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-26sone 無題


 これはたぶん夢だ。

 かけい清高きよたかは過去の扉に寄り添って目を閉じた。



 なぎが『凪』ではなくてよかったと思う。

 自分の名前の元になったあの絵と繋がりを持ちそうで怖かった。

 周りからはミドルネームのマリカで呼ばれていることを知っていたが、行き場を失くした自分に、椛という短い音がよく馴染んだ。

「清高! 髪乾かしてあげるから部屋に来て」

 どうせ今夜も強制連行されるけれど、抵抗をやめてはいけない。

「放っておいてくれ。ドライヤーうるさくて嫌いなんだよ」


 青空に届きそうな中等部の屋上で、椛といろいろな話をした。

 親友が休学して旅に出てしまったので、以来クラスの女子とは馴れ合わずに過ごしているらしい。

 学園内で無関心を貫いていた自分は頑なに口を利かないことで、使途不明な集団心理から距離を置こうとしていた。

「男子ってケンカとかしないの?」椛は手摺の向こうに両腕を出して、風をかき混ぜようとしている。

「俺は別に」

「ふうん。でも突然絡まれるかもしれないでしょ? 『おまえ隣のクラスの進藤の母親に色目使っただろ』って殴られたり」

 架空の展開が酷すぎる。

 振り返った椛の、悪戯な笑顔に降り注ぐ午前最後の陽射し。大人っぽく左右に分けた髪がキャラメル色に透けている。

「午後の授業レポートにして映画行くけど」

「わたしも行く! 作ってくれたパン、公園で食べていい?」

「やめろ。変な鳥集まってくるぞ」

「みんなにも食べて貰ったら? パン屋さん開くならファンは多い方がいいじゃない」

「そんな未来まで俺生きてないから大丈夫だ。いきなり飛んだりするファンいらねえよ……」



 椛は放課後、ときおり隣市のフリースクールに足を運んでいる。

 どういう経緯で知り合ったのか、一学年下の女の子と友だちになったらしい。

 そしてある日、その子の兄に拉致され、街外れの廃屋に監禁された。

 後から聞いた話によると、彼女を攫った男は、少女への興味関心で三度も法を犯した危険人物だ。

 椛が帰らないとの報せを受け、思いつく限りを捜し回ったが、時計の針が深夜に傾いた頃、セルラに連絡があった。

 誰もいないはずの廃屋に灯りが点いていることを訝った近隣住民が中を覗き、椅子に縛られている椛を発見したという。

 無傷で解放されたものの、この出来事が墜劇の序章となった。

 ニュースに取り上げられ、学園内で妙な噂が広まったけれど、犯人とその妹からの謝罪を受け、椛は許すと言った。


 なのに事件から数日後、玄関前に積まれた9つの木箱。

 嫌な予感があり、椛を遠ざけて蓋を開くと、雑に切断された紫色の人間が入っていた。

 椛を連れ去って監禁した男だ。至近距離で頭部を確認したが間違いない。逮捕の現場に居合わせたので人相を憶えていた。

 直ちに通報したけれど、何日待っても不可解な惨殺体について報道されることはなかった。

 殺害現場も動機も手段も謎のまま。奇妙な点が多く、捜査自体が行われていないのではないかと疑念を抱きたくなる。

 その頃からパトロールと称して、陽気な警察官が姿を見せるようになった。

 親しげに椛を『マリカちゃん』と呼ぶ。

 直感で裏があると気づき、椛から目を離さないよう神経を尖らせていた。

「ねえ。清高に借りた本、気に入ったから返さなくていい?」

「好きにしろ。今それどころじゃない」



 広崎ひろさき夫妻の留守を、奴らはどこで知ったのだろう。この日、椛の両親は遠縁に不幸があり、しばらく外泊すると言って家を空けた。

 小さな灯りを頼りに、無音の部屋で欠席分のレポートを書いている最中さなか、侵入者の気配に緊張が走る。椛が狙われていることは承知していたが、まさか今日だとは。

 ドアの隙間から窺うと、階段を上り終えた男たちが真っ直ぐに彼女の部屋へ向かっていくのが見えた。6人だ。

 今さら遅いが裏口の鍵を強化しておくべきだった。

 とにかく椛を逃がさなければ。

 部屋を見回したが、武器として使えそうなものが傘と万年筆しかない。

 通報するだけ無駄なことはわかっていた。むしろ予後が悪くなる。

