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第四話

 




 

 


 その日は、マサオくんのアトリエとも言えるプレハブに行っても、マサオくんは居なかった。

 先日のように外に居るのか、と確認しても見当たらなくて、どうやら付近にも居ないらしい。だから実家である彩子さんの家にやって来た、のが少し前だ。

 私が来るなり、彩子さんはすぐにリビングに通してくれた。そして「少し待っててね、雅臣はまだ準備してるから」なんて言い残して、忙しなく買い物に出て行ってしまう。


(……準備?)

 それはいったい、何の――? 

 聞こうにも、相手は居ない。どうやら私には「待つ」という選択肢しか用意されていないらしい。

(……何も聞いてないけど……)

 もしも私が来なかったら、黙って一人でどこかに行ってしまっていたのだろうか。マサオくんの事だから長期でどこかに行くことはないのだろうけれど、それでも寂しいとは思ってしまう。


 遠くから微かに音が聞こえた。きっとマサオくんが「準備」とやらをしている音だろう。

 それをなんとなく聞き流しながら、一人、静かなリビングでぼんやりと考える。


 二度目のキスでは、逃げ出さなかった。目を開けて、至近距離で目が合って、恥ずかしいねと笑ってみせた。

 受け入れたというのが正しい。

 私は初めて、あの瞬間確かに、マサオくんを男の子として受け入れた。

 マサオくんはその後何も言わずに切なそうに眉を寄せたけれど、それだけだった。あまりにもあっさりと、いつもの定位置へと戻っていた。


 あの表情にはどんな意味が秘められていたのだろうか。あの時のマサオくんはどんな気持ちだったのか。

 キスの意味も。マサオくんの真意も。マサオくんが何も言わないから、私には何一つ分からない。


「あれ、来てたんだ」

 リビングにやって来たマサオくんは、いつもと変わらない声音でそう言った。

 どこに行くの、と言いかけた唇が、息を吸い込んで止まる。

「なんでスーツ着てるの?」

 代わりに出てきたのは、マサオくんの格好に対するそんな質問だった。

「……東京、行くから」

「え、マサオくんが? あんなに嫌いだって、」

「そう。おれは東京が嫌い。だから由衣ちゃんも行くんだよ」

「……私も?」

「そう。……例の個展企画の話を詰めに兄さんのところに行くだけだよ。ついでに会わせたい人が居る、とか言ってたから、スーツ」

「……なるほど」

 ハルオくんのギャラリーは東京で、活動拠点も関東地区である。

「じゃあ、行く?」

 私に必要なのは、携帯と財布と帽子だけだ。世間にはもう求められていないのだろうし、服装も張り切る必要はない。もともと美容にはこだわっていたから頑張らなくてもそれなりに見えるし、その辺はお金を掛けておいて良かったと思える。

 誰のためでもなければ、人はこんなにも無頓着になれる。

 私は今まで、ファンだと言ってくれる不特定多数のために着飾っていたのかと気づけば、なんだか虚しさに苛まれた。

 たった一人の特別にもなれなかった私は、誰か一人のために綺麗になる事も出来ない。それは、ひどく寂しいことのような気がした。





 港までは歩いて近い。二人で会話もなく、ただ冬の海の音に耳を傾けていた。

 ピンと張り詰めた冷気。雪の降りそうな曇天が太陽を隠して、いっそう寒さを引き立てる。潮の匂いと白の吐息、ピリピリと肌で感じる寒さも合わさって、五感のすべてが冬を知らせているようだった。


