第三話
間延びした音が、冷たい空気の張り詰めた家に響き渡る。
お祖母ちゃんの仏壇の前。しっかりと手入れされたそこに置いてあるのは、生前大好きだった優しく笑うお祖母ちゃんの写真である。
「……お祖母ちゃん、おはよう」
お母さんが早くに亡くなってお父さんも仕事ばかりだった私には、お祖母ちゃんだけが家族だった。
いつ来ても優しくて、穏やかで、私の事ばかりを考えて一緒に遊んでくれた。危ない事をすれば怒られたけど、それさえも温かく感じられていたものだ。
大好きなお祖母ちゃん。それは、今も何一つ変わらず。
「全部見てたと思うんだけどね、私、騙されたんだよね」
帰ってきて初めて、自分の口から報告できた。
これまでは恥ずかしくて、情けなくて、口に出すと負けた気持ちがして言えなかったのだ。
可哀想な目で見られたくない、なんていだらないプライド。だけどもうそれは、マサオくんが跡形もなく壊してくれた。
「馬鹿だったよね。全部嘘だったの。好きだって言ってくれたのも、私が大切にしてた思い出も全部。……私の事、利用してたんだよ。酷い男だよね、最低だよね」
スッキリとした脳内ではもう、神矢さんの存在がどこか遠くに感じられた。
たぶんまだ好きだと思う。それでもしっかり一線は引けている。今までみたいに、ずるずると引きずった気持ちではない。
「神矢さんの事でね、芸能活動休止中なの。だけど良かったよ。こうやってお祖母ちゃんに会いに来れた。お話も出来たし、私の手でこの家もお掃除出来た。…………神矢さんのおかげだね」
よく考えたら、と続けた言葉が反響する。
物音一つない室内には、私の声さえも大きく聞こえた。
「あのまま付き合ってても、未来なんて無かったよね。だって神矢さんは後輩の子と付き合ってたんだもん。浮気男なんか私から願い下げ。ね、良かったって思うよね」
お祖母ちゃんの優しい表情は、まるで私を肯定してくれているようにも見えて。
「良かった。……ここに来て、良かった。ありがとう、お祖母ちゃん。……呼んでくれて、ありがとう」
だってね。一番に、お祖母ちゃんに会いたいと思ったから。
お祖母ちゃんが島においでって呼んでくれたんだって、そう思ったよ。
「マサオくんのところ、行ってくるね」
いってらっしゃいと。そうやって、笑ってくれている気がした。
「由衣」
マサオくんの居るプレハブが見えたところで、久坂さんに声を掛けられた。
東京に戻っているはずの久坂さんが居るという事は、何か変わった動きがあったのか。それにしてはいつもと変わらない様子で、私に気さくに笑いかけている。
「久坂さん。久しぶりだね、なんかもう懐かしい感じする」
「……そうね、そうかも」
仕事がてらこっちに来てくれたのか、見慣れたスーツ姿だった。船に乗って来ないといけないためにある程度の時間の拘束があるというのに、それでも来てくれたと思えばなんだか嬉しくなってくる。
「由衣、だいぶ顔色いいんじゃないの?」
「そう?」
「そうよ。ほんの少ししか経ってないのに……やっぱり、馴染んだ場所っていうのが良かったのね」
「……うん。なんか、今までの事が全部遠い事みたいに思えるの。そのくらいには、きちんと冷静になれてるよ」
久坂さんは本当に安心したように「なら良かった」と笑ってくれた。
「……ところで、どうしたの? 様子見に来てくれた?」
「あ、そうそう。そのことなんだけど……」
うーんと悩むと、久坂さんは伺う目を私に向ける。
何かを探っている目だ。どうして今そんな風に見るの、と、訳も分からず首をかしげるしか出来ない。
「ほら、由衣、今事務所に携帯預けてるでしょ? しばらく外界と遮断したいって言って」
「うん」
「……ずーっと、電話が鳴ってるのよ。さすがに個人情報だから誰からかっていうのは見てなかったんだけどね……あんまりにもしつこいから、確認したら……」
久坂さんは持っていたカバンから私の携帯を取り出した。すでに懐かしいそれは、非現実的な今の心地の中に、唐突に現実感をもたらしてくる。
しかし、差し出されては受け取らないわけもいかない。
要らないなあ、と思いながらも、仕方なくそれを受け取った。
「……全部ね、神矢くんからなのよ」
ずらりと、着信履歴に並ぶ名前。それは確かに、神矢さんのもので間違いはない。
私が活動休止を始めてから毎日、数時間おきに着信が入っていた。
「な、にこれ……なんで……」
今更だ。今更、何が言いたいのだろう。
