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翌日。
詠斗の打った『自己紹介であらかじめけん制しておく』という手は予想した通りに働き、不用意に詠斗へ近付こうとするクラスメイトは現れなかった。ただ一人、事情を知る紗友を除いて、という条件付きではあるのだが。
これで晴れていわゆる『ぼっち』と呼ばれる存在を確立したわけだけれど、世間的にはあまり褒められたものでない『ぼっち』も、詠斗にとってはひどく居心地のいいものであったりする。もう随分長いことひとりで学校生活を送るのが当たり前になっていた詠斗には、友達付き合いや恋愛など、普通の高校生が人並みにこなす日常に今更戻ることへの価値が見いだせなくなってしまっていたのだった。
今日も今日とて、昼休みは屋上でひとり伸び伸びと弁当を食べている詠斗のもとに、二日連続で来客があった。
「よぉ」
振り向けば、中学時代からの同級生・川島巧がにこやかに片手を挙げていた。
一七七センチと長身の巧を座ったまま見上げると首が痛くなる。一六八センチの詠斗にとっては、立っていても巧を少し見上げなければならなかったのだけれど。
何も答えずにいると、巧は詠斗のすぐ隣に腰を下ろし、重箱並みの特大弁当を広げ始めた。これをすべて平らげて横に太くならないというのは一体どういうわけなのだろう、と詠斗は毎度驚いてしまうのだった。
「あんまり萩谷をいじめてやるなよ」
ぽん、とひとつ肩を叩いて詠斗の目を自分へと向けさせてから、巧は困ったように笑いながらそう言った。
「……誰が?」
「お前が」
「俺が? 紗友を?」
「おーい、無自覚かよ」
声に出してまた笑って、巧は豪快に弁当をかき込んだ。早食いはデブの証って、テレビか何かで見た気がするのだが。それでいて抜群のスタイルを誇る巧の存在は、学園七不思議の一つに数えても良さそうだな、などと思いながら、詠斗は巧の食べっぷりに今日も感心してしまっていた。そもそも、この学校に七不思議なんて存在するのだろうか。少なくとも、詠斗は知らない。
「ってか、そんなことを言いにわざわざ来たのか?」
「そんなことってなぁ聞き捨てなんねぇなぁ。間に挟まれるオレの身にもなれっつーの」
「はぁ?」
真剣な顔をした巧に箸の先を向けられ、詠斗は思わず顔をしかめた。
「たまには自分の気持ちに素直になってみたらどうだ? 詠斗」
よく響くバリトンボイスが巧の声色だが、今はもう詠斗の耳には届かない。ありし日の声は、頭の中だけで再生される。
「萩谷が嫌々で言ってるんならまだしも、あいつの気持ちは紛れもない本心だ。そいつを無視してお前の思いだけを押し付けるってのは、男としてどうかと思うぞ?」
やけに真面目なことを口にする巧に、詠斗はため息をついた。
そんなこと、言われなくたってわかってる――そう言いたげな顔をしてしまったことは、巧にバレているだろうか。
『私が詠斗の耳になるから!』
詠斗の聴覚が完全に失われた、中学二年の夏。
泣きながら、紗友は詠斗にそう言った。
痛いほど、その気持ちを嬉しいと思った。
けれど、それ以上に強く心に灯った想いがあったこともまた真実だ。
『紗友には、もっと自由な人生を送ってほしい』
耳の聴こえない自分に寄り添うことは、苦労を背負わなければならないということ。
それがどうしても許せなくて、詠斗は紗友の申し出を受け入れなかった。
あの日から、もうすぐ三年が経とうとしている。
ある夏の朝。目が覚めると、何の音も聴こえなくなっていた。
あの時のことは、今でもはっきりと覚えている。確かにショックだったけれど、あぁ、ついにこの日が来たか、と妙に冷静な自分がいたことのほうがショックだった。生まれついての病で治ることはないのだと、諦めが良すぎた自分の心に何よりの悲しみを覚えてしまったのだ。