 目深に被った帽子から、少し前を歩くマサオくんを盗み見た。

 マサオくんは恐ろしい程に何も変わらない。何も言わない。何も求めない。

 だけどもし私に関して何かを言って、何かを求めたなら、私はいったいどうするのだろうか。



「船に乗るのも久しぶりだ」

 遠のく島を見つめながら、独り言のようにマサオくんは呟いた。

 遠い目だ。心を置いてけぼりにしたような、そんな表情。

「そうだろうね。マサオくんは島に引きこもってるから」

「……必要性が無いんだよ。仕事なら兄さんが来る。生活には母さんも居る」

 まるで子どものように言って、マサオくんは船内に戻った。

 暖房の効いている暖かなそこには、利用客は居ない。時間帯もあるのだろう。朝の出勤時間なら、この船はいっぱいになっていたはずだ。

 今は私とマサオくんの二人だけ。並んで椅子に腰掛けて、ただ海を眺めていた。

「……なんで今回は、マサオくんが東京に行くの?」

 急になんだ、と。そう問いかける目が、私に向いた。

「さっき言ったでしょ。仕事ならハルオくんが島に来てくれるって。……今回は、マサオくんが東京に行くんだなって、不思議に思っただけ」

「……会わせたい人が居るって、言われたからね」

「あ、そっか。そうだったね」

 それからは何も言わないままで、なんとなく海を見ていた。見慣れていたはずのそれも、東京に長く居すぎたせいかひどく懐かしいものに感じる。

 忙しさにかまかけて、大切なものを見落としていたのかもしれない。そう、改めて感じた瞬間だった。


 無言の中、腿に乗せていた私の手に、不意にマサオくんの手が重なる。

 言葉は何もない。ごく自然に、ひんやりとしたそれが私を捕まえた。違和感もなく、まるでそれが当たり前であるかのような感覚に、私も何も言わずに受け入れた。

 不思議と、なんで、とは思わなかった。ただあまりにも自然だったから、それが正解だと思ったのだ。


 波の音が微かに聞こえる。

 ポケットの中では携帯が震えて、長い間着信を知らせていた。




 

 








 船が着いてから、タクシーを拾って数時間。運転手さんには気づかれたのかそうでないのかは分からないけれど、意識して出来るだけ俯いていた。

 バレたっていい。だけど身に付いた習慣がそれを許さない。もう不要だというのに、なんとも悲しい習性である。

 隣に座るマサオくんはいつもと変わらず、ぼんやりと外を見ていた。

 ただ、もう手を握ってくれる事はなかった。



「ああ、来たか雅臣!」

 街の裏通りにあるハルオくんのギャラリーは、わりと広い。目印にしていた独特な看板を見つけたのと同時に、ハルオくんがマサオくんを見つけ出した。

「ほんっとにこういう場所が似合わない男だな、雅臣」

「……いいよ別に、似合おうとも思わない」

 ハルオくんの過度な出迎えにうんざりとしたマサオくんは、そそくさと人の居ないギャラリーに入っていく。

「つれないなあ。……久しぶりだね、由衣。活躍は聞いてるよ。あの騒動もね。いろいろ大変だったなあ」

「ははは、恥ずかしいね……」

「ここでは由衣は目立つ。行こう」

 どことなく感じる視線。だけど怖くて確認も出来ないまま、俯き気味にギャラリーへと足を向けた。


 広いホール内には、これまでのマサオくんの作品がずらりと並んでいる。抜き取られたように空いたスペースもあるけれど、もしかしたらそこにあった絵は売れたのかもしれない。

 マサオくんはどこに行ったのかとぐるりと見渡せば、自身の絵を振り返っているのか、一つ一つをじっくりと見て歩いていた。

「ここの作品、実は全部売約済なんだ」

「えっ……そう、なんだ、すごい……」

「そう、すごいんだよ。雅臣にはね、熱狂的なファンが増えた。あいつは天才だよ。水彩でも油彩でも……なんでもこなしてしまう。それを『気分でやってる』って言うんだから、もう何も言えないよな」

 二十一歳の天才、は伊達じゃないらしい。私が知らなかっただけで、マサオくんはすごい人になっていたのだ。

「由衣には感謝してるんだ。あいつの才能を開花させたのは、由衣だからね」

「……私?」

「覚えてない? ……あいつ、昔はよく一人でどっか行って、ただひたすら何かを描いてただろ」

 そういえば、そうだった。最初に見つけたのは、あの森の入口だ。マサオくんが一心不乱に何かをかきなぐっていたから、それが気になって声をかけたのだ。

 それからなんとなく、居心地が良くてマサオくんに引っ付いていたけれど。それまでは確かに、マサオくんはふらりと消えて何かを描いて帰ってくる、という事を繰り返していた。

