1-8
兄に促されるまま、詠斗は起こった出来事のすべてを順序立てて話して聞かせた。
唐突に、美由紀の声が聴こえ始めたこと。
美由紀が見知らぬ男に殺されたこと、友人が疑われていて困っているらしいこと、真犯人を突き止めてほしいと頼まれたこと。
「男、なのか?」
話し終えたところで、傑は早速詠斗からもたらされた情報をつまみ上げた。
「うん。先輩が言うには、振り返ったら自分よりずいぶん大きかったからきっと男だろうって」
「資料を開いてみろ」
言われるままに、詠斗は手渡されていた捜査資料の一枚目をめくった。
そこには美由紀のプロフィールが書かれており、おそらく生徒手帳のものと思われる顔写真が添付されていた。
――この人が、羽場美由紀先輩。
詠斗はこの時ようやく美由紀がどんな顔をしているのかを知った。なるほど、あの穏やかな口調がよく似合う、良家のお嬢様っぽい綺麗な人だ。
写真で見てもわかるくらいのつや髪は黒く、胸の少し下あたりまでまっすぐに伸ばされている。くるりと丸い瞳にきゅっと小さな鼻と口。上半身のみでもすらりとした体形であることは見て取れる。実際プロフィールに目を落としてみると、身長こそ一五三センチとかなり小柄だが、体重もそれに見合った軽さである。幽霊には足がない、なんて話はよく聞くけれど、先輩の足はきっと細くて綺麗だったんだろうな、なんてことを想像してしまう。
「鼻の下を伸ばしている場合じゃないぞ、詠斗」
広げた資料にかかっていた手を叩かれたので顔を上げると、傑は真面目くさってそんな言葉を投げてきた。
「なっ、どうしたらそういう発想になるんだよっ」
と返しながらも、美由紀の足もとを想像していたなんて口が裂けても言えないなと思う詠斗である。傑はまたしても満足そうな顔で笑った。
「何か気付かないか? それを読んで」
そう問われるも、詠斗にはすぐにピンと来るものはなく、そんな顔をして兄を見やる。すると、傑は穂乃果のほうへとわずかに顔を向ける。
「それでは穂乃果君。キミの意見を聞こうか」
少し目を大きくした穂乃果は詠斗から資料を受け取り、詠斗と同じく一ページ目にざっと目を通した。
「あぁ、なるほどね。詠斗がこの被害者の女の子から聞いた話だけでは、犯人が男だとは言い切れないってことでしょ?」
「ご明察」
「えっ、なんで?」
何やら分かり合っている夫婦の間で、詠斗だけが眉間にしわを寄せていた。
「もう一度よく読んでみろ。特に被害者の身体的特徴について」
厳しいお兄さんだこと、と肩をすくめながら穂乃果が再び資料を手渡してくる。答えがわかっているならさっさと教えてくれればいいのに、と心の中だけで悪態づきながら、詠斗はもう一度資料に目を落とした。
身体的特徴に着目しろ、と兄は言う。そう言われるも、ピックアップすべき特別な情報はないように思える。強いて言えば、女子の中でも身長が低めという点くらいで――。
「……そうか」
ぱっと顔を上げ、詠斗は傑の目をまっすぐ見た。
「先輩の身長は一五三センチ。仮に先輩より十センチ背が高かったとしても一六三センチ。これなら女性の平均身長程度だし、一七〇センチある女性だっていくらでもいる。『ずいぶん』という先輩の言葉を信じるにしても、それだけで男性だと決めつけるには心もとない」
「その通りだ。何か他に男性らしい特徴を思い出せるのであれば、それを聞き出して手がかりにするのがいいだろうな。今のところ有力な目撃情報もないという話だし」
「わかった、明日聞いてみる」
「……ねぇ、詠斗」
少し不安げな表情で、穂乃果がそっと口を挟んだ。
「本当に聴こえたの? その……被害者の霊の声が」
やっぱり信じられない様子の穂乃果。昼間の紗友と同じ顔だ。詠斗は肩をすくめた。
「俺も未だに信じられないよ。さっきも言ったけど、先輩の声以外は相変わらず何も聴こえないままだし」
「嘘でしょ……? 幽霊の声ってあんた……」
穂乃果は額に手を当てた。うーん、と唸っているようだ。
「いいじゃないか、どんな声だって」
そう言ったのは傑だ。
「音のない暗闇の中にいるよりは、少しでも声の届く場所にいられたほうがずっといいだろう。それが、たとえこの世に存在しない者の声だったとしても」
な? と兄は悟ったような目を向けてくる。詠斗は小さく息をついた。
まったく、こうもあっさり心を読まれると居心地が悪くて仕方がない。いっそ穂乃果や紗友のように信じられないという顔をしてくれていたほうがましな気さえした。
気を取り直して、詠斗は事件の話に論点を戻した。
「なぁ兄貴、どうして警察はこれが殺人事件だって判断できたんだ? 俺が聞いた話だと、先輩は殴られた後に階段の上から放り投げられたってことだけど……」
「階段から転がり落ちたことによる外傷とは明らかに一致しない傷が頭部に見られたからだ。確かに体のあちこちに擦り傷や打ち身があって一見すると階段から落ちたと判断されそうだが、見る人が見れば明らかに殴られたとわかる傷があった。死因も頭部を殴打されたことによる脳挫傷。凶器とみられる鈍器は現場に残されておらず、遺体発見現場に残っていた血痕の様子などから、被害者は別の場所で殴られた後、現場まで運ばれたのだろうと捜査員は結論付けた」
