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好きと言うには淡すぎる  作者: 長野智


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第一話

 




 

 雪が降り始めた。

 曇天から落ちるその白は海面に触れると跡形もなく姿を消して、それでもまだ懲りないのかしとしとと降り続く。

 音もなく消えてしまうその様が業界から干されようとしている私の姿と被ってしまえば、私もああなるのかなあとなんだか感慨深い心地にさせられた。



 一寸先は闇、なんて、うまいことを言ったのは誰だろう。

 闇にはまれば抜け出せなくて、溺れるままに沈むだけ。悪循環が生まれていると分かっていても、一度転落してしまっては前向きになるなんてことは簡単には出来そうにない。



 船の微かな揺れを感じながらも、そうやってただ海を見つめていた。

 水面に消える雪が儚いなと、そんなこともうっすらとした思考の中に置いて、ゆらめいて落ちる白の冷たさを肌に浮かべる。

由衣ゆい、もうすぐ着くって」

 ガチャッと扉が開く音と同時に、そこから出てきた久坂くさかさんが笑いかける。そんな久坂さんを横目にチラリと見つめて「はぁい」と気の抜けた声を返すと、久坂さんはどういうわけか私の隣に並んで、同じように海へと視線を投げた。

「島に行くの楽しみ?」

「んー……理由が理由だしね」

「こら。由衣は絶対に復帰するのよ。これはちょっとした休養」

「分かってますって」

「……あんたは、タイミングが悪かっただけ。その上サイクルも悪かった。それだけなんだから」

「聞き飽きたよ」

 

 ――中学三年生の頃に、芸能界に入らないかとスカウトされた。

 多感な年頃の女が煌びやかにも思えるその世界に興味を示さないわけもなく、母ともきちんと話し合った末に言われるがままに話を受けて、あれよあれよと階段を駆け上がって現在。ありがたいことに私は世間に需要があったようで安定したところまでは上り詰めたけれど、だからこそ転落すれば相当の痛手になる。



 どこからおかしかったのかは分からない。

 子役からのベテラン俳優である神矢かみやさんを好きになってしまったことだろうか。だけど、両想いになれて嬉しくて、事務所が止めるのも構わず溺れて、週刊誌に大きく取り上げられた頃になってやっと「売名行為のために利用された」と分かった頃には遅かった。

 そのタイミングで、私と似たようなキャラクター、外見の女優が、神矢さんの事務所からデビューしたのだ。

 数万人の中からオーディションで選ばれたシンデレラガールだというその女優は、主演映画の告知と共に晴れやかにメディアに登場した。


 そこでようやく、神矢さんは私とのことを撮らせたのだと気付く。

 子役から俳優を続けていたとはいえ、神矢さんは最近では落ち目だと言われ始めていた。私は本当にただ、神矢さんに利用されただけの存在だったのだ。


 ああ、なんて業界らしいのか。そんな絶望のままずっと俯いていた私を見て、マネージャーの久坂さんが休暇をくれと事務所に申し出てくれたのはつい先日である。

 今まで清いイメージだった私が週刊誌に撮られ、ファンが揺らいでいるその隙に成り代わるように出てきた新人の存在には事務所も驚異を感じたらしく、だからこそ「今こそ休むな」と尻を叩かれたけれど、ずっと久坂さんだけが「必ず戻します」と粘ってくれた。


 由衣にはサイクルがある。今はそれが下に向いている時で、何をさせてもダメだから。少しだけで良いので、離れさせてやってくれと。何度も何度も頭を下げる久坂さんに、戻ってきたら必ず前以上の成果を上げろと厳命して、やっと事務所が頷いた。




