第二話
「まさおくん、何描いてるの?」
ジリジリと日が照りつけていた、夏休み真っ盛りの八月。あれはいったい、小学何年生の頃だったか――お隣の、まださほど仲良くなかった稲葉家の次男であるマサオくんを森の入口で見つけた時、一心不乱にそれを描きなぐっている姿に、つい声を掛けてしまった事があった。
よほど集中していたのか、私の言葉に反応はない。もう一度「まさおくん?」と声を掛けても、マサオくんはやっぱり何も返してくれなくて、ムキになった私は離れることもせず、マサオくんの側でずっとその姿を見ていた。
マサオくんが私に気づいたのは、それが終わってからだ。
振り返って私を見て驚くと、いつからいたの、なんてことを小さく呟いたのを覚えている。
それからなんとなく、無言で居ても辛くない相手だからとマサオくんと一緒に過ごす事が増えた。年の近いハルオくんではなくマサオくんと居るのが楽だったのは、マサオくんが無口で何を考えているのか分からない人だったからかもしれない。
可愛いとか綺麗だとかそうやって持て囃されて、贅沢なことに幼い頃からそんな言葉にうんざりとしていた私からすれば、気を遣わない相手というのはなかなか貴重だったのだ。
「ついてこないでよ」
「いいじゃん、見てるだけだもん。それにまさおくん、絵を描いてる時、集中しすぎて時間見ないじゃん。私が居なきゃおうちにも帰らないくせに」
「帰るよ」
「帰らないもん。おばさん心配してたんだからね」
次第にマサオくんは私の存在に慣れたのか。何も言わずに側に置いてくれるようになった。
弟、のような存在だった。
四つ年下で、どこか放っておけない雰囲気のマサオくん。ハルオくんが出て行ってもマサオくんだけは島に残って、大自然の中ずっと絵を描き続けていた。
モデルデビューして、東京での暮らしが楽しくて充実して、ゆっくりと島の存在も薄れかけて。女優として成功して、有難い事に浮き沈みもなく順風満帆な芸能生活を送って。――最後に島に行ったのは、いったいいつだったんだろう。
弱った時に思い出す程には大切な場所だったのに、どうして私はずっと忘れていられたんだろう。
「おはよう、マサオくん」
朝から、その寒いプレハブの戸を開ける。ガラガラという音は、砂や小石をかんでいるからか。一瞬の騒がしさを経由して、外と内が繋がった。
「…………おはよう」
室内から返事が返る。子どもの時とは違って、マサオくんはどんなに集中していても私に気づく事は出来るらしい。
気だるそうな、眠たそうな雰囲気で。パレット片手にキャンバスに向かうその姿は、まるで昨日の出来事なんて夢だったのかもしれないと思わせられる程にはいつも通りである。
逃げるように出て行った昨日。混乱したまま無理矢理頭を整理して、それでも関係は壊したくないと判断して、今だって女優の演技力を駆使して平静を装っているというのに。当のマサオくんはあんなことをしておいて、どうして普段と変わらない様子なんだろうか。
忘れたらいいって。そう言って、キスをしたくせに。
(夢……だったのかも)
だってこのマサオくんだ。今更私相手に、あんなことをするはずがない。
「……寒いから閉めて」
キャンバスから目を逸らさずに、言葉だけをこちらに向けた。不覚にもその言葉で自分が突っ立っているのだと気がついて、慌てて入って戸を閉める。
唯一の暖はストーブ。その付近にある、使われていない木造の小さな椅子に腰掛けた。
「……さ、寒いね、ここ」
ストーブの側なんて気休めだ。そう思える程には、寒さが痛い。
そういえば、マサオくんはいつも一人ぼっちで絵を描いていた。
どこに行くにも一人で、私が側に居るようになっても声を掛ける事もなく、静かに消えていく。だから置いていかれないようにと、先回りして朝一番にマサオくんのところに行くようになったのだ。
