176話 なお、ヒノでも2トンでもないけどとんとんするとする
自分を轢く為に向かってくる車と対峙したことのある人って、
世界の人口の何%くらい存在するのかな。おそらくかなり低いだろう。
っていうか映画とかでしか見た事ない、そんなの。
でも、たった今、クラスメート二人がそんな目に遭っている。
二人がいくら強いと言ったって、スピードはあのバグには敵わないだろう。
バグはこちらがアームズを呼び出すのを待っていたのか、
二人が構えてから勢い良くタイヤを回転させた。
立ち上がりが異様に早い。車からすれば二人までの距離はさほど無かったはずなのに、
あのバグはすぐにトップスピードまで加速して、二人めがけて突進した。
『うーん、当然だけど、攻撃は単調よね』
『うん』
菜華と井森さんはそれぞれ逆方向に避ける。
バグはその間を通り、すぐに急カーブを切って、再び二人と向き合った。
『先手どうぞ』
『分かった』
二人同時に動けばいいものを。なんでターン制にしてるんだ、こいつらは。
随分余裕だな、というのが私の正直な感想だ。
しかし、私はこの認識が間違っていたことを痛感する。
『というわけで。ちょっと危ないけど、仕方無いわよね』
井森さんはバグに向かって走り出した。
どうでもいいけど、あのハンマー重くないんだろうか。
いや、絶対重い。あんなものを軽々と持って走れる井森さんヤバい。
距離を詰めるというのは一見無謀に見える戦略だったが、
バグが加速しきる距離を与えないというのは存外賢い選択だったようだ。
バグは距離が縮み過ぎることを嫌い、バックで井森さんとの距離を取った。
ちなみに、私はあんな爆速でバックする車を生まれて初めて見た。
そこで井森さんが何をしているのかようやく理解した。
おそらく、彼女は菜華の為におとりになっているんだ、と。
確かに、走りながらギター弾くのは難しそうだしね。いや、できるのかもしれないけど。
ただ、弾きやすいか弾きにくいかで言えば、絶対後者だろう。
やだな、「え? 私ギターは走りながらの方が弾きやすいよ?」とか言う人いたら。
バグのエンジン音とは別の音が響く。言うまでもなく菜華のギターだ。
バグの反応を見ながら、色んな音を試しているようだ。
本人は真剣なんだろうけど、やっぱり菜華の攻撃は見ていて楽しい。
ジャッジャッと短く音を切ったり、ジャーンと伸ばしてみたり、
音だけじゃなくて弾き方にもバリエーションを持たせているようだ。
そうして結論が出たらしい彼女は、普段よりも少し大きめの声で、井森さんに言った。
『効かない』
井森さんはバグと追いかけっこを演じながら、あらと悠長に返事をしてみせる。
菜華の攻撃が効かない敵はたまにいる。
知恵と組んでいれば、他にやりようがあったのかもしれないけど、彼女の今の相方は井森さんである。
口惜しそうにする菜華だったが、いつまでもこのままでは居られないと思ったのだろう。
彼女は井森さんにある提案をした。
『どこかにダメージを与えて欲しい。そうすれば』
『分かったわ』
井森さんは菜華の言葉を遮って了承した。
でも、スピードは井森さんよりもバグの方が上だ。一体どうするつもりなんだろう。
若干息が上がった井森さんと、十分に距離を取れたバグは、
待ってましたと言わんばかりに前進した。
井森さんは横に飛び退いたが、その瞬間、なんと運転席のドアが開いた。
咄嗟にガードはしたようだが、容赦なく向かってくる車の一部が体に触れたのだ。
いくら井森さんでも、無事では済まなかった。
「おい、井森のやつ、ヤバいな」
「分かってるよ。志音じゃないんだから、ドアとはいえ、車に当たるのはね」
「いやあたしでも車とぶつかったらヤベェよ」
「言われてみればそっか。修理費用負担とか、そういう話になったらヤバいよね」
「車側が破損する前提で話すな」
私達はモニターを見つめながら話をする。
井森さんは車がターンをする前になんとか立ち上がり、そして呟いた。
『よく分かったわ』
こわい。目が完全にキレている。なのに口は笑っている。
そんな現場見たことないし見たいとも思わないんだけど、
あの人は殴り合いの喧嘩の最中、笑うタイプの人だと思う。
上手く言えないんだけど、そういう表情をしている。
勝てるもんならやってみろと言わんばかりに、バグはまた井森さんに向かっていった。
菜華も固唾を飲んで見守っている。ギターを肩からかけて、
真剣にクラスメートが車に轢かれそうになっている現場を見つめている。
すごいシュールな光景だな。
先程と同じように、井森さんは横に飛び退く。
さらに同じように、車のドアが開かれた。
このままではさっきと丸っきり同じだ。
『今!』