 休暇、と聞いて思い浮かんだのは、幼い頃によく行っていた島だ。

 お祖母ちゃんが住んでいたために高校生の頃の夏休みまではよく来ていたけれど、お祖母ちゃんが亡くなったそれ以降はすっかり足が遠のいていた。


 よく虫取りに行った裏山や、無邪気に駆け回ったあの綺麗な川は、今もあの頃と変わりないのだろうか。





「いらっしゃい、由衣ちゃん。大きくなったわねぇ!」

 雪の降る中、音を立てて引き戸が開いたと思えば、変わらないままのお隣の彩子さんが笑顔で出てきた。お隣さんだった祖母とは懇意にしていたらしく、よく様子見をしてくれていた人だ。

 もう十数年が経ったけれど、歳をとったと感じるだけで雰囲気や表情には変化がない。それがなんだか、じんわりと心に染み込んでいく。

「お久しぶりです、彩子さんはお変わりなく」

「あらそう? もうすっかり五十手前のおばちゃんよぉ?」

「見えませんよ」

「嬉しいこと言ってくれちゃって! そうそう、雅臣まさおみはね、離れにいるのよ。あ、覚えてる?」

「え! マサオくん!? 懐かしい!」

 彩子さんの息子であるマサオくんは、私よりも四つ年下の男の子だ。私がここに来ていた子どもの頃もずっと一緒に遊んでいたし、あの頃楽しめたのはお祖母ちゃんの他にこのマサオくんが居たからというのも理由としてある。

 今は二十一歳になっているはずだ。内向的でぼんやりとして、私が外に連れ出す度に嫌そうにしながらも付き合ってくれたあの男の子は、今どんな風に成長しているんだろう。

「やっぱり知らないわよねぇ。雅臣も、由衣ちゃんほどじゃないけど有名なんだけど」

「有名……?」

「その界隈ではね。行ってみて、ここをまっすぐ行ったら、プレハブみたいな離れがあるから」

 どこかわくわくするような顔をして、彩子さんはそちらを指でさして手を振る。

 もう少し話したいとは思ったけど、久坂さんが詳しいことを話したそうにしていたからきっと彩子さんも気を遣ったのだろう。それに気づけば拒否も出来なくて、言われるままに示された場所へと足を向けた。


 彩子さんの家は、何も変わりない。

 ここに来るまでの道のりも、空気も、何もかもがあの頃のまま時が止まったようだった。

 五感に感じるもの全てに懐かしさがこみ上げて、少しの間の休暇にここを選んだことは間違っていなかったのだと思えば、自身の選択に誇らしい気持ちになる。


 ――少し都内を離れようと言われた時、祖母の顔が浮かんだ。きっと、祖母が「おいで」と言ってくれているのだと、そんなふうに考えたのは間違いではなかった。


 積もりかけの雪は気を抜けば足を滑らせてしまいそうで、バランスを取りながら慎重に歩く。足の裏から感じる冷たさに、つい目の前にある「離れ」に駆け込んでしまいたくなるけれど、それさえもままならない。

 足の動きに集中してヤキモキしながら縋る思いでやっとそこにたどり着いた頃には、身体は芯から冷え切っていた。


「マサオくーん」

 特に気を遣う相手でもないために、がらりと引き戸を開けた。

 木造のここは当然一室だけの造りで、だからこそその真ん中に立っているマサオくんの姿が探すまでもなく目に入る。


 古びた木と、絵の具の匂い。部屋の壁際には所狭しと画材やらキャンパスやらが置かれていて、マサオくんの居るところを除けばなかなか散らかっている印象だ。

 

 そういえば昔から、マサオくんは絵を描くことが好きだった。得意としていたようだったし、彩子さんとハルオくんが勝手にコンクールにも出していたように思う。


 そこでやっと気がついた。

 稲葉まさお。二十一歳の天才。そうやって呼ばれる人が居て、都内では個展も開かれていたなと。


「何度も言うようだけど」

 しゅんしゅんとヤカンがストーブの上で音を立てる。その隙間から、マサオくんの声が届いた。

 あの頃とは違う、随分と低い音だ。

「おれは雅臣で、まさおじゃない」

 キャンパスに向かう横顔はそう言い切ると、緩慢な動きでこちらに向いた。

 常に気だるげで面倒くさそうな雰囲気はそのままなのに、外見は整えているのか清潔感に溢れている。あの頃は伸びっぱなしだった髪は切られて今では襟足すらも無いし、こざっぱりとしたそのイメージはまったくマサオくんらしくないものだ。