今だって。マサオくんは有名になっても東京に出る事もせず、寒い部屋で一人。外をすべて遮断している。
「……マサオくんは、東京行きたいとか思わない?」
なんとなくの質問だった。
しかしどう思ったのか、マサオくんは一瞬手を止めて私を一瞥すると、再び筆をキャンバスへと滑らせる。
「……嫌いなんだよ、東京。あんなところ、行きたくもない」
「た、楽しいよ? 人もお店もいっぱいでね、マサオくんもきっと気に入ると思う」
私の言葉に、マサオくんはもう何も言わなかった。
マサオくんは昔よりも無口になった。あの頃はまだ、私が何かを言えば返事をくれる頻度は多かったのに。
しばらく、やかんの音に耳を傾けていた。真っ白な蒸気を吐き出すそれを見て、室内の寒さを視覚的に確認する。
「東京は」
低い音が冷えた室内にやけに通る。
あ、返事だ。そう気づいて、嬉しくてマサオくんの横顔を見上げた。
「おれが不要なんだと思わされた。由衣ちゃんが生きる上で、おれは必要ないんだって。……笑ってる顔を何度も見た。噂も聞いた。ファンの声も全部。……そこに、おれは居なかった」
だから嫌いだ。
感情のこもらない声で、小さくそう言った。
責めるでもないそれに居心地も悪くなる。いっそ責めてくれれば、違うよと嘘でも言い返せた。
「……ごめん。子どもの頃は、持て囃されてうんざりしてたから、マサオくんと居るのが楽だと思ってたのにね。大人になったら調子に乗っちゃったみたい」
情けない。――情けなくて、恥ずかしい話だ。
「だってさ、モデルとしてデビューしたのに、しばらくしてタレント活動始まって、主演ドラマとか決まってさ、それがヒットして女優に転身して成功して……月九とか視聴率いいし、映画も話題性のあるものに出られたし、主題歌とかも歌ったことあるよ。周りの人たちはずっとテレビで観てたような人たちばっかりで、昔から知ってる番組とかにも出られて、そんなの楽しくて仕方がないよね」
落とし穴ももちろんあった。今回のことだけではない。すべて久坂さんや事務所が守ってくれたから本当に危なくなる前に回避できただけで、私だけだったらまんまと落とされていただろう。
今回は恋に溺れた私が、事務所にも久坂さんにも黙って神矢さんの言う通りに動いてしまったのが敗因だった。
「楽しくて、嬉しくて、馬鹿みたいにはしゃいで騙されちゃった。神矢さんは私のことなんかちっとも好きじゃなかったのに。……聞けばさ、後から出てきた後輩の女の子と付き合ってたんだって。本当、ただのピエロだよねー」
カタン、と音がした。見れば、マサオくんが筆を変えるためにそれを戻したようだ。
「……落ち着くなあ。マサオくんは、私のことなんか気にも留めてないもん。情けない姿なんて、昔から知ってくれてるもんね」
今頃神矢さんは、ざまあみろと嘲笑っているかもしれない。
私と入れ違いに出てきた似たような女優は、きっと大売れだろう。神矢さんもやっと私から開放されて、メディアには内緒でも後輩の子と正式なお付き合いが出来ているはずだ。
あいつ馬鹿だよな、本気になっちまってさ。なんて、そうやって嘲っているだろうか。
「色は、感情に似てる」
マサオくんの突然の言葉に、滲んだ視界が持ち上がる。
「色は混ざるとより鮮やかになるけど……加減一つで良い様にも、悪い様にもなる。三つ以上混ざれば、黒くもなる」
穂先の小さな細い筆を持って、やっぱりマサオくんは私を見ない。
「だけどキャンバスに乗せて遠目から見ると分かるよ。その彩には、黒さえ必要なものだ。すべてが鮮やかに映えるキャンバスほど、つまらないものはない」
その穂先が、パレットの上で色を作っていた。
生まれたのは黒。厳密には、黒に近い色だ。今描いている色調には到底合わないと思えるような濃い色だというのに、マサオくんは迷いなくそれをキャンバスへと置いていく。
