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「吉澤詠斗です。知っている人もいると思いますが、僕は耳が不自由です。大きな物音ならかろうじて聴こえるけど、人の話し声なんかは一切聴こえません。ただ、唇の動きで相手が何を話しているのかだいたい読み取れるので、用がある時は肩を叩いてもらって、気持ちゆっくり話してもらえれば問題なく会話は成立します。……まぁ、気を遣うのも面倒かと思うし、僕も面倒なんで、必要最低限の会話にとどめてもらえれば」
よろしくお願いします、と頭を下げて、詠斗は再び椅子に腰を落ち着けた。
新年度、新しいクラスメイトへ向けた自己紹介。完全に聴覚を閉ざされてからは、この挨拶が定型になっていた。
まばらに起こる拍手。担任教師の苦笑い。こちらも毎度お馴染みなのでどうということはない。通常級への進学を決めた時から覚悟していたことだ。穏やかな高校生活を送るには、打てる手をあらかじめ打っておく必要がある。それだけだ。
昨日が始業式で、今日から早速通常授業が始まる。とはいえ、一時間目はホームルームで、まるまる自己紹介やら各種委員決めやらで時間がつぶれる予定だった。
窓側の最後列。そこが詠斗に与えられた席だった。吉澤なんていう苗字のおかげで、出席番号はたいていビリっけつ。一年の時もそうだったし、今年もそう。この窓際の角はもはや詠斗のために設けられた席のようなものだ。詠斗にとっては、さっぱりありがたくないのだけれど。
美化委員会という人気のない、かつ当たり障りのなさそうな役職をさっさと選び、詠斗は自分の席でぼんやりと外の景色を眺めていた。四月も八日となれば、桜の花びらはとうに散りきってしまっていて、青々とした葉が陽の光にきらめいている。
春らしく、今日は風が強いようだ。木々は大きく揺れ、時折窓ガラスがぶるると振動している。クラスメイトにはみしみしという音が聴こえているのだろうけれど、詠斗には想像することしかできなかった。
黒板のほうへと目を向ける。書き出された委員会一覧の下には、まだ名前の埋まっていないところがちらほらある。授業終了まであと十分弱。上手くまとまるかどうか、新しいクラス長の腕の見せ所といったところか。
前から七列目が詠斗の座る最後列だ。この場所からだと、教壇に立つ者の唇の動きが読みづらい。あと二列だけ前の席だったら、と年度当初は毎回思う。そうは言うもののまったく読めないわけではないので、わざわざ席を替えてもらうことはしない。できる限り目立った動きはしたくないという思いが根底にあるおかげで、自分で自分の首を絞めている形だ。とはいえ、さすがに三年目ともなればいやでも慣れてくるわけで、特別不自由を感じることも少なくなってきていた。それがいいのか悪いのか、詠斗自身にもわからないのだけれど。
結局、新しいクラス長がうまく取りまとめたおかげで残り十分で無事委員決めが終了した。何やらもめている様子だったので拍手ものだ。
二時間目から四時間目までは、新しい教科担任の挨拶やら今後の授業の進め方やらを延々聞かされるだけの時間だった。そうして、ようやく昼休みの時間がやってきた。
いつも通り、詠斗は右手に弁当箱を入れた袋を提げて中校舎の屋上へと向かって階段を昇る。去年は一階がホームルームだったけれど、今年は三階だ。一つ上がるだけで屋上へたどり着くことができる。ありがたい限りだ。
少し重い鉄の扉を押し開ける。今日も詠斗が一番乗りだった。
さっきまで強く吹き付けていた風はいつの間にか凪いでいて、適度に眠気を誘う陽射しと相まって非常に心地良い。転落防止柵のすぐ目の前に設置されている古い無機質なベンチに腰掛け、遠く街の様子や山並みを眺めながらランチタイムを過ごすのが詠斗の日課だった。
食事を始めて五分ほどが経っただろうか。
不意に、誰かが詠斗の肩を叩いた。
振り返ると、一人の女子生徒が見事な仁王立ちで詠斗を見下ろしている。詠斗は思わず眉を寄せた。
「なんだよ、怖い顔して」
「なんだよ、じゃないでしょ!」
女子生徒ははっきりと口もとを動かしながら詠斗を睨んだ。
「あんな自己紹介はやめてってあれほど言ったのに!」
「あぁ、そのことか」
詠斗はぽつりと漏らし、再び箸で弁当箱をつつき始めた。すると、女子生徒は詠斗の肩を掴んで無理やり自分のほうを向かせる。
「もうっ、どうして自分から壁を作るようなことを言うのよ?! 詠斗のほうからそんな態度とられちゃ、むしろみんな困るんだってば!」
「何が困るんだ? 厄介者には触れないのが一番だろ?」
「だーかーらー! どーして自分で自分を厄介者扱いするのっ」
「他にどうしろっていうんだ? 耳が聴こえない同級生なんて、厄介以外の何物でもない」
今度こそ女子生徒に背を向け、詠斗は唐揚げを一つつまんで口の中へと放り込んだ。
