制服のボタン ― 卒業式の日の想い出
長いこと勤めていた東京の会社を辞めた俺は、家業を継ぐために久しぶりに実家へ戻ってきた。そうして暖かい春の日差しを浴びながら、故郷の町並みを眺めて歩いていた。
よく買い食いをした駄菓子屋はコンビニに変わっていたが、本屋や文房具店は昔のままだ。屋台だったたこ焼き屋はちゃんとした一軒の店を構えて、お好み焼きと焼きそばも出している。
懐かしさと時の流れを感じながら歩いているうちに、中学校の前まで来ると、正門から黒い筒を持った生徒やその父兄たちがぞろぞろと出てきた。卒業式だったようだ。
はしゃいでいる姿、目に涙を浮かべている顔。生徒たちのさまざまな表情を見ていると、一人の生徒の母親らしい女性と目が合った。女性は俺に気づくと、懐かしそうに話しかけてきた。
「マサシさん、マサシさんでしょ?」
「え、ええ、そうですけど」
俺はちょっと戸惑った。その女性が誰なのかわからなかったのだ。だが、その隣にいる女生徒の顔を見て、ある人物に思い当たった。
「チ、チハル……?」
「いえ、妹のミハルです。この子は姉のチハルの娘で、チアキというの。秋に生まれたから」
「こんにちは」
チアキと呼ばれた少女はにっこりと微笑んでお辞儀をした。声も話し方も、顔や体型や動作も、中学生の時のチハルにそっくりだった。そのとき、俺の心の中に一つの懐かしい記憶が蘇ってきた……
***
ちょうど二十五年前、俺はこの中学を卒業したのだった。卒業式が終わったあと、同じクラスのチハルが話しかけてきた。
「ねえ、マサシ。あんたの制服の第二ボタン、譲ってくれないかな?」
思いがけなかった。俺はどぎまぎした。近くにいた友人たちはヒューヒューと囃し立てた。チハルはちょっと表情を強ばらせている。
「妹のミハルから頼まれたのよ。あたしは自分で直接頼みなさいって言ったんだけどね。照れくさいんだってさ。どうせあんたの制服のボタン欲しがる物好きな子なんて、他にはいないでしょ」
まわりでどっと笑い声が起こった。たしかに俺は女子にはまったく人気がなかったのだ。チハルと一学年下のその妹のミハルとは同じ図書委員だったのだが、俺はこの姉妹からは子分のようにこき使われていたのだった。
俺は気を取り直して、制服の胸の第二ボタンをブチッと引きちぎると、チハルの前に差し出した。
「ほらよ」
「あ、ありがと」
チハルは俺の手を握るようにしてボタンを受け取ると、さっと向こうを向いてスタスタと歩き去って行った。
チハルが俺の手を握ったのは、これがはじめてだった。頭をはたかれたり尻を叩かれたりしたことは何度もあったのだが。
その後、チハルと俺はちょっと離れた別の高校へ進学した。だから、街中で偶然出くわすことはたまにあったが、親しく話をすることはなくなった。
俺が大学進学で東京へ行ったあとは、チハルと会うことはなかった。チハルが地元で結婚したという話を風の便りに聞いたのは、俺が大学を卒業してしばらくたってからのことだった。
***
「チアキちゃんはチハルの中学生の頃にそっくりだね。チハルは元気にしてるの?」
何気ない俺の問いに、ミハルはチアキの方をちらりと見て、少し表情を曇らせた。
「三年前に亡くなったわ。乳がんだったの」
俺は言葉を失った。活発だったチアキの中学生の頃のさまざまな姿が目に浮かんできた。怒った顔や笑った顔。俺に対してはいつもガミガミとうるさかったが、それはそれでけっこう楽しかったのだ……
「お姉ちゃんは親が決めたかなり年上の相手と結婚したんだけど、その人には結婚する前から愛人がいたの。チアキが生まれてからも愛人宅に入り浸ってたから、とうとう離婚して実家に帰ってきたのよ」
「そうだったのか。苦労したんだね」
「そのあとすぐ、その人は愛人と再婚したんだけど、それから三年後に交通事故を起こして二人とも亡くなったわ」