「感情は美しい。だから今の絶望や葛藤も、不要なものじゃない。五年後には、あの頃は美しい日々を過ごせていたと、笑ってるよ」
不似合いだと思っていた黒。それはキャンバスに馴染んで、新しい衝撃を生み出す。
マサオくんが天才だと言われる所以なのだろう。たった一つの平面な絵から、突き抜けるような衝撃を与えるのだ。
「……うん。そうだね。なんかそれ見たら、どうでも良くなってきたかも」
マサオくんは口下手で無口だけど、嘘はつかない。たぶん慰めるのも苦手だ。だからこそこうやって絵に例えて遠まわしでしか言ってくれない。
それでも、マサオくんらしいそれが一番心に響くのだ。
キャンバスに黒が広がる。昨日ぐしゃりと滲んだその色さえもアクセントとして、鮮やかな作品が彩られていく。
本当に、もったいない。東京に行けば、マサオくんの才能はもっともっと花開くかもしれないのに。
(……いや、違う、かな……)
ここだからこそのモノなのかもしれない。
この島で大自然に囲まれて、感性が育まれたからこその才能。逆に、マサオくんは東京には行かない方がいいのだろうか。
だからハルオくんも特に何も言わず、マサオくんをここに置いているのかもしれない。このプレハブを用意して、集中して絵に取り組めるようにと。
「私には、マサオくんが必要なのかな」
なんとなく、そんな言葉がついて出た。特別な意味はない。だけど思い返せば、子どもの頃からマサオくんに頼りきっていたような印象がある。
「…………調子いいね」
繊細な動きで色を足す事に集中しているその横顔は、どこか小馬鹿にするように笑った。
「傷心の中逃げてきて、昔馴染みに優しくされたらころっとそんな事言っちゃうんだ? 今までずっと忘れて、別の男に惚れ込んでたくせに」
「……あはは、そういう意味じゃなかったんだけど……ごめん。そうだね、そう聞こえるよね」
「じゃあどういう意味で言ったの」
持っていた筆を置いて次の筆を選んでいるマサオくんは、視線を横目に流す。数秒私に固定されたその目はしかし、すぐにふっと手元に落ちたようだった。
読めない瞳だ。期待も絶望も、感情すら浮かばない不思議な色をしている。
「どういう、かあ……分かんない。でも、年下なのにお兄さんみたいだなって思ったらさ、昔の事思い出したの。私って、昔からマサオくんに頼ってばっかりじゃなかった?」
中学三年生でスカウトされてからモデルとして活動を初めて、それでも二十歳になる時まではまだ島には来ていた。頻度は少なかったけれど、来るたびにマサオくんには何をしているのかを話していたのだ。
楽しかった事も嬉しかった事も話したし、載った雑誌も持ってきた。テレビに出る時には時間帯も教えたし、たまに一緒に観たりもした。
あの頃は、純粋に笑っていられたと思う。高校で「調子に乗るな」なんて仲間はずれにされても、大学で周囲から敬遠されても、私にはマサオくんが居てくれたのだ。
「そうだよ」
下の方の作業に移ったのか、マサオくんは膝を折ってそこに腰を落とす。
「由衣ちゃんにはおれだけだった。……だけど、捨てたのも由衣ちゃんだ。もう要らないってさ」
「そんなこと言ってないじゃん」
「言ってはない。そういう態度を示されただけ」
チューブから出した色を直接指に乗せて、こすって馴染ませている。どうやら色味の出し方を変えるらしい。
「…………それは、ごめん。本当に。……だってさ、浮かれちゃってたんだもん」
「それで忘れるって、その程度だって事だろ」
「違うよ! 確かに忘れてたかもだけど……」
「いいよ、別に。もう気にしてない。……よく考えたら、当たり前の事だよ」
気にしてない。そう言うくせに、私に対して明らかに壁を作っている。昔から明け透けなわけではないけれど、今はあからさまに思えた。