なるほど、素人考えの偽装工作ではやはりプロの目を欺けないということか。
「確か先輩、塾帰りに襲われたって言ってたな……例の階段の場所も自宅の近くだっていう話だったし」
「その通り。死亡推定時刻は午後九時から十一時頃。被害者が塾の授業を終えて帰路についたのは午後九時四十分だから、事が起きたのは午後十時前後と推測できる。現場は被害者が塾に通う際にいつも利用するルートだと被害者の母親が証言している。その証言からすでに真の犯行現場は割れていて、例の階段からおよそ百メートル離れた歩道上だった」
「ということは、犯人は殴り殺した先輩を担いで百メートルも歩いたってこと?」
「そういうことになるな。もともと人通りの少ない細い裏路地で、地元の人間は抜け道としてよく利用するところらしい。大それたことをした割に目撃証言が上がらなかったのはそこらへんの事情が絡んでいるんだろう」
夜道なんだからもっと広くて明るいところを通ればよかったのに、と今更ながらいらぬ世話を焼いてしまう。ともすれば、美由紀本人が一番後悔しているかもしれない。まさか殺されるなどとは夢にも思っていなかったのだろうな、と少しだけ同情の念が湧いた。
「犯人は先輩がいつもその道を通ることを知っていて、犯行に及んだのかな……?」
「その可能性ももちろん考え得るし、通り魔の犯行の線も完全には捨てきれないのが現状だ。ただし、通り魔による行きずりの犯行だとすると、わざわざ百メートルも離れた階段まで遺体を運んで事故に見せかけようとした理由が説明できない。普通ならその場に放置して現場を離れるだろうからな。となると、犯人は最初から被害者・羽場美由紀を殺すつもりで待ち伏せしていたと考えるほうが自然だろう」
「でも、仮に初めから先輩を事故に見せかけて殺すつもりだったんなら、階段のすぐそばで殴ってそのまま突き落とせば話は早かったんじゃ……?」
「そう、その点も不可解だな。強いて理由を上げるとすれば、例の階段は高層マンションと公園に挟まれていて、路地よりも明るく開けている場所に設けられていた。殴打する瞬間を目撃される可能性はぐんと上がる」
「でもそれって、先輩を運ぶ瞬間だって見られたら困るわけだから結局は同じことだろ?」
「そうなんだよ」
傑は肩をすくめた。
「だから現場の捜査員は手を拱いているんだ。参考人として松村知子の名前を上げたのも苦し紛れと考えてもらって差し支えない」
「なるほどね、現場の状況からじゃにっちもさっちもいかないから、先輩の交友関係から犯人を炙り出そうとしてるってことか」
「そういうこと。なんでも、松村知子が事件の前日、被害者と激しく言い争っていたのを同じ創花の生徒が目撃しているらしくてな」
これはまだ美由紀からもたらされていない情報だった。知子が容疑者扱いされているというのはケンカが原因だったのか。
「お前が被害者から聞いた話じゃ松村知子は犯人ではないということだが、彼女は身長一六七センチ。女子にしては大柄で、男と見間違えたとしてもおかしくはないな」
「けど、先輩は松村さんと特に仲が良かったって紗友が言ってたし、いくら夜道だったからといって友達を見間違えたりするかなぁ……?」
「紗友が?」
その瞬間、傑の目がきらりと光った。
「紗友は知っているのか? お前に被害者の声が聴こえたことを」
「あ……うん、たまたま先輩と話しているところを見られて」
「そいつはいい」
傑はぽんと膝を打った。「何がいいんだよ?」と問いただすも、それ以上傑は何も答えなかった。
「とにかく、現段階で警察による捜査は行き詰まりつつある。お前が本気で真犯人を追いたいというのなら、被害者の声が聴けるというのは現場の刑事の何歩も先を行くことができる特権だ。生憎僕が担当している事件じゃないから今すぐに的確なアドバイスをしてやることはできないが、被害者からもっと証言を引き出せれば事件は解決に向かうだろう」
そう言って、傑はふわりと笑みを浮かべた。
「何かわかったら知らせてくれ、その時はできる限り協力しよう」
詠斗は小さく息をつく。
ここまで理解がありすぎるのもどうなのだろう。
頼もしいような、ただ純粋に状況を楽しんでいるだけのような。
それでもやっぱり兄の言葉は嬉しいものだと思えてしまって。素直じゃないな、と自ら苦笑いしてしまう。
「ありがとう、努力するよ」
そう答えると、傑は満足そうに頷いた。その隣で、穂乃果がまったく納得できていない様子で眉間にしわを寄せていた。
「ん?」
唐突に、傑が席を立った。鞄のかかっている場所へ向かい、中から携帯を取り出している。どうやら電話がかかってきたようだ。穂乃果もすぐに立ち上がり、キッチンへ戻って弁当箱を手にすると、夕食の一部をせっせと詰め始めた。
二人の様子から察するに、兄が取った電話は臨場要請。何か事件が起きたのだ。
「面白いことになったぞ、詠斗」
電話を切って詠斗と目を合わせると、傑は口角を上げながらそう詠斗に伝えた。
「また創花の生徒が殺されたらしい――これで二人目だ」