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詠斗が兄夫婦のマンションに着いたのは午後六時になる少し前。紗友と巧の両方にここで捜査会議を行う旨を携帯のメッセージアプリで連絡しておいたので、おそらく到着は六時半から七時頃になるだろう。
詠斗は張り切って料理の腕を振るっている穂乃果を手伝いながら二人の到着を待った。傑は午後六時から仲田翼殺しの捜査会議に出るらしく、終わり次第隙を見てこちらの会議にも顔を出すつもりだと穂乃果から聞かされた。果たして、無事に抜け出せるかどうか。
「……なぁ、穂乃ちゃん」
カレーを煮込みながらサラダにする野菜をさくさくと切っている穂乃果に、詠斗はそっと声をかけた。
詠斗と穂乃果が出逢って、もう十一年になる。当時、穂乃果と傑は十七才、詠斗はまだ五歳になったばかりだった。その頃から詠斗は「ほのちゃん、ほのちゃん」とまるで姉のように穂乃果を慕っていた。傑が穂乃果と結婚することになった時、誰よりも喜んだのは詠斗だったりする。自分でも意外だと詠斗は思っていたのだが、嬉しいものは嬉しいのだからこればかりは仕方がない。
穂乃果は包丁を握る手を止め、小首を傾げながら詠斗を見やる。
「どうして穂乃ちゃんは、兄貴と結婚したの?」
予想外の一言だったのだろう、穂乃果は目を大きくした。
「何よ? 急に」
「いや、穂乃ちゃんは見返りを求めない人だって兄貴が言ってたから」
「あぁ……」
あの時のことか、と穂乃果の口が動いた気がした。眉をひそめると、穂乃果は少し照れくさそうにしながら話してくれた。
「私が一目惚れしたのよ、傑に」
へぇ、と詠斗は少し驚いたように声を上げた。高校の頃からの付き合いなのは知っていたけれど、詳しい馴れ初め話は聞かされたことがなかった。
「で、ある日思いきって告白したわけ。そしたらあの人、『僕には耳の不自由な弟がいる。いずれあいつは音を失うことになるだろう』って、突然あんたの話をし始めてね――」
『僕は弟が何不自由なく暮らせるよう、持てる力のすべてを尽くしたいと思っている。弟のことを、弟の幸せだけを考える生き方しかできない僕に、君を幸せにしてやることはできない』
『あなたのことが好きです』と伝えて、こんな答えが返ってくることなど、どうしたら想像できただろうか。
せめて『他に好きな子がいるから』とか『君は僕のタイプじゃない』とか、そんな断り方をしてほしかった。何なら『君を好きになんてなれない』とはっきり言ってくれたって構わない。
今しがた聞かされた答えでは、諦める理由には弱すぎる。
というか、諦めてくれと言われている気がまったくしないんですけど?
『……別にいいよ、あなたの一番じゃなくたって』
そう答えると、傑は少し目を大きくした。
『あなたが弟くんの幸せを願うなら、私があなたの幸せを願うことにする』
『……僕の話を聞いていたか?』
『もちろん、聞いてたよ』
『だったらどうしてそんな答えが出てくる? 僕の幸せを願ってくれるのはありがたいが、僕は君の幸せを願ってやれないかもしれないぞ?』
『願ってくれなくて結構』
そう言って、穂乃果はふわりと柔らかく笑った。
『あなたの隣にいられるなら、それだけで私は幸せだもの』
驚いた顔をした傑に、穂乃果は笑みを深くした――。
「ってなことがあってね」
唖然としている詠斗に、穂乃果は少し頬を赤らめた。
「……まぁ結局のところ、その後も何か言いたそうな顔でうじうじしてたから『あんたはどうしたいのよ? 私と付き合いたいの? 付き合いたくないの?!』って詰め寄ってやったのよ。そしたらあっさり落ちて付き合い始めたってわけ。いやぁ、まさかそのままあの人と結婚することになろうとはねー」
懐かしそうに目を細くする穂乃果。半強制的なところがいかにも穂乃果らしくて、詠斗もつい笑ってしまう。なんとなくだけれど、傑が穂乃果に惚れたのは、告白されたまさにその瞬間だったのかもしれないなと思った。
「ちなみに、兄貴のどこに惚れたわけ?」
詠斗が問うと、穂乃果は「どこって」と言って肩をすくめた。
「あれほど容姿端麗な男が目の前に現れて、惚れるなってほうが難しいでしょ?」
女子はみんなあの人のことが好きだったわよ、とさも当たり前といった風にそう付け加えてくる。一瞬にして強烈な劣等感に飲み込まれ、詠斗は無意識のうちにため息をついていた。
*
すっかり夕飯の仕度も終わった午後六時四十分。
