錆びた香り
飽きもせず繰り返される日常に、飽きた。この存在は、既に異端だったろうか。追ってくる諸々に押し潰されそうだと思ってしまった。日常が、重かった。それが、非日常を求めた理由なのである。特別なものは何も持たず、ふらりと気の向くままに歩いた。わざといつもと違う道を歩き、いつもと違うことをした。
きっかけは運だった。運がなければ、そんなことを実行に移しはしなかった。猫だ。まだ小さな猫が四匹、駅から程近い空き地に丸くなっていた。
駅前通りを1本入った道は真っ暗で、斜度の高い上り坂になっている。そこに、近寄らないと草で埋もれて見えない、猫を見つけた。そこが空き地であったのが、良かった。俗に「猫じゃらし」と呼ばれる草を引き抜いて、茶トラの前にぶら下げる。ゆらゆらと、暗示を掛けるように揺らす。
たっぷり十五分は潰したと思う。
そして、その間二度ほど猫の鋭い爪の餌食になった。僅かに三十センチメートルの距離で見た猫の双眸は酷く澄んでいて、恐ろしかった。それで、逃げ出すように空き地を離れた。
何の面白味もないいつもの道を死んだような目で眺めて歩いた。
橙色の、寿命の切れて点滅する街灯が、パチン、と音を立てる。
道を示す青い看板が、橙色の光に照らされて黒い。
10階はありそうなマンションが並ぶ通りにぽかんと在る空き地は光が届いてすらいなかった。
24時間営業の、店員すら見えない真っ白な灯りのコンビニを無視して歩き、所々プラスチックが剥がれ落ちているバス停の表示を蹴り飛ばして、視線を上げる。すると、その視界の中に、ふと、未だ一度も入ったことのない公園が、異様な存在感を帯びて在った。広い場所だった、月がよく見える場所だ。
そこで、子供でもないのに、と思考とは裏腹に、近くで砂を踏む音がした。じゃりっ。奥に鉄製の三角形が見える。かつて一番好きだった遊具・ブランコに無意味に腰掛け、頭上を仰いだ。――何も無かった。
唯、曇天が広がっていた。重く、広く。
そして幼かった頃のように、大きく、大きく両足を揃えて漕いだ。一瞬、視界からしがみついていたものが消える。このまま、解き放たれるように飛んでしまいたかった。
そう長いこと居座った訳ではなかったが、ブランコから降りたとたん、猛烈な吐き気がした。酔った。両の手のひらからは、錆びた鉄の香りが濃く漂っている。普段から小説を読み耽っているせいで、容易に「血」を連想した。とにかく、気が重い。
再び、暗い道を歩いた。道幅が狭くなり、電灯も減る、暗い夜道。このまま旅でもしていたかった。ふらりとどこへでも放浪して、消えてなくなりたいとすら思った。誰にも知られないまま。それが自分にとっては幸せなのだろうと、本気で思っていた。憂鬱。歩みを止めなかったことが、今となっては不思議な話である。
坂の頂上に、眩い電灯が立っている。橙の灯が、眼を刺した。心なしか、暗鬱とした光である。いつも通りすぎるその電灯の下を、いつもと違う無感情の心地に、足早に去った。風が頬を切った。
ふと、視界が霞む。
何故だろうか、泣きたかったのだ。痛いほど冷たい風に吹かれて、全てを忘れるために泣きたかったのだ。そう思ったのは、
「世界を楽しめなくなったら、君は終わりだよ」
と言われたことを思い出したからなのか。
とっくに日々に飽きてしまった、そんな姿を見透かされたらしいと思った。ミュートにしていた携帯を見る。白い光が、無機質に電灯の灯りをぶち壊す。メールのアイコンが落ちてきた。新着の合図である。メールを開くと、不運を呪おうかと思う羽目になった。泣きたかった。
ある少年からのメール。
「君は、どうせ生きることに飽いているんだろ?終わりにするのも、一つの選択肢じゃねえの?なんでそう惨めに逃げ回るんだ?意気地がないのか?」
なんてことを言うのだ。悪意なのか。そう思って逃げたかった。だが、逃げられようがなかった。そんなことは、そんなことはわかっている。とうの昔に自問していることなんだ。
「君はきっと、泣きたいんだろう?」
その一文に、はっとした。理解者が現れることは、本当に救いなのだと、純粋に思えた。
少しだけ、訳のわからない上機嫌に浮かされながら、暗く細い道を抜ける。わざといつもと違う道を選んだ。風が冷たい。広く、人通りがない道。隣を高速が通っているせいで煩い。
上機嫌だったはずなのに、楽しめない、終わりが来ているような気がする、それで荷物が重く、肩が痛い。結局は同じ思考に囚われて鬱々と歩いた。上り坂。気が重くなっていく。
家ほど休むことのできない場所は、この世にそう多くないと、自分の家を見上げて思った。
旅に出たかった。家に縛りつけられていることも知りながら、不可能なことこそ願う不可解な自分に苛立った。
がんじがらめ、頸が絞まりそう。昏い夜空に、窓灯りが痛々しい。風が冷たい。どこにも痛みが溢れていた。それでも痛みに溢れた日常を繰り返すしかないことに、薄い刺激を求める日々に、やはり飽いたままだった。
はじめまして、あるいはお久しぶりです。
暗い夜道を歩いていると、ふと、いつも見ない景色が見られる気がします。幻覚かもしれませんが。
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