 声が低くなって、身長が伸びている。そして外見も男らしくなって、まるで知らない男の人のようだった。

「……なに?」

「え、いや……変わったなって思って」

「由衣ちゃんは変わらないね。相変わらず……馬鹿っぽい」

「な! この人気女優を捕まえて何その言い草!」

 びゅうと風が吹き込んだために、すぐに戸を閉めた。そうして歩み寄ると、マサオくんの身長の高さがさらに明らかになる。百八十はありそうな高さだ。しかしひょろっとしているためか、それ以上にも見える気もする。

「マサオくんは私の魅力をわかってないなあ」

 近くにあった椅子を引き寄せて座る。気難しい雰囲気があるから怒られるかな、とは思ったけれど、マサオくんは既に私に興味もないのか再びペタペタとキャンパスに筆を滑らせていたために、咎められることもなかった。


 鼻、こんなに高かったっけとか。手はこんなに大きかったっけとか。そう思ってマサオくんを見てみれば、やっぱりあの頃の面影なんてない。

「……聞いてるの?」

 あの頃と変わらないのは、この気だるげでやる気のない面倒くさそうな雰囲気だけだ。

「マサオくん?」

 何度聞いても黙々と手を動かすばっかりで、返事はなかった。



 まるで閉鎖されたような部屋だ。

 二つある引き違い窓だけが外界と繋がる場所だと思える程には、静かで落ち着いた場所。ストーブがあってもヤカンが湯気を立てていても暖まることはなくて、ガタガタと揺れる窓は寒さを訴えているし、すきま風が容赦のない寒さを知らしめる。


 どうしてマサオくんは、この寒い場所に居るんだろう。

 絵だってきっと、暖かい場所の方が落ち着いて描けるはずだ。キャンパスだって、冷え切ってしまっては筆の滑りもきっと変わる。

 暖かい場所で描いた方が良いものが生まれるかもしれないのに。


「彩子さんに聞いたんだけど、マサオくんも有名人なんだってね」

 ぴくりと筆を揺らすと、マサオくんは一瞬だけ動きを躊躇った。どうしてだろうと気にはなったけど、すぐに動き出したために、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。

「別に、由衣ちゃんほど有名じゃない」

「またまた~。個展してたじゃん。あの時東京居たの? 会いに来てくれたら良かったのに」

 あの時。

 もしもマサオくんが私に会いに来て、神矢さんとの事を止めてくれていたのなら、何かが変わっていたかもしれない。


 のぼせ過ぎじゃないの、ちょっと落ち着いて考えなよ、冷静になればどこかおかしいってわかるでしょ、なんて、そうやって引き止めてくれてれば、私は「マサオくんが言うならそうかも」と神矢さんから距離を取れていたのかも。


(…………いや、きっと私は、マサオくんに酷いことを言って終わってた)

 瞬時に出たその答えが的確な気がして、つい嘲笑が漏れた。

 自分勝手な思考に辟易しそうだ。結局私はこうして何かが起きた後でなければ反省も出来ない。騙されて、傷ついた後でもないと。


「……会いたくなかったから」

「……え……?」

 マサオくんの手が止まる。そうしてゆるりとその目を私に向けて、

「由衣ちゃんに、会いたくなかった。だから東京には行ったけど、すぐに帰ったよ」

 さっきまでと変わらない表情だった。好きも嫌いも浮かばない瞳はふいと私から逸れて、すぐにキャンバスへと戻る。

 昔から変わらない。マサオくんの目は、私を特別に映さない。私を、私として見てくれるひどく安心出来る「正しい目」だ。

「……そっかー、寂しいなあー。あんなに仲良しだったのに」

 嫌われているわけではない事は知っている。だってマサオくんはただの気分屋なのだ。感情に素直、とも言うのかもしれない。

 そんなマサオくんに、子どもの頃から救われていた。嘘がないと分かるからだ。

(懐かしいなあ、この感じ)

