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紗友と巧の協力を得ることになったと傑に伝えると、自宅マンションを会議室代わりに使うよう提供してくれた。その場で穂乃果に連絡した傑から、「穂乃果が自分も会議に参加させろと言っているぞ」と告げられ、またもや詠斗は頭を抱えることになった。知らない間に何やらすっかり大事になっていて、こうなってしまうとどうあがいても逃げられそうにない。
何度もため息をつきながら詠斗は校門をくぐり、最寄り駅へと向かって歩き出した。
創花高校は詠斗の暮らす街の西端にあって、詠斗と同じ市立中学校出身の生徒は詠斗のように電車通学をする者と自転車で通う者とに分かれる。ちなみに紗友と巧は自転車通学派で、たいていの生徒は雨でも降らない限り自転車を利用していた。
自転車で通えれば通学にかかる電車賃を浮かせることができて親孝行なのだが、詠斗は自転車に乗れない。人間の耳というのは体のバランスを保つ役割も担っていて、詠斗の場合、まっすぐ歩くだけでも実はひと苦労なのだ。幼い頃から難聴と付き合ってきているおかげで完全に失聴した今でもよろけることなく歩けているが、自転車は危ないからと初めから練習させてもらえなかった。とはいえ、自転車に乗れなくても日常生活に障ることはなく、身の安全を守ることを優先しても特別後悔はしなかった。
駅に着いた詠斗は、改札の中に入るといつもと反対側のホームへ続く階段を昇った。家に帰る前にどうしても寄りたいところがあったからだ。
五分と待たされることなく電車はやって来て、三つ目の駅で降りる。創花高校と詠斗の生まれ育った家のある街の一つ隣の街。商店と住宅がほどよいバランスで立ち並ぶ片側一車線道路の歩道をゆっくりと歩き、事前に調べておいた花屋の前で一度立ち止まる。通学に使っている鞄の中からペンとメモ帳を取り出してから、詠斗は店の中へと入っていった。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開いた瞬間、カウンターに立っていた赤いエプロンを身に付けた女性の店員に微笑みかけられた。花屋で働いている人の年齢などじっくり考えたこともなかったが、思っていたよりもずっと若い人でつい驚いてしまった。
「あ、すみません」
すたすたとカウンターに歩み寄ると、詠斗は手にしていたペンとメモ帳を店員に差し出した。
「僕、耳が聴こえないので、筆談をお願いしたいんですけど」
急ぎの用をこなしたり、初めましての人を相手にしなければならなかったりする場合、詠斗は迷わず筆談という手段に打って出る。「ゆっくりはっきりしゃべってください」とお願いしておきながら結局何度も聞き返すことになっては申し訳ないので、書いてもらったほうが互いに軽度のストレスを感じるだけで済む。長年の経験が選ばせる選択肢だ。
花屋のお姉さんは初めこそ驚いて目を大きくしていたけれど、すぐにペンを走らせてくれた。
御供えの花を見繕ってほしいと伝えると、予算や入れたい花などを尋ねられた。花屋での買い物は初めてで、何円出せばどれくらいの花束になるのかまるで見当がつかなかったが、お姉さんは懇切丁寧に説明文をメモ帳に書き記しながら少ない本数でも整って見えるよう配慮した花束を作ってくれた。
きちんと礼を言って店を後にし、目的の場所へと向かう。少し前まで午後四時を過ぎれば辺りは暗くなり始めていたのに、今はようやく陽が傾き始めたかといった具合でまだまだ明るい。
携帯で地図を確認しながら、細い路地へと入っていく。車がすれ違うのに苦労しそうな道は南北に長く延び、なるほど抜け道に利用したいのもわかる。大きくて広い道ではどうしても信号が多くなって煩わしい。
「……ここか」
ようやくたどり着いたその場所は、美由紀の遺体が投げ落とされたという階段だった。
美由紀本人と傑から聞かされた通り、階段を見下ろす位置に立って右手側には小さな公園、左手には高層マンション。公園の周りを囲うようにいくつか街灯が設置されていて、確かにこれではたとえ夜間の出来事だったとしても遠くから十分目撃できそうだと思った。
『いらしてたんですか』
不意に届いたその声に、詠斗はまたしてもその肩をびくつかせた。
「……それはこっちのセリフですよ、先輩」
『ここへ来るつもりだったのならそうおっしゃってくれれば良かったのに』
「仕方ないでしょう、昼間は邪魔が入ってしまったんだから」
そう答えながら、詠斗は階段の中央に設置されている手すりの支柱に先ほど作ってもらった花束を立て掛けた。けれど、重みですぐにコテンと横倒しになってしまい、通行の妨げにならないように改めて寝かせた状態で置き直した。
『それ、私のために?』
「手ぶらで来るのは失礼かなと思って」
元々は、事件のあった場所を自分の目で確かめてみようと思ったのがここへ足を運んだきっかけだった。花を買ったのは完全な思いつきだったけれど、美由紀の冥福を祈ろうと思った気持ちに嘘はない。
しゃがみ込んで目を閉じ、静かに手を合わせる。
この姿を当の本人に見られていると思うとどこか気まずい感じがしたが、美由紀は特に何も言ってこなかった。
「さて」
手すりに頼りながら立ち上がり、詠斗は階段に背を向けた。
「ここから百メートル、か」
ひとり呟きながら、詠斗は来た道をゆっくりと戻り始めた。