私が悪いというのは分かっているのだけど、寂しいなんて、そんな事を思ってしまう。
「……ねえ。マサオくんはさ、」
いったい、私とどうなりたいの、と。
言いかけて、言葉が喉に引っかかった。
不自然に止まった声。それでもマサオくんは気にした素振りもない。それどころか、変わらずキャンバスに真剣に向き合っている。
――やっぱり夢、だったのかも。マサオくんにキスをされたのも。忘れたらいいって言われたのも。
だってマサオくんは、こんなにも普段と変わらない。
表情も、雰囲気も、態度さえ、全部が変わりなくてなんら違和感はない。私のこと好きなのかな、なんて少し考えてしまったけど……それが恥ずかしい勘違いだったのではないかと思う程には、意識をされている素振りもない。
キャンバスに向かう横顔を見て、ふうと息を吐く。白く濁った安堵のそれは、一瞬で溶けて無くなった。
「なに?」
沈黙がすでに少し前の会話を忘れさせた頃、マサオくんが相当な時差で問いかけた。
独特な空気感だ。それさえも、変わりない。
「……ううん。なんでもない」
じゃぶ、と音が聞こえた。作業を終えた指を綺麗にするために、水に指を浸したらしい。しかしこだわりはないのか、ある程度しか綺麗にされなかったそれは水から抜き取られると、とても自然に洋服に押し付けられている。
「じゃあ、おれから質問」
マサオくんは立ち上がって、疲れてきたのか首を回す。筆を取るのかな、と見ていたのだけど、どうやら少し休憩らしい。
近くにあった高めの椅子に腰掛けた。無気力に手をだらりと垂らして、こちらをじっと見る。
「由衣ちゃんは、神矢慎一のどこが好きだったの」
まるで傷口に塩を塗るような質問だった。茶化している風には見えないから、マサオくんに他意はないのだろう。
「……どこって……」
出会ったのは二十歳の頃だ。ドラマで共演して、それから仲良くなった。
神矢さんはその時は脇役だったけど、主演を張った私に何のわだかまりもなく気さくに話しかけてくれた。
爽やかな見た目通りの、柔らかな人だった。子どもの頃から見ていた人だったから、神矢さんと対面して舞い上がったのを今でも覚えている。
付き合うまで二年。決定的な何かがあった、というわけでもなく、ゆっくりと好きになった。
「どこだろう。……ずっとテレビで観てた人だったから、最初から悪い印象はなくって……優しいところとか、小さな気遣いとか、本当にそんな小さなところがいいなって思えて」
どこ。とは、案外難しい質問だ。
理屈ではなかった。ただ感情が、いつの間にか傾いていた。
「好きって言われて、嬉しくて……」
舞い上がって、両想いに浸って、溺れて。
――「好き」だった。ちゃんと、恋をしていた。
好きだよと言われるたびに想いは深まって、私もと返せば嬉しそうに笑ってくれた。
誕生日には少し豪華なディナーを、記念日にはアクセサリーを交換して。ひっそりと温泉旅行をして、海外にも行って、たまに地方の観光もして――――二人だけの思い出は、今思い返しても溢れるほどに多い。
バレたかな。大丈夫みたい、なんてそんなやり取りをして、二人でクスクスと笑いあった。
全部、嘘だったけれど。
私には、どれも大切な思い出だった。
「些細な事で連絡くれるところも、ずっと気にかけてくれてるところも、仕事のたびに応援してくれるところも、全部優しくて好きだった。笑顔も、声も、キラキラしてて……神矢さんにとっては嘘だったけど、私はちゃんと好きだったんだよ」
報道が流れた後から、神矢さんには一度も会っていない。大々的にスクープされて、そのタイミングで後輩の子が出てきた時点で、すべてを察したからだ。
連絡する事さえも怖くなった。笑われるのも怖かった。神矢さんからのアクションを受けたくなくて、唯一の繋がりだった携帯は事務所に預けた。
