3-7
思いがけない言葉が飛び出し、詠斗は眉をひそめて千佳を見た。
「私……ごめんなさい……万引きを……ッ」
「万引き?」
これもまた予想の斜め上を行く単語だ。思わずその言葉を拾って繰り返すと、しゃくり上げている千佳の後ろで傑が「なるほど」と口を動かした。
「強要されていたんだな? 猪狩華絵に」
傑の指摘に、千佳はこくりと頷いた。
「初めからそんなことをさせられていたわけじゃなかった……宿題を代わりにやったり、掃除当番を代わってあげたり……そんな些細なことだったの」
『「どこが些細なことなんだよ」と巧さんが』
美由紀の声につられて振り返ると、やっぱり巧は怒っていた。なまじ体が大きいおかげか、怒りを滲ませた顔は妙な迫力を醸し出している。
「巧」
思わず、詠斗はそう声を掛ける。
「顔」
「は?」
「怖い」
「はぁ?! 何のんきなこと言ってんだよお前はっ?!」
「そんな顔で睨まれたんじゃ草間さんも話しにくいだろってことだよ」
う、と巧は気持ち表情を緩めた。その隣で紗友が巧に向けて「すまーいるっ」と笑顔を作っているけれど、それはそれで間違っていると思う。気のせいだろうか。
『「それがいつしか」』
美由紀の声が、千佳の話が再開したことを教えてくれる。詠斗は改めて千佳のほうに向き直った。
「万引きをさせられるようになって……。もう何度目かっていう頃には私もすっかり手慣れてきちゃって……そんな自分が怖くて……それでも、やりたくないって言えなくて……っ」
泣きじゃくりながらも、千佳は懸命に言葉を紡いでいた。はっきりと物の言えない彼女にとって、過ちを告白することはどれほど心に負担がかかっているのか。あるいは吐き出してしまうことで、心にのしかかっていた重石を取り除くことができているのだろうか。
「でも、ちょうど三月に入ったばかりの頃……高校から一番近い本屋さんで、新刊の漫画を一冊盗んだところを神宮司くんに見られてて……」
『ねぇ』
華絵と別れ、ひとり本屋から少し北に入った裏路地で泣いていると、背後から唐突にそう声を掛けられた。
『……?!』
ハッと息をのんで振り返ると、同じ高校の制服をまとった男子生徒が立っていた。
『……あ、の……っ』
『ごめん――見ちゃった、君が本を盗むところ』
ガン、と頭を殴られたかのような感覚に襲われる。
終わった――。
そう、千佳は思った。
これで私の人生はおしまいだ。万引きのことが学校にバレたら、親にバレたら――。
一瞬にして頭の中が真っ白になり、止まりかけていた涙が再び河になって流れ始めた。
『大丈夫?』
何故そう尋ねてくるのかわからないまま、千佳はただその場で俯くことしかできなかった。
『七組の猪狩だろ? さっきの』
え、と千佳はやや顔を上げる。華絵のことを知っているということは、彼もまた自分と同じ一年生ということか。
『あ、ごめん……本屋で君を見掛けてから、ついここまでつけてきちゃった。あの場で声をかけていれば良かったんだけど……』
同じ制服を身にまとうその人の話から、千佳はようやく状況を理解した。要するにこの人は、漫画を万引きしてから華絵に渡すところまで、その一部始終を目撃していたということなのだ。
『アイツに命令されたの?』
自分と華絵との会話は聞き取れなくとも、遠巻きに見ていれば何が起きていたのかは自ずと見えてくるのだろう。嘘をついても良かったけれど、千佳は素直にこくりと頷いた。
『そうか……他にもいたんだな、搾取することに快感を覚える人間が』
『えっ……?』
思ってもみない言葉を口にしたその人に、千佳はそっと顔を上げた。
『どういうこと……?』
涙を拭いながらそう問いかけると、その人は自嘲気味な笑みを浮かべて肩をすくめた。
『どうもこうも、僕もたった今むしり取られたばかりだからさ』
『……何を……?』
『金』
たった一言そう答えた彼の瞳は、絶望の色を湛えていた。
その瞳に映る自分の目にも同じ色が浮かんでいて、千佳は言葉を紡ぐことができなかった――。