「ある日から、絵のタッチが変わった。優しく……違うな、柔らかくなった、か……とにかく、いい方向に変化したんだ。聞けば、今は絵を描くのが楽しいって言ったんだよ。由衣ちゃんが居てくれるから、一人きりは寂しかったからって」

「…………寂し、かったって……」

「ああ。当時はあの島でやる事もなくて、雅臣もただ暇だから絵を描いてたんだろうね。だけど、由衣が雅臣を見つけてくれてから、絵を描く事に意味が生まれた。それが初めて『楽しい』ものだと思えたんだろう」




 ――どうしてマサオくんは、この寒い場所に居るんだろう。



 マサオくんのアトリエに入って、一番最初に感じた疑問だ。私はどうしてと、確かに思った。だから数日後にはそれを聞いていた。特に悪い事だとも、特別な意味があるとも思わなかった。マサオくんの事だからきっと、面倒くさいとか、そういう理由だと思っていたのだ。

 だけど。

『落ち着くよ。静かで、安心出来る』

 かつて「一人きりは寂しかった」と言ったマサオくんは、あの空間を、落ち着くと言った。


 私が、言わせてしまったのだろうか。


 ――まるで世界に一人きりだと感じてしまうここが落ち着くのは、きっと「絵が描けるから」という理由だけではないのだろう。


 うっすらと分かっていたそれが、ゆっくりと確信に変わる。

 マサオくんは、あそこに居たいわけではない。取り残されたマサオくんには、あそこだけが唯一の「居場所」だったのだ。


「だから、由衣のおかげなんだ。あいつに社会性は薄い。だけど今みたいな生活なら送ることが出来る。自由にさせてやれる」

「……だけど、私、全然島に行かなくて」

「気負うなよ。あいつも俺も、なんとも思ってない。由衣にも由衣の生活がある。分かってるから」

 最低だと言われた。都合がいい、とも。

 だけど確かに、あの時のマサオくんには責めるような空気はなかった。

 諦め、というのが近いのかもしれない。

 マサオくんが元々あんな感じだから分かりづらいけれど、思い返せばいつだって、なにもかもを諦めて、どうでも良いように会話をしていた気がする。


「兄さん、時間」

 戻ってきたマサオくんが気だるそうに言って、ちらりと私に視線を移す。

 時間、ということは、何かがあるのかもしれない。

「……え、あ、私出てようか」

「あー、由衣は居ていいよ。むしろ俺と雅臣が出てくって感じかな」

「え……」

 マサオくんの表情からは、何もヒントは得られない。ただじっと私を見て、すぐにふいと背を向けた。

「マサオくん」

 なんとなく。どこか遠くに行ってしまうのではないかと思って、呼び止めていた。

 その背中は振り返らない。ただ、足を止めただけだった。

「用事終わったら戻ってきてね。……一緒に、島に戻ろう」

 何かが聞こえた。だけどあまりにも小さいそれは私には聞き取れなくて、結局マサオくんは行ってしまう。


「そうだ、由衣」

 ハルオくんが少しだけ間を置いて、パッと笑顔を浮かべる。

「由衣の後に出てきたあの女優、一発屋になりそうな感じだ。本人の我が強いのか、最初は由衣に似せて出てきたのに、本性がたまにチラ見えするんだよ。どうやらあの子はぶりっ子らしくてね、女の子受けは良くないみたい」

 確か、寄木知里よりきちさとという名前だったか。業界から遠ざかっていたし、どうせ評判は上々なんだろうと思い込んで、彼女について調べる事もしていなかった。

「あと普通に、由衣が愛されすぎてたね。……SNSも見てみるといいよ。由衣が戻って来る事を願ってる声は多いから」

 言い残して、ハルオくんが手を振った。

 その仕草を見て行ってしまうと思った途端、引き止めるようについがっちりと腕を掴む。

「……待って、戻ってくるよね?」

「……驚いたな。それを俺に言うの?」

「マサオくん! ……用事済んだら、連れてきてね」

 本当に、なんとなく、というだけで確証はない。嫌な予感がしたのだ。だからハルオくんに念を押せば、ハルオくんは困ったように笑って「分かった分かった」と軽い言葉を返した。