後に久坂さんから聞いたのは、神矢さんが実は出てきた後輩の子と付き合っていた、という事だ。水面下では有名だったその話を久坂さんも知っていたから、私と神矢さんが付き合っていたなんて思いもしなかったらしい。
私は知らなかった。ずっとずっと、本当に馬鹿みたいに踊らされていた。
「それで? まだ好き?」
「わ、からない……でももう、思い出したくない。忘れたい」
「それでいいの。死ねとか、思わないんだ」
「思うよ! 最低だって、信じてたのにって、そうやって思うに決まってるじゃん! だけどそれでどうなるの。罵ったって何も変わらない。飲み込まないと、どんどん可哀想な子になっていく」
これ以上惨めな女にはなりたくなかった。
だから恨まない。理解したふりをして、業界ではよくあることだよねと、あっさりと受け流した。
心の中は全部真っ黒でも、目を逸らす。見なくていい。気づかなくていい。だってそれが溢れてしまえば、きっと「浮かれて騙された哀れな女」になってしまう。
「可哀想じゃないよ」
マサオくんの声が、ひんやりとした空間で、温かく響く。
ありきたりな否定だ。なのに声音が優しいから、トゲトゲした心に沁み込んでいく。
「由衣ちゃんは可哀想じゃない。……神矢慎一が、最低だっただけだ」
華やかに階段を駆け上がったから、無駄にプライドも高くなった。可哀想に見られたくないとか。哀れな女に思われたくないとか。周囲の目ばかりを気にして、自分の心は無視をして。
だから。
「最低で、女の敵で、死ねばいいと思うよ。……由衣ちゃんもそう思うでしょ」
だから、ずっとずっと、心の奥で我慢していたモノがあって、
「思うよ……そうだよ、女の敵! 神矢さんは最低だった! 何が『好き』だよ、最初から嘘ばっかり! 騙すつもりで近寄ってきてさ、きっと裏では笑ってたんだよ! 最低すぎ! 本命は後輩の子ってなにそれありえないから! 私だけじゃなくて後輩の子にも失礼だしっ!」
溢れてしまえば止まらない。
好きだから余計に腹が立つのだ。全部全部許せなくて、涙と一緒に恨み言がボロボロとこぼれた。
私に向けた優しい笑顔も、くれた言葉も。どれもこれも、全部嘘だった。
「……私が好きって……こんな気持ち、初めてだって、言ったのに……嘘つき。嫌い。あんなやつ、大嫌い。あんなだから、鳴かず飛ばずだったんだ。絶対そう。ありえない。大っ嫌い」
可哀想になっていく。騙されて、悪態をつくしか出来ない女に成り下がっている。
神矢さんは笑って彼女と幸せに暮らしているのに。対して私は、なんて有様だ。
だけど、だって、仕方がない。
マサオくんが、優しい目をしてくれるから。
「それでいいんだよ」
じっと私を見ていたマサオくんが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「我慢なんかしなくていい。何を言ったって、由衣ちゃんは可哀想にはならない。本気だったなら尚更。……恨み言があるのは当然だよ」
足元に落としていた視線に、マサオくんの足先が映った。
直後、後頭部に大きな手が置かれて優しく撫でられる。業界でトップをひた走っていた私にそんなことをする人は居なかった。神矢さんでさえ、私のことを「尊敬する」と言って、頭を撫でるなんてしてくれなかったのだ。
本当は。
本当は私だって、誰かに甘えてしまいたかったのに。
うえ、と情けない声が出た。それまで以上の、大粒の涙も。
――マサオくんはただ、優しく撫でてくれていた。
私の涙が止まるまでずっと。何も言わないまま、壊れ物に触れるみたいに。
そのおかげか、マサオくんの言うように私は可哀想にはならなかった。ただ心だけが軽くなって、次に目を上げた時には、世界が明るく見えた気がした。