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『「詠斗と一緒にしないで」』
紗友の背中しか見えていない詠斗にとって、聴こえてくるのは美由紀の声だ。
しかし今は、それが紗友の声に聴こえる。
忘れていない、忘れたくない、幼い頃に聴こえていた声。
今は少しだけ、大人っぽく変わってしまっているかもしれないけれど。
「社会的弱者だから、みんなが助けてくれる? ふざけないで! 詠斗は……耳が聴こえないってことは、自分の足で立ってまっすぐ歩くことだって本当は難しいの! 上手くバランスが取れないから自転車にだって乗れないし、流行りの音楽だって楽しめない! 泣いたり、笑ったり……みんなが当たり前に聴いている声が、詠斗にはなんにも聴こえないの! それでも詠斗は、自分の力で生きていこうって毎日一生懸命踏ん張ってる! それを……あんたみたいに逃げてばっかりいるような人と一緒にしないでよッ!!」
肩を震わせ、必死に言葉を紡ぐ紗友。
その背中を見ればわかる。今の紗友は、三年前のあの日と同じ。
「紗友」
震える肩を一つ叩き、詠斗は紗友に歩み寄った。
ゆっくりと振り返った紗友の瞳は、涙でいっぱいになっていた。
もう二度と、泣かせまいと決めていたのに。
自分のせいで紗友が涙を流すのは、あの日だけでもう十分だったのに。
紗友の肩に置いた手に少し力が入る。今日の自分を許せる日が、いつか訪れるだろうか。
「俺のことはいいから」
「よくないッ!!」
大粒の涙を零しながら、紗友はぶんっと頭を振った。
「どうしていつもそうやって諦めた顔をするの?! あんなこと言われて悔しくないの?!」
悔しいも何も、事実なのだから仕方がないと思ってしまう。けれど、そんなことを言おうものなら本気で殴り飛ばされてしまいそうだ。
「ねぇ、神宮司くん」
もう一度、紗友は神宮司を振り返った。
「誰も助けてくれなかったら、自分を攻撃してきた相手を殺してもいいの? 違うでしょ? 君自身の力で、少しでも誰かに助けを求めようとした?」
チッ、と舌打ちをするような仕草を見せて、神宮司は紗友から目を逸らした。それでも、紗友はめげずに言葉を投げかけ続ける。
「確かに、仲田先輩はひとりで立ち向かうには怖すぎる相手だったかもしれない。怖くて、どうしようもなくて、ただ現実を受け入れるしかなかったかもしれない。でも神宮司くん、君はもうひとりじゃないはずでしょ?!」
え、と神宮司は顔を上げる。
「君には今、同じ苦しみを分かち合える人が近くにいる。華絵からのいじめに遭っていた千佳ちゃんに出会って、君はひとりじゃなくなった。千佳ちゃんだって同じ。ずっとひとりで抱え込んできた痛みを、誰にも言えなかった心の声を、神宮司くんと分け合うことができた。なのに……なのにどうして二人とも、助けてって言えなかったの……!」
泣きながらそう訴える紗友の姿に、神宮司はハッとした表情を浮かべた。その隣で、千佳も同じ顔をして涙を流している。
「人ひとりの力なんて、誰だって弱くて頼りないものなんだよ。でも……ひとりじゃ全然届かない言葉でも、二人で声を合わせれば何倍も大きく響いて、きっと誰かが気付いてくれる。ひとりじゃできないことでも、二人でなら叶えられることってたくさんあるんだよ! 今回のことだってそう。ずっと孤独の中にいて、今まで怖くて上げられなかった声……その声を届けるために、二人は手を取り合って、助けてって叫ばなきゃいけなかったんじゃないの?!」
ズキン、と詠斗は胸が痛むのを感じた。
紗友の言葉がまっすぐに突き刺さって、引き抜こうにもびくともしない。
どうしてこんなにも痛いのか。
どの言葉が、こんなにも鋭く胸を突いたのか――。
「……今のままじゃダメだよ」
そう、紗友は涙ながらに続ける。
「今のままじゃ二人とも……互いに首を絞め合ってるだけで、何の救いにもなってないよ……!」
ついに、千佳が膝を折ってその場に崩れ落ちた。聴こえこそしないが、声を上げて泣いているのだろう。
『「相談してくれりゃよかったのに」』
そう美由紀が通訳したのは巧の声だ。詠斗のすぐ隣まで歩み寄り、神宮司を見つめている。
「まぁ、オレごときに現状を変えられるようなデカい力はねぇけどよ。それでも話してくれてりゃ、今よりはずっとましな未来になってたと思うぞ?」
同感だ、と詠斗は思った。おそらく、この場にいる誰もがそう思っているだろう。
「やっぱ、殺しはダメだ。殺す勇気が持てるくらいなら、誰かに話すことだってできたはずだろ? それこそ、草間も一緒に。踏み出す一歩を間違えたんだよ、お前達は」
強く握られている神宮司の左手は小刻みに震えている。俯き、唇を噛み、必死に涙を堪えているように見えた。
『……償いましょう』
不意に、美由紀が美由紀自身の言葉を口にした。
『きちんと償えば、きっと未来は変えられます。生きている限り、お二人には明日がやってくるのですから』
届かないと知りながら、優しく、そして強く、美由紀は神宮司と千佳に向けて言葉をかけていた。
美由紀にはわかっているのだろう。
こうして言葉にすることで、詠斗が二人に届けてくれるのだということを。
「……ちゃんと罪を償おう、二人とも」
その想いに応えるように、詠斗は美由紀の言葉を口にした。
「生きている限り、あんた達には明日が来る。あんた達の気持ち次第で、未来は変えられるはずだ」
美由紀の想いを届けられるのは、この世で自分だけなのだから。
「……美由紀先輩なら、きっとそう言うと思う」
最後に一言付け加えると、紗友と巧が同時に振り返ってきた。そっと笑いかけると、二人はどうやら状況を理解してくれたらしい。顔を見合わせて笑って、斜め上を見上げて頷いた。
「ごめん、草間さん」
そう口にして、神宮司はその場にしゃがみ込んだ。
「ごめん……僕、君のこと……っ」
千佳は大きく首を横に振る。神宮司としては千佳を巻き込んでしまったと思っているのだろうが、さっきの言葉の通り、千佳自身にも殺人の意思が存在したのは確かだ。いくら神宮司の立てた計画だったとはいえ、千佳にも償うべき罪はある。
「兄貴」
もう十分だと目で訴えると、傑は一つ頷いて神宮寺と千佳の前に立った。
「僕の弟を愚弄したことは許しがたいが、君達が僕のもとへ自首してきたことにしよう。これもまた、弟の願いなのでな」
ゆっくりと立ち上がった二人を連れ、詠斗達三人の前から離れていった。
まだ涙を流している紗友の背をそっと擦ってやると、紗友は詠斗の胸にしがみつき、肩を震わせて泣いた。
詠斗は優しく紗友を抱き寄せ、黙ったまま髪をなでる。少しずつ、少しずつ、紗友は落ち着きを取り戻していった。
こうしてやることが正解だったのか。
今の紗友に、どんな言葉をかけてやればいいのか。
詠斗にはわからなかった。