 二人とも出て行って、ギャラリーに一人。ハルオくんは出て行くと同時にシャッターまで閉めてしまったから、外の様子も分からなくなってしまった。

 まるで閉じ込められたみたいだと。そんな事を思いながら、マサオくんの作品を流し見ていく。


 当然ながら全部知らないものだ。

 私が東京で働いていた間に、マサオくんが一人で作った作品。会いに行かなかった数年の間に仕上がった、マサオくんの「才能」だ。


 ――私には、絵の事はよく分からない。水彩も油彩も分からなくて、本当にただ流し見て感じる事しか出来ないけれど、それでも漠然と「寂しい」と「すごい」を感じられた。


 以前に言ってくれた、黒という彩。確かにマサオくんの作品には、それが映えている。


 


「由衣」


 声がした。離れたところから聞こえたそれ。少し前には当たり前に聞いていたその声がここにあるはずはないのにと、そう思いながらもゆっくりとそちらに視線を移す。

「……神矢さん……?」

 どうして神矢さんが、ハルオくんのギャラリーに。思うけれど、言葉にはならなかった。

 離れていたのはほんの少しの間だ。だけど、随分空気が変わった気がする。これがあの、自信に溢れて勢いのあった神矢さんかと、心のどこかでそう思ってしまうほどには、覇気が感じられなかった。

「……電話があったんだ。由衣のマネージャーから。由衣と話が出来るって、時間と場所を指定された」

「なんで……? でもここは、私の昔馴染みのお店なのに……」

「俺にも分からないよ。ただ、マネージャーいわく、その『昔馴染み』からの提案らしいけど」

 言い難そうにそう言って、神矢さんは苦笑を浮かべる。




 ――きっとまだ終わってないよ、由衣ちゃん。



 唐突に、理解をしてしまった。

 マサオくんの真意。気持ち。私が思うよりも、うんと深いそれ。

 だからわざわざ、マサオくんが東京に来たのか。東京が嫌いなくせに。私を奪ったって、拗ねていたくせに。あの場所でずっと待つくらいには、動けなかったはずなのに。

 今、彼は私のために、東京に足を運ぶのか。


「……由衣に謝りたかった。陥れた事は事実なんだ」

 神矢さんが、深く頭を下げる。

 謝罪をされた。それで、どうだろう。私は、どうすべきなんだろう。

 何が正解なのかも分からない。

 自分がどうしたいのかさえも曖昧で、思考はもうぐちゃぐちゃだ。

「……うん。知ってるよ。だから、電話無視したんだもん」

「……ごめん」

 ゆっくりと、神矢さんが姿勢を戻す。そうして伺うように、上目に私を見た。

「だけど、俺たちが仲良くなった事に、事務所の意思はない。俺と由衣が付き合った事にも、俺の気持ちにも、事務所はまったく関係がないよ」

「……どういう事?」

「俺と由衣の関係に気づいた事務所が、それを利用しようと考えた。事務所が関わったのはそこだけだ。撮らせるタイミングだけ考えれば、由衣が転落するって言うから……もしかしたら、独り占めできるようになるんじゃないかって思って、従ってしまった」

 だけど、それなら、もしかしてと。そう思うのに、どう言えば良いのかも分からず言葉が出てこようとしない。


 一度心に住み着いた疑心は、期待する事を恐れているのか。

 神矢さんはまた新しく私を騙そうとしているのだと、悪魔がそう囁くのだ。


「由衣が好きな事に嘘はない。これだけは本当だ。信じてほしい」

 相手はベテラン俳優だ。子どもの頃から演技をしている。

 信じられるだろうか。絶対に同じような事が起きない保証は――?


(……私は)

 私はどうしたいのだろう。それがいまいち、よく分からなかった。


 ――好きなんだよ、由衣ちゃんはまだ。簡単に忘れられるわけないんだ。長く恋をした相手なら尚更。

 言葉が聞こえた。マサオくんの、諭すような言葉だ。

 ぐしゃぐしゃになった気持ちが凪ぐ、落ち着いた声で。ストレートに言われた言葉は果たして、正しかったのだろうか。


 神矢さんが好きだった。初めての事を、すべて教えてくれた人だった。

 何もかもがキラキラしていて、昔からテレビで見ていた人だから浮かれて、嬉しくて、楽しくて。バレないようにひっそりと会って、不自由な分スリリングな感覚にわくわくしたものだ。

 触れた熱も、好きだと言ってくれた言葉も、昨日の事のように覚えている。

 好き、だったのだ。

 ちゃんと恋をしていた。将来を考えた。大好きで、この人とずっと居るのだと信じていた。疑わなかった。

 なら、やり直せる?