馬鹿だったなと。騙してたんだよと。おかげで有名になれたよと。そんな言葉を言うつもりなのだろうか。
「…………由衣。神矢くんの事、許せない、わよね」
「……なに? 当たり前でしょ」
「謝らないといけない事があるの」
久坂さんが? と口に出す前に、久坂さんは深く頭を下げた。
「ごめんなさい。……神矢くんが新しく出てきた子と付き合ってたって、あれは由衣を諦めさせるための嘘なの。引きずってほしくなかったから……水面下では有名な話だって言えば由衣が知らなくても不自然ではないと思って、そういう事にした。本当にごめんなさい」
「……うそ……?」
今更そんな――――とは思うけれど、もう関係がない。神矢さんが私を騙していた事実は変わりないのだから。
「どうして今謝ったの? 別に、嘘でも嘘じゃなくてもいいじゃん。神矢さんが最低なのは変わらないし」
「思ったのよ。……そうやって毎日連絡くれるっていう事はね、もしかしたら神矢くんも、由衣と同じ気持ちだったんじゃないかって」
「……何言ってるの?」
「確かに、事務所に言われて神矢くんにも思惑があったかもしれないけど……感情はそうじゃなかったんじゃないかって思うのよ」
だから邪魔をしてはいけないと、久坂さんは判断して、謝罪をしたらしい。
「両想いなら、引き裂く事も無い。大々的に付き合えばいいのよ。清純なイメージだったけど、そんなものどうにでもしてみせるわ。――――だからね、由衣は傷つかなくて良いかもしれないって思って」
むしろ、より良い活動が出来るのではないかと。
久坂さんの計らいは分かる。私が久坂さんでもそうするだろう。
なら、私は。
私は、どうしたいんだろう。
「神矢くんと話し合ってみて。……私の考えすぎかもしれないけど……これだけ電話が来てるんだもの、何か伝えたい事があるはずだわ」
久坂さんは、それを伝えたかっただけだからと、爽やかに帰っていった。
携帯は置いたまま。次に掛かってきたら出てねと言い残して。
(……後輩の子とは、なんでもなかったんだ……)
なんとなく心が重くなる。
晴れやかだった世界が、一気に色褪せていくようだった。
――無理だと、漠然とそう思った。
怖い。褪せた世界がどれほど残酷で大変か、私はもう知っている。
「マサオくん!」
やや乱暴に戸を開けると、どういうわけかそこにマサオくんは居なかった。
ストーブの上でやかんだけが音を立てている。吐き出される白の蒸気も、乱雑に置かれた画材やキャンバスも、絵の具の匂いさえも変わらないのに、そこからマサオくんだけがポッカリと抜け落ちたように。
マサオくんは朝から晩までここで絵を描いているはずだ。他にどこに行くかなんて検討もつかない。
(……マサオくん、どこ……どこに……)
神矢さんが連絡してきてるんだよ。後輩の子との話も、久坂さんの嘘だった。
携帯を持っただけで引き戻されたような感覚に陥って、怖くてたまらない。迷子の子どもみたいに、室内に入ってキョロキョロする事しか出来なかった。
どう見たって居ないのに。
助けてと、縋るようにただマサオくんを探した。
「どいて」
背後の声に、ばっと振り返る。
マサオくんだ。マサオくんが、いつものように気だるそうに立っている。
(……マサオくん、だ……)
ほっと息を吐いて、言われるままに道を開けた。するとマサオくんは思った通り、キャンバスの前という定位置に向かう。
「……マサオくん、どこ行ってたの?」
「外。今日は雪降ってなかったから、前の作品にニスかけてたんだ。……兄さんが新作欲しがってたから急ぎで」
「……そっか……驚いたよ。居なかったから」
どこかに、行ってしまったのかと思った。
マサオくんを見れば、突きつけられた現実感が薄れた気がした。怖かった気持ちが薄れていく。世界が色を取り戻して、軋んでいた心がじわりと温まって。
特効薬みたい。そう思って、つい笑みが漏れた。
「なに?」
「あ、ううん。なんでも。……ハルオくん、また個展企画してるの?」
「らしいよ。今度は兄さんのギャラリーでやるから、特別気合い入ってるみたい」
マサオくんのお兄さんであるハルオくんこそが、マサオくんの才能を世に広めた人である。
ギャラリー持ちの画商さんで、私より一つ年上。私の事もずっと、妹のように可愛がってくれていた。
「……由衣ちゃん」
もう見慣れた作業を始めながら、マサオくんが言葉を漏らす。
「何かあった? ……焦って入ってきたように見えたけど」