井森さんは跳んだ状態で体を捻ると、ハンマーを横に凪ぎ
それは見事にドアのミラーをブチ折り、そのままの勢いでガラスを叩き割った。
華麗に受け身を取って立ち上がる。
ドアガラスの枠に持っていかれてしまったハンマーの呼び出しを解除し
手元に戻すと、彼女は笑った。
『これでおあいこね』
その瞬間、「いもりさんこあい」という声が聞こえた。
おそらく戻ってきた生徒のうち、半数以上は彼女達のバトルを観戦している。
声の主を探るようにきょろきょろしてみると、すぐ近くに青ざめた顔の八木くんが居た。
あぁ戻ってきてたんだ。
八木くん……そういえば井森さんのこと好きだったんだっけ……
うん、この人ね……実を言うとかなりイケイケの暴力マシーンかつ節操無しのレズなんだよ……。
バグは自分の体の一部を壊されるとは考えていなかったのか、
驚いた様子でバンパーをへにゃっと曲げていた。なにそれかわいい。
急にコミカルな動きを見せたバグにうっかり萌えてしまったけど、
彼女達の脅威はまだ過ぎ去っていない。
何せあのバグの足となるタイヤ部分は平気なのだ。
あんなスレスレのカウンターを何度もキメるわけにはいかないだろう。
ヒヤヒヤしていたのも束の間、再びギターの音が轟く。
ガラスにミラー、大きなダメージはそこだけだが、他にもハンマーが当たった衝撃で
ドアのボディは所々塗装が剥げたりしていた。
さきほどとは明らかに反応が違う。
菜華はバグのヘッドライトあたりを睨みながら、左手を弦の上で滑らせる。
たまに”キィッ”と音が鳴って、なんかかっこいい。
菜華の演奏に気を取られていたが、気付いた頃にはバグの動きが完全に止まっていた。
バグは不安定なエンジン音を吹かしながら、金縛りのようにその場から動けずにいた。
『あら。足止めだけ?』
『十分だと思うけど』
『そうね。この上なく、上等だわ』
井森さんは満足そうに、ハンマーを担ぎ直した。
ゆっくりと、あくまでお上品にバグに近付いていく。
私と志音はその光景を固唾を飲んで見守っていた。
クラスのみんなは井森さんがどういう人か分かんないでしょ。
大体なんとなく察したって人もいるだろうけど。
あのね、あの人ね、ドア開いて攻撃されたの、絶対めちゃくちゃ怒ってる。
小癪な真似しやがって、くらい思ってる。
あそこまでガチめのダメージを、クラスメートの誰かが負うところは初めて見た。
そういう意味でもかなりびっくりとしたと言えるんだけど、さらにあの井森さんが
ダメージを負ったっていう、上手く言えないけど二重のショックがあったりする。
『はぁい。じゃあ、とんとんしましょうねぇ』
バグの斜め前に立つと、井森さんは笑顔でハンマーを振りかぶる。
もう発言が既に怖いんだけど、それは置いといて。
とんとんということは、じわじわ嬲り殺しにしていく、ということだろうか。
ボンネット辺りに鉄槌が下るのかと思いきや、ふわっと頂点まで
振り上げられたハンマーが襲ったのはフロントガラスだった。
派手な音が鳴って、多少の騒音は覚悟していたというのに、体がびくっとなる。
音にびっくりして、実習室中が少し静かになった気がした。
そうして、当然というべきか、一発でガラスは粉々になった。
フレームに破片すら残っていない。怖い。
あと菜華が弾いてるギターのフレーズが今回ちょっと怖い感じなのも相俟って、本当に謎の迫力がある。
井森さんの笑顔は、「こんなものでは終わらない」とでも言いたげだ。
笑顔でドアハンドルに手をかけると、その表情が少し曇った。
最後の車の抵抗か、どうにもドアが開かないらしい。
『あらぁ。ドアが開かないわねぇ……叩けば直るかしら?』
そうして繰り出されるのはハンマーの怒濤の連撃。
もうそれ直そうと思って叩いてないでしょ。
鋼鉄のボディに打撃を弾かれては、その反動を利用して新たな一撃の初動に変える。
踊っているようにも見えるくらい流麗な動きに思わずうっとりしそうになる。
おかしいよね、やってることはハンマーでボコボコにしてるだけなのに。
耐えきれなくなったのか、それとも単純にロックの機構がイカれたのか、
遂にドアは観念したようにがちゃりと開いた。
扉が開いた瞬間、井森さんのジャイアントスイングのような一撃が、
開き切ったドアの内装側を直撃する。
想定外の負荷をかけられたためか、遂に運転席のドアは空にアーチを描いて宙を舞い、
重厚な音を立てて土まみれになった。
「攻撃されて車のドアが取れるところ、格ゲーのボーナスステージ以外で初めて見た」
「奇遇だな、あたしもだ」
妙なBGMを背に、笑顔で車を破壊していく女の姿はとにかく異様だった。
私達が再び声を発する前に、車のバグは完全にモザイクとなって消えたのだった。