背後で腹を立てたまま突っ立っている女子生徒の気配を感じたが、振り返ることはしない。こうして待っていれば、向こうから自分の正面へと回り込んでくる。
五秒も経たないうちに、女子生徒はベンチに沿って詠斗の正面へと回り込み、そっとしゃがんで詠斗の顔を見上げた。ここまでは想定通り。しかし、女子生徒が紡いだ言葉は詠斗の想像から少し外れていた。
「……ちょっとは頼ってくれないかな? 私のこと」
少しだけ驚いたような顔をしながら、詠斗は喉を動かし口の中を空にする。
「クラス長なんて面倒な役回りに就いてまで、俺をどうにかしたいわけか? お前は」
「そういうんじゃないけど……」
そう。
この女子生徒こそ、詠斗の所属する創花高校二年二組のクラス長・萩谷紗友。
肩より少し長いくらいのつややかなストレートヘアに、くるりと丸い茶色がかった瞳。美人というよりは可愛らしい女の子というほうがしっくりくるようなやや幼げな容姿だが、クラスの顔としての見栄えは申し分ない。インテリメガネの出木杉君が先頭に立つより、こういう人懐っこそうな女子のほうが何かと受けはいいものだ。
「詠斗が少しでも過ごしやすいクラス環境になればな、とは思ってるよ」
そう言って、紗友は転落防止柵の際に腰を下ろし、校内の購買店で買ったのか、市販のメロンパンの包みを開けた。詠斗はまたひとつ息をつき、あと一口分の白飯と最後の一つになっていた唐揚げを一気に平らげた。
「前から言ってるけど、本当に心配してくれなくていいぞ? 俺のことは」
空になった弁当箱を片付け、詠斗はさっと立ち上がった。
「今の耳になってもう三年だ。余程困ったことがない限り、他のヤツらと変わらない生活を送れてる。俺は俺なりになんとかやっていくから。だからお前も……」
「――××××」
紗友の口元がもそもそっと動いたが、何と言ったのか読み取れなかった。すくっと紗友は立ち上がる。
「私の気持ちは、変わらないから」
真剣な眼差しで紗友は言う。詠斗もまた、その視線に応えるようじっと紗友の瞳を見つめた。
「それは俺だって同じだよ」
そう言った詠斗の頬を春の風がなでる。揺れた黒髪の隙間から、今はもう何の意味も為していない小さな補聴器がちらりとその顔を覗かせた。小学生の頃からの付き合いなので見慣れているはずだろうに、紗友の顔はわずかに曇る。詠斗は右手で髪を耳元になでつけた。
その時。
お願い、誰か。
「……え?」
詠斗は思わず声を上げた。
「詠斗?」
突然何かに驚いたような顔をする詠斗に、紗友は眉をひそめる。
誰か、誰か気付いて。
「……っ?!」
詠斗は目を見開きながら右耳の補聴器に触れた。
今――誰かの声が。
「どうしたの?」
紗友が何事かと覗き込んでくる。その声は、聴こえない。
「……なぁ、紗友」
「はい?」
「何でもいい、何か適当にしゃべってみてくれ」
「え?……あ、えっと……」
萩谷紗友です、と紗友の口は動いた。
もちろん声に出して言ったのだろうが、やはり何も聴こえない。
辺りを見回してみる。今この屋上にいるのは、詠斗と紗友の二人だけ――。
「ねぇ、詠斗……?」
「――聴こえた」
えっ、と紗友は目を見開いた。
「今……誰かの声が、聴こえた」
微かな唇の動きだったが、うそ、と紗友は言ったようだ。
「聴こえたって……本当、なの?」
「うん」
「……私の声は?」
「聴こえない」
「じゃあ……」
誰の――? と紗友は一歩後退った。
紗友がそう言うのもわかる。詠斗自身も聴き間違いを疑っているくらいだ。そもそも耳が聴こえないのに聴き間違いも何もないのだが、この際それは棚上げしておくとして。
「一回じゃなかった。二回……『お願い、誰か』『誰か気付いて』って……」
「誰か、気付いて……?」
紗友の顔がみるみるうちに凍り付いていく。
「ちょっと……ちょっと待ってよ……!」
「しっ!」
詠斗は人差し指を立てた右手を自分の口もとに持ってくる。紗友は瞬時に口をつぐんだ。
しかし、しばらくじっとしていたが、それ以上何も聴こえることはなかった。
「……だよな」
ふっ、と詠斗は自嘲的な笑みを浮かべた。
「ごめん、俺の勘違いだ」
そう言って紗友に背を向け、校舎内へと続く扉に向かって歩き出した。
すると、すぐにその肩を掴まれる。
「ねぇ、本当に聴こえたの?」
扉に背を向ける形で詠斗の真正面に移動した紗友は、真剣な面持ちでそう問いかけた。
聴こえた、と信じたかった。
この耳が音を聴く力を取り戻したのだと、そう思いたかった。
けれど、紗友の声は聴こえないし、聴こえたと思ったさっきの声だって、もう――。
詠斗は、首を横に振った。
「聴こえるわけないだろ?――俺は生まれつき、耳が不自由なんだから」
今度こそ紗友を振り切って、詠斗は校舎内へと向かって扉をくぐった。
紗友がどんな顔をしているのかは振り返らずともわかったけれど、深く考えることはしないでおいた。