくんのどんな感情が込められたのだろうか。
『由衣ちゃんにはおれだけだった。……けど、捨てたのも由衣ちゃんだ。もう要らないってさ』
マサオくんにも、私だけだったのに。私は一度拾い上げたマサオくんの心を、あの島に置き去りにしてしまったのかもしれない。
捨てたと思わせた。いや、忘れる、とは結局捨てたのと同じ事なのだ。
(…………なに、してたんだろ)
ギャラリーに並ぶ、マサオくんの莫大な感情を広く見渡す。
人気が出て。持て囃されて。調子に乗って。有名な人と付き合って。浮かれて、勘違いして、これまでのことを全て忘れて、天狗になっていた。今まで私を守ってくれていた拠り所を捨てて、真新しいところにだけ目を向けていた。
そうして弱った時だけ、都合良くそこに戻ったのだ。
マサオくんの怒りはもっともだ。最低だ、なんて言葉も。
「だからお願いだよ、由衣。もう雅臣には会わないでやってくれないかな」
ハルオくんは、困ったようにそう言った。
見る限り悪感情はない。本当にただ、マサオくんのためだけに言っている。
「雅臣は脆い。今回だって、由衣に久しぶりに会って揺れたはずだ。……あいつの事はよく分かるよ。すぐ作品に出るからね。由衣が島に寄り付かなくなった時が一番酷かったんだ」
表情が変わらないから、不気味だったよ。
そう付け足して、ハルオくんは苦笑を漏らす。
「これ以上、報われない気持ちを強くしてほしくない。新しい相手を見つけるべきなんだ。由衣も、雅臣も」
「……新しい相手?」
「そうだよ。俺は神矢さんと由衣がよりを戻してくれたら都合が良かったんだけど……――実は今日、雅臣にはお見合いをしてもらったんだ。と言っても顔合わせくらいの軽いものだけどね。常連さんが、娘を是非、とずっと言ってくれていたから」
「だけど……マサオくんは、」
「雅臣の事は心配要らない。なに、少し島に寄らなければまた忘れるさ。だから由衣、このまま東京の家に戻ってくれないか」
分別と恋情。それを、静かに見上げる。
私はいったい、どうしたいんだろう。
(また、忘れる……本当に?)
だって私は、知ってしまった。やっぱりあそこが必要だと。マサオくんの側が、居心地が良いと。私に足りなかったものも、それまでの自分がいかに調子に乗っていたのかも分かった。
全部、マサオくんが教えてくれたのだ。
「……うん。帰ろうかな」
「そうか。ありがとう」
「ううん。…………ねえ、ハルオくん。一個だけ約束させてほしい」
「約束?」
突然何を言い出すのか、そんな驚きを隠しもしないまま、ハルオくんが私を見下ろした。
――結局。復帰はそれから半年後になった。
週刊誌の件も落ち着いて、続々出てきた若手の子たちも苦しくなってきた頃合だ。半年間で自分を最大限に磨いて、全ての時間を未来に投資した。いつでも出れるようにと、久坂さんと事務所と話し合った結果だ。
復帰は、寄木知里と同じく、主演ドラマでと決めた。
発表された時、相手の事務所は悔しかっただろうけれど、それも計算のうちである。――軌道に乗れば私は負けない。今は胸を張ってそう思えた。
「いやー、さすが由衣ね。半年のブランクなんてものともしない」
久坂さんが運転をしながら、満足そうに笑う。
「なに? 突然」
「だってそうじゃない。世間の反応見た? 出てきてた二番煎じの顔も。最高にシビれたわ。局ですれ違う時が楽しみね」
そういえば久坂さんは好戦的な性格だった。おかげで仕事がたくさん入っていると思えばそれで良いのだろうけど、ほどほどに、とは思う時がある。
余計な敵を生み出すのは本意ではないし、結局大変になるのは久坂さんだ。
「……ほんと、久坂さんが居なかったら復帰できて無かったよ。ありがとう」
「あらなに? 急にデレちゃって」
「変かな」
「変……そうね、変かも。そうやって改まってお礼を言われるなんて無かったもの」
「……そっか」
私はそんな事も出来ていなかったのかと。半年経っても学ぶ事が多い。
「変わったわよ、由衣。休止からね、お礼を言うようになったし、挨拶も積極的にしてる。今までもそうだったんだけど、なんというか……刺が抜けた、というか、ギラギラ感がキラキラ感になった? 感じ」
「なにそれ」
よく分からない例えが面白くて、つい吹き出した。
すると久坂さんも嬉しそうに笑って「だって本当のことよ」と、ちらりと私を一瞥する。
「今日は復帰後一発目のバラエティだからね。……頼むわよ。局には、撮影で神矢くんも居るの。もちろんスタジオは違う」
「うん。大丈夫。私ってさ、図太くて最低だから」
「由衣ってたまに分からない事を言うわよねえ」
ウィンカーを出して、車が地下駐車場へと吸い込まれる。もう見慣れたはずなのに、半年ぶりという事に少しばかり緊張が走った。
「島には行かないの?」
バタン、と、車から出たところで、この半年でもう何度も聞いた言葉が投げかけられた。
だから私も、もう何度も返した言葉を吐き出す。
「まだダメなの。…………まだ。半年しか経ってないんだもん」
「……期間の問題なの?」
「約束だからね」
もう、すっかり冬は抜けきった。あの思い出の雪の降る島も、今頃華やかに変わっているのだろうか。
「連絡は?」
「してないよ」
「……いいの? その……私はあまりよく知らないけど……彼、」