そんな中、誰よりも泣いてくれたのが紗友だった。
一粒の涙も流さなかった詠斗の分も、紗友が代わりに流してくれた。
それだけで、十分だった。
これ以上、紗友に求めることなど何もない。今でもそう思っている。
「男としてどうかと思われても、俺には痛くもかゆくもない」
本当に痛みを覚えるのは、未来ある紗友の人生を壊してしまうことだから。
ぱく、と玉子焼きを口に放ると、どうやら巧がため息をついたらしい空気が伝わってきた。説得を諦めたのか、巧はものすごい勢いで重箱二段を空にしてみせた。
「バスケ行くわ」
詠斗に見えるようにそう言うと、じゃあな、と巧は足早に屋上を後にした。食べてすぐ動いて大丈夫か、と聞く隙もなかった。
ちなみに巧も紗友も中学の頃からバスケットボール部に所属していて、紗友と家が近所で幼馴染でもある詠斗と、通っていた小学校の違う巧との間に縁が生まれたのは紗友のおかげだ。中学に上がって早々、巧は紗友に恋をした。いわゆる一目惚れというやつだ。詠斗のおかげでその恋は叶わなかったわけだが、詠斗にその自覚がない上に、今でも紗友と巧はお似合いのカップルになれると思っている。実際、二人は仲がいい。なんやかんやで、詠斗と巧も。
現在、屋上には詠斗の姿だけがある。この広々とした空間を図らずも独り占めしている状態だ。春のうららかな陽気は今日も絶妙な心地良さで、うっかりするとうたた寝をしてしまいそうだった。
チャイムの音が聴こえない詠斗は、携帯のアラーム機能を使って昼休みを過ごしていた。五時間目の五分前になるとアラームが作動し、バイブレーションで時間を知らせてくれる。手で握っているか胸ポケットに入れておくことが肝心で、ズボンのポケットでは振動に気付かないことがある。一度それで失敗して授業に遅れてしまい、以来、昼休みには必ず胸ポケットへと携帯をしまい直していた。
食べ終えた弁当箱を片付け、ぼんやりと青空を眺める。小学生の頃までは飛んでいる鳥の声も聴こえていたのに、なんて、どうでもいいことを思い出しては感傷に浸る。最近では少なくなっていたけれど、今日はそんな昼休みになってしまった。
その時。
『――あの』
はっ、と詠斗は背筋を伸ばした。咄嗟に右耳の補聴器に手をやる。
――聴こえた!
今、確かに聴こえた。昨日と同じ、知らない女の人の声――!
『聴こえているんですよね? 私の声』
聴こえる。聴こえている!
けれど、これに答えるにはどうすればいいのだろう。普通にしゃべれば、こちらの声は届くのだろうか。
「……聴こえます」
おそるおそる、詠斗はそう口にした。
『あぁ、良かった……! やっと出逢えた、私の声が届く人に』
返事が来たことに感動し、詠斗は思わず立ち上がった。膝の上に乗せていた弁当箱がころん、と地面へ転がったが、プラスチックが地に当たった音は聴こえない。やはり、聴こえているのはこの女性の声だけだ。
ばっと首を振って辺りを見渡してみる。けれど、昨日と同じで屋上に人影はない。
だとしたら、この声の主は一体――?
「……あ、あの」
どこを向いて話せばいいのかわからないまま、詠斗はやや斜め上方面を見ながら再び口を開いた。
「あなたは……?」
姿の見えない相手。
どれだけ頭を捻っても、想定されるのは――。
『すみません、突然のことで驚かれましたよね。私は創花高校二年……あ、いえ。生きていれば、今年三年生になる予定でしたが』
「生きて、いれば」
やっぱりそういうことか、と詠斗はごくりと唾を飲み込んだ。目に見えない誰かが『えぇ』と綺麗な言葉で相槌を打ってくる。
『私の名前は羽場美由紀――先週、知らない誰かに殺されてしまって』