「……あ、うん。そう。……あった……」
なんとなく、言い難くて。尻すぼみになる言葉と同じように、つい俯いてしまった。
相談しようと思っていた。神矢さんから連絡が来ていると、すぐにでも言って、どうすべきかと聞いてしまいたかったはずなのに。
良かったね。後輩の子とは何にもなかったんだ。そんな言葉を、聞きたくないと思ってしまった。
あれ。でも、マサオくんは結局、私の事はどう思っているんだろう。
キスをされた。たった一度、触れるだけの子どもみたいなキスだ。忘れたらいいとも言われたけれど、単純に私のための言葉なのかと思えば特別性も感じない。
キスもそうだ。あれから何事もないのを考えると、忘れるという目的のために、なんとなく付け足された付属品のような気さえしてくる。
恋愛というよりも親愛が近いように思う。
自分の事を忘れてたんだろと責められた時も、混じった感情は男女のそれではなかった。
――どうだろう。私は、どうであってほしいんだろう。
私は何で今、神矢さんの事を言えなかったのだろうか。
何を言おうかと悩んでいると、握り締めた手の中で携帯が震えた。
さっきの今だ。さすがに身構えてしまって、液晶の確認も出来ない。
「……鳴ってるよ」
さほど興味もないのか、マサオくんはキャンバスに向かったままだ。
「うん」
自然な仕草を意識して、相手の確認をした。
神矢さん、と記された、着信中の画面。それを見て、あくまでも自然にそれを伏せる。
「出ないの」
「……仕事関連の人だからいいや。お休みしてるし」
じっと、マサオくんが私を見た。
気だるそうな眠たそうな、いつもと変わらない目。それでも何故か、そこに特別な意味を感じる。
「……なに?」
なんでもないよとでも言うように、マサオくんは再びキャンバスに向いた。
――見透かされたかと思った。
私の中の迷いが、見つけられたのかと。
(……最低だって、さんざん罵ったのに)
もしも今、久坂さんが言うような結末になったなら、なんて。
私はそれを、避けたいと思っているのか。
「今日も寒いね」
話を変えようと、口から出たのはそんな事だ。
女優が聞いて呆れる。私生活になってしまえば、こんなにも繕えないものだったっけ。
「……そうだね」
「マサオくん、あったかいところで描いた方がいいんじゃない? ここだと、いろいろ大変でしょ?」
「別に」
丁寧な仕草で筆をパレットに置いて、色を足す。
「……落ち着くよ。静かで、安心出来る」
「落ち着く、って……」
孤独が切り取られたかのような空間だ。ひんやりとして寂しくて、肌で感じるものに暖かさは一切無く、物音も無ければ、ツンとした寒さからは痛みさえ感じるようだった。
――そこかしこに散った絵の具のみが部屋に色を落とす。鮮やかさは無い。平面的な絵の具は褪せていて、ひび割れたそれらはむしろ、視覚からもの悲しさを訴えかけている。
窓から見える外界でさえ遠く、羨望を感じてしまう程には眩しいというのに。
まるで世界に一人きりだと感じてしまうここが落ち着くのは、きっと「絵が描けるから」という理由だけではないのだろう。
だってマサオくんはずっと、寂しい目をしている。
孤独だと、瞳に映しているのだ。
「……ごめん」
たった一度、責められた。
約束を破った。自分を捨てたと。もしかしたら、私がそう思わせてしまったことも、マサオくんの孤独の原因の一つなのかもしれない。
『おれは由衣ちゃんを応援してるよ。どこに居ても』
かつてそう言ってくれたマサオくんは、まだ柔らかだった。モデルになっても島に来ていた頃。報告をするたびに「頑張ってるね」と褒めてくれたものだ。
だけど、次第に足が遠のいた。女優として開花して、忙しくなったからと言い訳をして。神矢さんに出会って恋をして、ますます思い出す頻度も減った。
『マサオくんが応援してくれるなら頑張れるよ! ずっと一緒にいてね。ずっと、応援しててね』
そんな事を言ったくせに。
先に手を放したのは、私だ。
「それは、何に対して?」
マサオくんはやっぱり私を見ないまま、窓に歩み寄った。
先ほどニス塗りをした作品の様子を見るらしい。
「……その……私、都合、良かったなって。必要な時だけマサオくんに背中押してもらって、いざ自分が成功したら無かった事にする、とか……」
「そうだよ。今更だね」
窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。増した寒さを凌ぐように、手を腿の内側に挟み込んだ。