 ずっとずっと欲しかった、考えなくていい穏やかな時間。


「……寂しい……?」

 カラン、と、マサオくんの手から筆が滑り落ちる。その音は静かな室内には大きく、やかんが沸き立つお湯の音の隙間から、私の耳にもしっかりと届いた。

 ――少しの沈黙。マサオくんはいつものようにただぼんやりと、落ちた筆を見つめている。

 

 衝撃で色が散り、木造の床を鮮やかに彩っていた。それを、拾うことも拭う事もしないまま。どんな感情が浮かんでいるのか、その横顔からは何一つ分からない。

 

「マサオくん……?」

 声を掛けてやっと、マサオくんがゆるりと振り返った。

 変わらない色だ。やはりいつもと変わらないそれは、私に真っ直ぐに向いていた。

「由衣ちゃんはさ、寂しくなんかないんだよ」

 少しだけ刺のある声音で小さく呟く。

「渋谷の由衣ちゃんのポスター見た。すごく綺麗に撮れてたよ。……この島のことなんか忘れた顔して笑ってた」

「忘れてなんかない」

「忘れてたよ。おれのことも、忘れてた」

 大きな体を折り曲げて、落ちた筆を拾い上げた。

 広がった色は拭き取られないまま、マサオくんは気にもしていないのかそこには視線すら移さない。

「……忘れてないよ。だからこうやって帰ってきたんじゃん」


 ――本当の本当は?

 そうやって、この沈黙の合間にでも聞こえてきそうだ。

 マサオくんは、再び作業に戻った。基本的に無口なマサオくんは、作業中はさらに音を発さなくなる。

 

 寒い場所だ。エアコンはなく、二つ設置されているストーブからのみ暖を補給出来る。

 時折風が吹き音を立てて揺れる窓と、その寒さを打ち消すようなやかんの蒸気。刺すような寒さが音を飲み込んでいくこの小さな部屋は、画材と絵の具の匂いのみが溢れている。

 人の気配はない。それがさらに、寂寥を増す。


 どうしてマサオくんは、ここに一人で居るんだろう。


「要らない」

 ぺたぺたと、穂先を繊細に動かす。目線も意識もキャンバスに向けて、言葉だけを私にくれた。

「そんな言葉は必要ない」

「……そんなって……私は別に、思ったことを言ってるだけで、」

「出て行ってよ。……今更来られても困る。おれは由衣ちゃんの事、忘れられてたよ」

 出て行って。困る。そんな風に言われて、追い打ちのように「忘れてた」なんて言葉までついて来た。


 嫌われていないはずだ。なのにどうして、こんなにも遠く感じるんだろう。


 心が痛い。神矢さんに騙されたと知って痛んだ場所よりも深い所だ。

 だってマサオくんは、お祖母ちゃんと一緒で私の心を支えてくれていた人だった。小さな頃から応援してくれて、何でも話を聞いてくれて、いつでも「私」を「私」として見てくれていた。