「そうか、じゃあチアキちゃんにはもうお父さんもお母さんもいないんだね」
チアキは黙ったままうつむいていたが、やがて顔を上げておれの方を見て微笑んだ。
「でも今はミハルおばさんがいてくれるから、大丈夫です」
「実は私も五年前に離婚して実家にもどってきちゃって。でも子どもはいなかったから、家業を手伝いながらチアキちゃんの母親代わりをやってるのよ」
ミハルとチアキはお互いの顔を見合って笑った。俺はそんな二人を微笑ましく思った。
「せめてチハルの仏壇にお参りしたいんだけど、いいかな?」
「ええ、もちろんよ。お姉ちゃんもきっと喜ぶと思うわ」
こうして俺は二人に連れられて、チハルの実家へと向かった。
***
チハルの父親は自宅で税理士事務所を開業していて、家の前を通ることは何度もあったのだが、中に入るのははじめてだった。
座敷に飾ってあるチハルの遺影は静かに微笑んでいた。三十代半ばぐらいの写真で、その表情の中には人生の苦労を味わってきたような、深い悲しみを秘めた美しさがあった。
仏壇の前に座って両手を合わせ、故人の冥福を祈り、ふと前を見ると、見覚えのあるボタンが目に入った。中学校の制服のボタンだ。卒業式の日に俺がチハルに渡したボタンに違いない。
「これは俺が中学の卒業式の日にチハルにあげた制服のボタンだよね」
「そうよ。お姉ちゃんたら、とってもうれしそうな顔して帰ってきて、お守りだといってずっと肌身離さずに持ってたの。亡くなるときも、このボタンを握りしめてたわ」
はじめて聞く話に、俺は呆然とした。
「チハルは妹のミハルちゃんから俺の制服の第二ボタンをもらうように頼まれたって言ってたけど……」
「あら、あたしそんなこと頼んでないわよ」
俺とミハルはお互いに顔を見合わせた。しばらくしてミハルが言った。
「お姉ちゃん、マサシさんのことが、ずっと好きだったのよ」
「えっ、でも、だったらなんでそう言ってくれなかったのかなあ」
ミハルはしばらく黙ったまま考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「怖かったんじゃないかな」
「何が?」
「それまでのいい関係が壊れてしまうのが……」
たしかに俺はチハルとミハルの姉妹にガミガミ小言を言われたり、あれこれこき使われたり、イジられたり、ときには頭をはたかれたり尻を蹴られたりしたけど、俺自身もそんな関係が心地よく感じていたんだと思う。
「あたしもマサシさんのこと、好きだったんだよ。わがままをきいてくれるやさしい先輩への憧れだけどね」
「俺もチハルのこと、本当は好きだったのかもしれないな。もちろんミハルちゃんのこともね。やんちゃでかわいい後輩としてだけどね」
「でもあのころはそんなこと、口に出して言えなかったんだよね」
「そうだね。あの頃はあれで楽しかったし、幸福だったんだと思う。もうあの頃に戻ることはできないけどね……」
俺たちはしばらく沈黙した。そこへチアキちゃんが入ってきた。
「ねえねえ、ミハルおばさん。今夜はチアキの卒業お祝いにごちそう作ってくれんでしょ。一緒に買い物行こう。マサシおじさんもいっしょにいかがですか」
「えっ、俺もごちそうになっていいの?」
「ええ、そうしてくれたら、きっとお姉ちゃんも喜んでくれると思うわ。一緒に買い物に行きましょう」
俺は二人に連れられて、商店街へ向かって歩いて行った。はたから見ると俺たちは親子に見えるかもしれない。本当にそうだったらいいのにな。ミハルとチアキの楽しそうな表情を見ているうちに、なんとなくそんな気がしてきた。
過ぎてしまった過去へ戻ることはできないし、やり直すこともできない。でも、新しい未来を自分で作ることはできるんだ。
卒業式が終わったら、次は入学式がある。俺はさっき、自分の過去の人生を卒業したんだ。だから今夜は、未来の人生への入学式にしよう。
俺は心の中で密かにそう思ったのだった。