「同じだった……神宮司くんは、私と同じ……やりたくもないことを強要されて苦しんでた。怖くて今まで誰にも話せなかったけど、神宮司くんから仲田先輩とのことを話してくれて……それで私、やっと自分の気持ちを吐き出すことができて……っ」
止めどなく溢れ出す涙に時折声を詰まらせながら、千佳は懸命に言葉を紡いでいった。
いつから、どれくらいの間、千佳がひとりで悩み苦しんできたのかはわからない。けれど、神宮司と出会ったことで少なからず彼女の心は救われたのだろう。
それがどうして、こんな悲しい事件を引き起こすことになってしまったのか。
「もう限界だった……抜け出すこともできなくて、どうしたらいいのかわからなかった……そんな私を助けてくれたのが神宮司くんだったの」
千佳の隣で、神宮司は黙って俯いている。話を遮ろうとしないのは、千佳を想ってのことなのか。
「吉澤くんのさっきの話、間違ってません」
詠斗はわずかに眉を動かした。ついに罪を認める発言をした千佳に、神宮司は目を閉じる。
「今回の交換殺人計画を持ち掛けてきたのは、神宮司くんでした――」
『……本当に、やるの……?』
『大丈夫、絶対に上手くいく。一度は疑われるだろうけど、アリバイさえあれば警察もそれ以上手出しはできないはず。自分のやるべきことをきちんとやって、証拠を残さないように細心の注意を払えば……』
千佳はごくりと唾を飲み込んだ。狂気と不安とが入り混じる神宮司の瞳は、有無を言わさぬ強さを秘めているように見えた。
『やろう、草間さん』
ぐっと千佳の両肩を掴み、神宮司は千佳の目をまっすぐに見た。
『あの二人がこの世から消えてなくなれば、僕たちは救われるんだ』
今の千佳、そして神宮司にとって、『救い』の一言が世界のすべてだった――。
「この計画を思い付いたのは神宮司くんでも、実際にやると決断したのは私の意思。やるしかなかった……やれば助かる、救われるんだって、本当にそう思ったから……裏切ったら万引きのことをバラすって華絵ちゃんから脅されて……逃れるためには、殺すしか……殺すしかなかった……!」
大粒の涙が作り出す河が、千佳の告白の終わりを告げた。傑が千佳の頭を優しくなで、「よく話してくれたな」と微笑んだ。
「神宮司」
詠斗は顔を上げない神宮司に向かって声をかけた。
「本当に、そうだったのか?」
ようやく上がった神宮司の顔は、たくさんの負の感情でぐちゃぐちゃに歪んでいる。
「本当に、仲田先輩と猪狩さんを殺すことでしか、あんた達は救われなかったのか?」
「……××××」
「え?」
「うるさいッ!!」
前のめりながら神宮司は口を大きく開けた。
「お前に何がわかる?! 理不尽を強いられて、身動きが取れなくなって……お前なんかにこの気持ちがわかってたまるかッ!!」
理不尽。
その言葉に、詠斗は目を細くした。
叫ぶ声は聴こえなくとも、心が悲鳴を上げていることは痛いほどわかる。理不尽を許容し、なんでもない顔をして生きていくことを選ばざるを得ない人生など、誰だって嫌に決まっている。
俺だって、できることなら――。
『詠斗さん』
美由紀の呼び声が耳に届く。誰の言葉を通訳するでもないその声が示すものは、と詠斗は後ろを振り返った。
「やめて」
そう口を動かしたのは紗友だった。
「詠斗の前でそんなこと言わないで」
泣き出す寸前の顔をして、紗友は神宮司を睨み付けた。神宮司を振り返ると、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべている。
「吉澤……お前確か、耳が聴こえないんだったよなぁ?」
まっすぐ詠斗のことを見て、神宮司はフンと鼻を鳴らした。
「いいよなぁ、お前は。社会的弱者だからって、頼まなくともみんなが助けてくれるんだもんな?」
悪意しか感じられない一言に、詠斗はじっと神宮司を睨んだ。
「片や僕達と言ったら……。僕や草間さんだってこんなに苦しい思いをしてるのに、だーれも助けてくれやしない。はっ、何なんだよこの差は!!」
「おい」と傑が一歩踏み出すよりも速く、神宮司の前にずいと歩み寄る一人の姿があった。
パンッ――。
紗友の右手が、神宮司の左頬を張った。