「……困るって、なんで? どうして、そんな事……」

 うまく笑えなかった。ただ、変わらない横顔を見つめることも出来なくて、足元に視線を落とす。

「約束したじゃん。何があっても応援してくれるって。一緒に居るって。なのになんで今、困る、なんか言うの……?」

 言葉尻が揺れた。情けない表情をしている自覚もある。

 だってマサオくんは、いつまでも一緒に居られる人だと思っていたのに。


「……約束?」

 穂先が、ぐしゃりと乱れる。

 言葉と共に視線を持ち上げれば、マサオくんが筆をキャンバスに押し付けているのが見えた。

「それを破ったのは、そっちだろ」

 怒りが滲んだかと思えば、乱暴に筆が投げ捨てられた。


 マサオくんが感情を出す。たったそれだけの事に、驚きで動けない。

 あのマサオくんが大切に扱っている筆を投げるなんてありえない事だ。さらに言えば、作品を乱すなんて言語道断である。

 明らかな怒り。それを隠しもしないまま、マサオくんがパレットを置いた。


「会いに行かなかった? 行けるわけがない。おれが追いついた頃には、あんたはもっと先に行ってた」


 こちらに振り向いて、ゆっくりと歩み出して。


「おれを忘れて、東京を楽しんでたんだ。恋愛報道も知ってる。何があってここに来たのかも分かってる。だからこそ、ここを『逃げ場所』にしか思ってないあんたを歓迎なんか出来ないんだよ」


 あれ。マサオくんて、こんなにも大きかったっけ。

 そう思ったのは、目の前に立ったからか。最後に会った時よりも男らしくなったマサオくんを見上げて、ぶつけられる怒りを受け止める。

 

 感情をあまり出さないマサオくんが、怒っている。

 私がここを「逃げ場所」にしかしていないから。


「……ごめん。都合良い場所にして」

 思い出の詰まった場所だった。だからこそ癒されたくて来たのだけど、マサオくんからすれば確かに思い出を踏みにじる行為に思えるかもしれない。

「……知ってたんだね。恥ずかしいなあ……そうなんだよね、私さ、騙されちゃった。馬鹿みたいだよねえ、浮かれちゃってたみたい。だけど本当にね、好きだって思ってたんだよ。だからこそ、しんどかった」

 だから。

 震える声を、マサオくんはただ静かに聞き流す。

「だからね、都合良いけど、ここに来たくなったの。メディアもあの人の面影もないここが、心地いいって分かってたから。……それって、マサオくんにとっては確かに許せないよね」

 私にとっては久しぶりの再会でも、マサオくんにとっては違う。都合よく逃げてきて感傷に浸っているだけの私を歓迎出来ないのも当然だ。

「……ごめんね」

「神矢慎一、だったっけ」

「え?」

 俯いた視界に、マサオくんが入ってきた。膝を折ってヤンキーみたいに座り込んで、私を上目にじっと見ている。

「あ、え、と……そうだね。……報道の相手は、神矢さんだけど……」

「浮かれて、騙されるくらい良い男だった?」

 折った膝の上にだらりと腕を投げ出して、特に面白くもなさそうな雰囲気を醸し出す。どういう意図があるのかも分からないために困るのだけど、少なくともマサオくんの怒った状態は継続されているために下手な事も口に出せない。

 それでも神矢さんを思い出せば、表情が崩れる事も止められなかった。

「……うん。良い男、だったと思う。あの人が私に本気だったならね、胸を張ってすごく良い人だって言えた。騙されてたからなんとも言えないけど……」

「忘れたらいいよ」

 え。と、言葉を吐き出す間もなく。

「そんな男、忘れたらいい」

 気が付けば、距離が近くに。手を握られて、不意な感触にどきりと胸が鳴った。

 男の人の手だった。小さな頃に手を繋いだ時には、こんなにもがっちりと大きな手ではなかったのに。

「マサオく、」

 柔らかく。まるで、壊れ物に触れるように慎重な動きだった。


 重なった唇はひんやりとしていた。近くで、絵の具の香りが鼻をつく。

 落ち着く香りだと思った。派手ではない、肌に馴染んだマサオくんの匂い。


 キスをされていると。一瞬の後に、やっと気づく。


「都合いい場所なんでしょ」

 触れるだけの、子どもみたいなキス。なのにどうして、それだけでこんなにも落ち着かない気持ちにさせられるんだろう。

 マサオくんの表情は何一つ変わらない。

 この行動の意味も、まったく読み取れなかった。

 

 

 

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