ダイニングテーブルに着いていた穂乃果が唐突に立ち上がった。その向かい側に座ってテレビ画面に流れる字幕を眺めていた詠斗は、穂乃果を追って後ろを振り返る。すると、インターホンが青い光を点滅させて来客を知らせていた。カメラ付きのため、画面に紗友の顔が映し出されているのが見える。見切れているが、わずかに巧の影もあることが確認できた。
解錠するや否や、穂乃果はキッチンに立ってカレーの鍋に火をかけた。詠斗はエレベーターで上がってくる二人を出迎えに玄関先へと向かう。
「やっほ!」
ドアを開けて待っていると、紗友が手を上げながらやってきた。その後ろから巧がやや緊張気味についてくる。巧と穂乃果が顔を合わせるのはこれが初めてだった。
部屋に上がった二人は穂乃果と軽く挨拶を交わし、まずは四人で夕食を囲むことになった。昔から穂乃果は料理好きで、カレーも自らスパイスをブレンドして作る。絶妙な辛さが食欲をそそり、普段少食な詠斗でも穂乃果の作るカレーだけは二杯目を食べたくなってしまうほどだ。
美味しかったのか、ただ単純に腹が減っていただけなのか、巧はものすごいスピードで平らげ、最終的に三杯もおかわりをして満足そうに頬を綻ばせていた。「いい食べっぷりで作り甲斐があるわ〜」と穂乃果も嬉しそうだった。
ちなみに妊婦である穂乃果は刺激物を避けるため、ひとり何やら高級そうな包みに入ったお茶漬けを楽しんでいた。
食後のコーヒーがテーブルに並んだところで、三人の高校生と元警察官による小さな捜査会議が始まった。
テーブルの真ん中にはA4サイズのコピー用紙と四色ボールペンが置かれている。詠斗のために会話の内容を話し手が随時メモしていく、半筆談形式を取ることになったのだ。人名や地名などの固有名詞は、唇の動きだけではどうしても読み取りにくい。面倒をかけて申し訳ないと思いながらも厚意に甘えることしかできなくて、詠斗は歯がゆさに胸が苦しくなった。
「美由紀先輩、やっぱり誰からも恨まれてるなんていう話は出てこなかったよ」
軽く挙手をしてから、そう話し始めたのは紗友だ。
「確かに知子先輩とはケンカしてたみたいだけど、知子先輩、怪我を隠していたことが美由紀先輩にバレて、試合に出る出ないでもめただけなんだって。知子先輩もそんなことで殺したりしないって言って泣いてた」
その話なら美由紀本人から聞かされていた。親友が突然殺され、その疑いをかけられたのだ。松村知子が泣きたい気持ちもわかる。
「他のバレー部の子やうちのバスケ部の先輩にもいろいろ聞いてみたけど、みんな口を揃えて美由紀先輩は穏やかで優しい人だったって言ってた。私もそう思う。……殺されていい人じゃないよ、美由紀先輩は」
悔しさを滲ませる紗友。紗友の代わりに穂乃果が隣で紙の上でペンを走らせていた。
紗友の向かい側、詠斗の隣で、今度は巧が手を挙げた。
「仲田翼くんのことだけど、恐喝の噂は本当だったらしいな」
やっぱり、と詠斗は呟いた。
「巧、やられてたのが誰だったか、そこまでわかったのか?」
「あくまで噂の域は出ないけど、二年の神宮司隆裕じゃないかって言ってるヤツがいた」
巧は穂乃果からペンを受け取ると、紙に『神宮司隆裕』と書いてみせた。
「神宮司って、確か……」
「おいおい、悩むなよ詠斗。お前と萩谷は去年同じクラスだったはずだぞ?」
あぁ、そうだ。どうりで聞いたことのある名前だと思った。
「オレも知らなかったんだが、神宮司の親父さん、開業医なんだってな。翼くんがもともとそれを知ってたのか、誰かから聞いてターゲットにしたのかはわからねぇけど、神宮司って見るからに大人しそうなヤツだし、カモにするには十分な金を持ってたんだろうな」
初めから金持ちを狙うなんて省エネだなぁ、とまるで他人事のような感想を抱いたが、話題が逸れてはまずいと黙っておいた。代わりに少し議論を前に進めてみる。
「お前が聞き出せたってことは、当然警察も神宮司隆裕をマークしてるはずだよな?」
「×××××」
穂乃果が口を動かした。「そうでしょうね」と同意を与えてくれたのだろうと推測したがどうやら間違っていなかったようで、穂乃果はそのまま話を続ける。
「警察は今の段階ですでに神宮司隆裕から聴取を行っていると考えてまず間違いないわね。私達が犯人捜しに乗り出していることを知っている傑から何の連絡もないってことは、まだ神宮司隆裕を仲田翼殺害容疑で引っ張れていない証拠。犯人かもしれないけれど、決定打に欠けるか、あるいは彼には根本的に犯行が不可能なのかも」
「不可能って?」
と紗友が尋ねる。穂乃果は人差し指を立ててみせた。
「たとえば――神宮司隆裕には犯行時刻に完璧なアリバイがある、とかね」