舗装された道路の左右には昔ながらの住宅が所狭しと立ち並んでいる。表札を見ると『塩田』と『木村』ばかりで、ずっと昔からこの地に根付いている一族なのかな、なんてことを想像してしまう。門構えが立派な豪邸もあって、きっと地主の家なのだろうと勝手に結論付けていた。
『この辺りです』
不意に美由紀の声が降ってきた。詠斗はぴたりと立ち止まる。
『この白い軽トラを覚えています。ここで振り返って、誰かに襲われました』
美由紀が言う軽トラックは、例の階段を背にして右側の家のガレージに停められていた。シャッターはいつも開けっぱなしなのだろう。
詠斗は改めて階段のほうを振り返ってみる。ゆるやかにカーブしてはいるが、この場所までおよそ一直線。いくら小柄な美由紀とはいえ、夜道を百メートルも人ひとり担いで歩くというのはかなりしんどいはずだ。やはり美由紀の証言通り、男の仕業だと思いたくなる。
「塾には毎日通っていたんですか?」
どこにいるのかわからない美由紀を見上げながら、詠斗はそう静かに尋ねた。
『授業があるのは火曜・水曜・木曜です。部活を引退したら自習も含めて平日は毎日通う予定でした』
「ちなみに、先輩が襲われたのって?」
『四月三日の水曜日です』
今日が水曜日なので、まるっと一週間が経ったわけか。
見方を変えれば、ちょうど一週間が過ぎようという昨日、新たな被害者が出てしまったとも言える。二つの事件に関連があるのなら、この時間的空白にはどんな意味があるのか――。
改めて、詠斗はそっと宙を見上げた。
「松村さんとは、どうして言い争いを?」
聞きにくいなと思ったのだが、せっかくなので尋ねてみた。誰ひとり通らないこの狭い路地でするような話では決してないのだが、誰にも見られていないというのは詠斗にとって好都合だった。
『……知子の、怪我のことで』
「怪我?」
思わぬ単語が飛び出し、詠斗は眉をひそめた。
『はい。聞いていらっしゃるかもしれませんが、私は女子バレー部のマネージャー、知子は部長を務めています。試合においてももちろんレギュラーメンバーで、引退のかかった試合を四月の末に控えているんですけれど……』
言いかけて、美由紀は少し言葉を切る。
『知子、右の手首を疲労骨折していたことを隠していたんです』
「疲労骨折?」
はい、と愁いを帯びた色の声が返ってくる。
『少し前から痛みがあると言っていたのですけれど、病院で診てもらったら折れていたようで。キャプテンとして部を率いる立場の人間でしたし、試合に出られないとなれば今まで積み重ねてきたものがすべて無駄になってしまうと知子は思ったみたいで……。どこか思い悩んでいる様子だったので問い詰めてみると、そういった事情を抱えていたと言うわけです』
「なるほど。察するに、試合に強行出場しようとして怪我をしていることを部員に黙ったまま練習を続けていた松村さんを、あなたは止めようとした。それでケンカになった?」
『そのとおりです』
美由紀が肩をすくめる姿が目に浮かぶ。確かに、こんな理由で友人が殺人の疑いをかけられたら黙ってはいられないだろう。兄が言っていたように、まさか警察も本気で松村知子を疑ってはいないと思うのだが。
「先輩、松村さん以外に誰かともめたりとか、何かトラブルを抱えていたとか、そういったことってなかったんですか?」
『そうですねぇ……どちらかというと日々穏やかに過ごせるように動いてきたつもりなのですけれど、実際こうして殺されてしまったわけですし、何か誰かの気に障るようなことをしてしまっていたのなら、申し訳ないとしか言えませんね』
殺された割にあっけらかんとしすぎな点は一旦棚上げして、変なところで気が合うな、と詠斗はつい思ってしまった。
どちらかと言わず、詠斗は日々穏やかに過ごすことだけを目標に生きている。今がその穏やかな日々からうんと外れているのは一体誰のせいなのか、それは言わないでおくけれど。
「わかりました。また何か思い出したり、気がついたことがあったら教えてください。周辺事情とのすり合わせは紗友と巧の聞き込み結果を待ってからにします」
そう言って、詠斗は駅方面に向かって歩き出した。いつまでもここにいたところで、警察が見落とすような大きな手がかりは得られそうにない。
『素敵なお友達をお持ちなんですね』
唐突に、美由紀はそう詠斗に言った。詠斗は肩をすくめる。
「気持ちだけで十分なんですけどね、本当は」
『どうしてです? せっかく手を貸してくださるというのに』
「……返し方がわからないんですよ」
正直に、胸に灯った想いを口にする。
「傾けてもらった気持ちにも、貸してもらった力にも、うまく応えられる自信がなくて。気づいたら、あの二人に頼ってばかりの人間になってしまいそうで。……許せないんですよ、そんな自分が」
だからこそ適度な距離を保っていたいし、あの二人に寄りかかりたいとも思わない。自分に構うことなく、あの二人には広い世界を自由に生きていってほしいといつだって願い続けている。
何故だろう、美由紀の前ではつい本音をしゃべってしまう。いけない。流されてしまいそうだ。
『いいんじゃないですか? 無理に返そうとしなくても』
え? と言って、詠斗は立ち止まって斜め上を見上げた。
『注いでもらった力や想いを素直に受け止めることも、勇気ある人間の行いだと思いますけどね、私は』
常に素直でいることもなかなか難しいですからね、と付け加えた美由紀は、きっと綺麗に笑っているのだろうと思った。
まったく、兄貴といい先輩といい――。
くしゃ、と髪を触り、詠斗は深いため息をついた。