「いいの。……久坂さんには本当感謝しなきゃ。あの時、久坂さんが番号を彩子さんに預けてなかったら、今の私はなかったもんね」
局内のエレベーターにたどり着いて、ボタンを押した。ぐんぐんと降りてくるその表示を見上げていると、隣から久坂さんの視線を強く感じる。
「私にも責任があるから当たり前よ」
「ありがとう」
そのおかげで、マサオくんが久坂さんにコンタクトを取れたのだ。そうして私は神矢さんと向き合えたし、マサオくんの心も知れた。
一歩進んだ未来に来れた。
「最近の由衣は本当に丸くなったわ。良い事だけど……いつまでもつやら」
「いつまでも」
すれ違うスタッフさんに挨拶をしながら歩んで、控え室にたどり着いた。
久坂さんが打ち合わせがあるからとどこかに行くのを見送って、私は控え室に入る。
携帯が震えた。確認すればハルオくんからで、今度飲みに行こう、というメッセージが入っている。
それに迷わず了承を返して、携帯を伏せた。
半年前から話にあがっていたマサオくんの個展は、先日つつがなく開催された。もちろん見に行ったし、満足そうにお客さんに混ざっていたハルオくんにも驚かれたものだ。
どうしてそんなに、とは思うけど、私がマサオくんの作品を見に来るなんて初めての事だから仕方がないのだろう。
「驚いたよ。忘れていると思ってた」
そうやって揶揄されたけど、そこには嫌悪はなかったからただの軽口だろう。
言葉とは裏腹な、清々しい笑顔。それを見て、私も安心してギャラリーを回った。
一番最近仕上がったものだよ、と言われた絵は、寂しくどんよりとしていた。
マサオくんはすべてを絵に込める。ハルオくんのその言葉を思い出せば、新作の絵から語られるマサオくんの状態に胸が痛んだ。
今もきっと、マサオくんはあの寂しいプレハブで一人、絵を描いている。季節が変わっても、何度巡ってもずっと、一人でひたすら、キャンバスに向かうのだろう。
「約束までは長いよ。……忘れることを祈ってる」
「意地悪だね。大丈夫だもん」
それが、ハルオくんと会った最後だ。
コンコン、と控えめな音が聞こえた。
誰かの挨拶かなと気軽に返事をすると、遠慮なく扉が開く。
「久しぶり、由衣。同じ局だって聞いて来ちゃった」
神矢さんはそう言って、以前と変わらない笑顔を見せた。
――会うのはいつぶりだろう。ずっと休んでいたしそもそも連絡もとっていなかったから、半年ぶり、になるのだろうか。自分の事で忙しくて、そんな事もあやふやだ。
「久しぶりだね。……今日はバラエティだよ。ドラマの番宣」
「あー、放送前から話題性強いからなあ……怖いよ、由衣が戻ってくるの」
「なんでよ、戻ってきてって言ったくせに」
「言ったけどね」
「……私、前よりも頑張るから。神矢さんも頑張ってね、ライバルなんだからね」
神矢さんはキョトンとしたけど、すぐにふっと笑ってくれた。
「いいね。いい目をしてる。……俺をライバルだって言ってくれるんだね。これは落ち目なんて言わせてられないな」
とか言っているけれど、神矢さんは半年前の売名行為をしっかり成功させている。主に映画に出演している事が多く、地方撮影によく出向いているイメージだ。
道を広げて人気をさらに持ち上げていかなければならないために、これからの方が大変だろう。
「……由衣。頑張れよ」
「言われなくても」
寂しく笑って、神矢さんは「生意気だな」と残して控え室を出て行った。
――神矢さんと会っても、もう揺らぐことはない。
すべてを受け入れて、しっかりと過去に出来た。恨みもないし、嫌うなんてこともない。そもそも、神矢さんだけを責められた事でもないのだ。
神矢さんも頑張ってと。心で呟いて、腰を下ろした。
スタジオ入りまで時間はまだある。そのため、すっかり空き時間の日課になっているそれを、すぐにカバンから取り出した。
この間出された、ハルオくんのギャラリーでしか手に入らない「稲葉まさお」のこれまでのすべてを詰め込んだ画集だ。
マサオくんはなんというか、狭く深く有名らしい。若いからメディアからお呼ばれもあるらしいのだけど、ハルオくん曰く「あの性格」なために全部バッサリと断っているのだという。だからこそその名を広げる事もなく、ひっそりと有名、に留まっているのだろう。
おかげで、私が置いてけぼりにされることはない。もしもマサオくんがメディアに顔なんて出していたなら、私では追いつけないところに行っていたはずだ。
(……ちょっとずるいけど……約束の時までは、私が頑張らないといけないから)
マサオくんにはゆっくりと休んでいてほしい、というのが本音である。
画集の最後。
大きく載っているのは、ギャラリーに長く置かれている二枚だった。
――羨望。そして、分別と恋情。
稲葉まさおが唯一人物を描いたとされるそれらを見るのが、私の唯一の原動力になっている。
「あと、四年と半年……」
時間は、意外と短い。あっという間に過ぎる中で、私にどれだけの事が成せるだろう。
マサオくんに置いていかれないように。忘れられないように名を馳せて、恥ずかしくない人間にならなければならない。
「由衣。挨拶行くわよ」
久坂さんが顔を出した。それに頷いて、もう一度だけ画集を見る。
触れれば、その先にマサオくんが居る気がした。
(……行ってくるね)
そうしてそれを丁寧にカバンに戻して、立ち上がる。
まずは、華やかな復帰から。
気合を入れて、控え室から踏み出した。