(…………どうだろう)

 キシ、と心の軋む音が聞こえる。


 素直に手を取れないのは、どうしてだろう。


「……顔色が、良くなったね」

 ころりと、話が変わった。それに驚いて神矢さんを見るけれど、神矢さんは爽やかに微笑むだけである。

「等身大、というのが正しいのか分からないけど……今の由衣は自然体だ。周りの目も気にしていない、飾っていないただの女性」

「……なに? 当たり前だよ、だって休止中だもん」

「当たり前ではないんだよ。これまで由衣はオフでも気を張ってたはずだ」

 そういえばと、少し前に思った事を思い出す。

 不特定多数のファンのために、これまでは隙なく着飾っていた。もちろんオフだからと言って手は抜かない。どこで誰に見られているか分からないからだ。

「今、東京を離れてるんだよね? それが良かったのかな……俺は、今の由衣の方が好きかも」

「……そ、か」

「うん。……図々しいんだろうけどさ、俺は別れたつもりはないんだ。今も由衣が好きだし、全部が嘘じゃないって知ってほしくてこうして時間作るくらいには必死になってる。俺たち、また最初からでもやり直せないかな」

 言われて、自分の事を考えた。

 どうしたいのか。もう何度も巡った自問に、やっぱり答えはない。

「……分からなくて」

 神矢さんが、静かに私を見る。

「神矢さんに騙されたと思って、すごくどん底で……嫌いにもなれなくて、やっぱり好きで、いろんな感情がぐちゃぐちゃだったの。昔馴染みのところに行ってもそれは変わらなかった。……だから、分からないけど……正直、これから神矢さんの事を信じられるとも思わない」

 曖昧な感情の中、それだけは確かだった。

 おそらく、確実に、神矢さんを今後信じる事は出来ない。もしかしたら、業界人全員に対して言える事かもしれない。



「すみません。神矢さんとは、お別れします」



 軽く頭を下げた。

 神矢さんは何も言わない。ただ静かに間を置いて、すうと息を吸い込んで。


「稲葉まさお、だっけ」


 またしてもそっぽ向いた話題に、つい頭を上げる。

「彼がね、由衣のマネージャーに連絡したらしい。…………おれじゃだめだから、って言われたんだってさ」

 神矢さんの目が、隣にあったマサオくんの作品を映した。

 広がる海と、降り注ぐ雪。島がポツポツと見えるその海には、人が立っている。

「粋だよ、まったく……羨望、なんてね」

 羨望、というタイトル。描かれた景色は島の港から東京に向けてのもので、遠くにぽつんと女性が立っている絵だった。海の上に立っているし、背景が透けているために生きている人ではないのか。――――あるいは、彼女こそが「羨望」という印象をカタチにしたものなのか。

「俺は失敗したんだね。独り占めしようと、欲を出してしまった。それで由衣が俺を信じられなくなる可能性も顧みず、目の前の欲に走って……悪い事はできないってことなのかな」

 少しだけ、明るい笑顔を浮かべて。神矢さんは「だけど」と静かに続ける。

「……由衣。俺の事は別にしてもね、復帰はしてほしい。最近のファンの子たちを知ってる? ここぞとばかりに続々出てくる若手に、量産型だってうんざりしてるんだよ。……本物が出ない限りは、収拾がつかない」

「……うんざり……」

「知らなかったんだね。ほんと由衣って、サイクルが敵だよね。一度底に行っちゃうと、とことん悪い思考に走る」

「だって、」

「分かってるよ。今回は俺がそうさせてたんだ。……なんでもいいからさ、SNS開きなよ。そんでマネージャーに連絡とって、早めに復帰してね」


 とりあえず、昔馴染みさんを呼ぶ? と。

 神矢さんは最後まで、爽やかに笑ってくれた。

 


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