「由衣ちゃんは最低だよ。おれからすれば、神矢と変わらない」
「…………う、ん。ごめん、本当に」
「いいよ。……由衣ちゃんと、こうしてまた会えたしね」
身を乗り出して作品の状態を見て、マサオくんはやっと窓を閉める。
いいよ、なんて思ってもいないくせに。マサオくんは感情を出さないままで、どうでもいいとでも言うように完結させてしまう。
「会いたかったって、思ってくれてたの?」
マサオくんが私をどう思っているのか、というのがいまいち分からなくて、探るようにそんな事を聞いた。
するとマサオくんは特に引っかかりも感じなかったのか、定位置であるキャンバスの前に戻ると、筆を取ってなんてことないように口を開く。
「会いたかったよ。ずっと、そう思ってた。……テレビを見るたび、話を聞くたび、憎らしく感じながら……それでも待ってた」
しゅんしゅん、カタカタと、やかんが音を立てる。この空間で一番大きな音だった。
「来てくれたら良かったのに」
「行けなかったんだよ。……東京が嫌いなんだ。おれから由衣ちゃんを取り上げた、だからあそこには行きたくなかった。それに……行ってもどうせ、由衣ちゃんは神矢に夢中だったから。きっと会ってもくれなかったよ」
「会うよ」
「嘘だ」
ぼんやりとキャンバスを見つめる目は、全体のバランスを考えているのか焦点が覚束無い。
プロの目だ。趣味ではない。稲葉まさお、の目。二十一歳の天才の顔をしている。
ああ、随分大きくなったなと。なんとなく、そんな事を思った。
内向的で閉鎖的だった子は、すっかり立派になってしまったみたいだ。私の知らないところで、私が知らないうちに、こんなにも男らしく育ったというその事実が、勝手ながらに少し悔しい。
(……私が、置いていったくせに)
マサオくんの怒りは最もだ。その刺も、受け入れなければならない。
一人を好む寂しい子に温もりを与えるだけ与えて、一人ぼっちにしたのだから。
「……由衣ちゃんは、神矢慎一が好きなんだよね」
何のための確認なのか。不意に問われて、つい体が強ばった。
思い出したのは久坂さんの話だ。後輩の子と神矢さんは付き合っていなくて、その上でずっと電話が鳴り続けているという事実。掛け合わせれば、都合よく解釈出来るかもしれない、と。
「……どうだろう。分からない……一度、本気で忘れようって思って、嫌いだって思った人だから……」
「もしも、今、やり直そうって言われたら?」
静かな空間に、やけに重たい言葉が落ちた。
それは、考える事を避けていた事だった。もしも、なんて、都合が良すぎると言い訳して。
「……ありえないよ、そんな未来。考えなくていいと思う」
「考えたくない、の間違いだろ」
いつの間にか、キャンバスに向かっていたマサオくんがこちらに向いていた。目が合ってそれに気づいて、なんだか気まずくて視線を落とす。
「由衣ちゃんは逃避癖がある。今だって……おれが都合よく居たから、神矢の事を考えないようにして、居心地がいいおれの側に居ようとしてる」
「ち、違うよ、そんな、」
「違わない。好きなんだよ、由衣ちゃんはまだ。簡単に忘れられるわけないんだ。長く恋をした相手なら尚更」
初めての恋人だった。
全部が「初めて」の、特別な人である。
片想いの楽しさも、両想いの大変さも、幸福も、温もりも、恋をする事の意味も、すべてを教えてくれた人だった。
けれど突然、すべてが嘘だったと突きつけられた。幻想だったのだと、まるで嘲笑うように落とされた。
大好きだったのだ。恋をしていた。本気で将来を考えた。
私だけが一人、舞い上がって。
――キシ、と。軋む音と共に、マサオくんがゆっくりとやってくる。
いつかのように私の前に膝をついて、いつものように私を見つめて。この寒い空間には似つかわしくないその優しい瞳は、まるで私を宥めるように。
「きっとまだ終わってないよ、由衣ちゃん」
ひんやりとした大きな手が、私の手を包み込む。
マサオくんは、静かに目を閉じた。何かを考えているようにも、何かを飲み込んでいるようにも見える。
「……大丈夫」
やがて、目が開いて、
「神矢は最低な男だった。けど、由衣ちゃんも最低なんだから、ちょうどいい」
そんな事を言いながら。
あの日のように、ゆっくりと顔が近づいてきた。
何をされるかは分かった。だけど今度は、私も目を閉じて受け入れる。
二度目のキスも触れるだけの、なんだかむず痒いキスだった。