 傘を掴んで薄暗い廊下に出ると、男たちが一斉にこちらを向いた。

 2名だけを残して内側から施錠された扉を蹴破ろうとしている。

「椛! 窓から逃げろ!」

 殺意を振りかざして迫り来る男の片方が、巡回を装って接触してきた警察官だった。顔を隠していないということは、目的を遂げ次第椛も殺すつもりだったのか。

 必死に攻撃したが激しく殴打され、壁に叩きつけられたときには視界が斜めに歪んでいた。

 部屋で椛が叫んでいる。彼女の声と、逆上した男の怒声が交互に響いてくる。

 椛は戦うつもりらしい。逃げて追いつかれるよりは賢明な判断かもしれない。

 口の端から滴る血を拭って身を起こした刹那、ナイフの切っ先が首に触れた。

「……殺せよ早く」

 驚くほど冷めた感情だ。ついでに嘲笑ってみた。人質にだけはならない。

 その代わり、生贄には喜んで志願する。祈る宛てはないが、自分の命と引き換えに椛を救ってほしい。

 覚悟を決めた直後、ドアが開き、静寂が破られた。

「清高から離れて」

 ネグリジェ姿の椛が、剣のようなものを手にして廊下に立っている。あれは初等部の卒業式翌日に解体したベッドのパーツだ。

 彼女はどこか虚ろな様子でこちらへ歩いてくる。

 鈍い月明かりに浮かんだ色を見て息を呑んだ。

 胸の周辺に何度も刺された痕がある。黒っぽく滲む飛沫と、交錯する生血の線。

「椛……」

 異様な光景に衝撃を受けたのか、こちらを担当していた男たちも微動だにしない。

 近づいてきた椛の左手の指が不規則に途切れ、刃の欠けたフォークを連想させた。そこから真っ直ぐ、か細い滝のように血が流れている。皮膚一枚で繋ぎ留められた薬指が震えながら揺れている。

「おい、来るな! 止まれ!」

 錯乱して襲いかかった男を、椛は鋭い動きで仕留めた。もう一方の警察官は多少の心得があったようだが、あっさりと脚を折られて敗北した。


「しっかりしろ」

 力なく座り込んだ椛を抱き寄せたとき、玄関の辺りから話し声が聞こえ、予定より早く帰宅した広崎夫妻が灯りを点けた。

「大丈夫か……」

 俯いたまま、椛は改心した非行少女のように笑った。

 耳の下から頬にかけて派手に切りつけられている。

 4人がかりでナイフまで使い、穢れた欲望に服従させようとしていたのか。

 もう限界だ。

 外の物置に工具がある。6人殺しても壊れないくらい、頑丈で力強いハンマーだ。

 父の遺品のコートはどうだろう。6人絞め殺しても破れないくらい、丈夫で頼もしい布のベルトがついている。

 仲間を担ぎ、足を引きずって逃げていく奴らを追いかけて自由に殺そうと思ったが、椛にやめてと止められ、凍っていく殺意を手の中に隠した。

「清高……。どこにも行かないで」

 恋人同士みたいに身を寄せるのは、これが最初で最後だ。肩に置かれた椛の指から血が伝い、背中に審議の日付を残していく。

「……ひとり殺した。でもわたしは、自分が死ぬその日まで戦い続ける……」


 椛の両親は娘の惨状にショックを受け、彼女を海外に移すため国外へ転居した。

 一緒に行くよう説得されたが頷けるはずもなく、時機を待って寮のある高等部に進学した。

 ――元凶は俺だ。

 あの夜、レポートを書くからひとりにしてくれと言って部屋に帰さなければ、椛は指が欠けることも、白い肌に傷をつけられることもなかった。

 広崎家が海外に発つまでの数日。少しずつ笑わなくなって、ぬいぐるみを抱えながら部屋の隅で蹲っている彼女を見て、制止を振り切ってでも奴らを殺さなかった自分を責めた。

 痛みが鎮まれば平気だと言っていたけれど、開いた自分の手から指がいくつかなくなっていたらと思うと辛くて堪らない。

 椛とは、別れの言葉も、再会の約束もないまま離れ離れになった。

 謝罪の手紙を送った後、返事を待たずに連絡を絶ってしまったので、彼女と広崎夫妻がどうしているかを知る術がない。

 初めから本当の家族ではなかった。契約が切れて元に戻っただけだ。

 だから、爪を素早く剥がしたり、泣きながら薬を飲んで血を吐いたりする必要はない。



 貰われていった『Tactics』の下巻が今も空白のままだ。

 悲しみは複雑で、幸せはとても脆い。

 椛の存在を思い出したとき、静かなやさしさに励まされて、緑地公園のベンチで酩酊している誰かに手を差し伸べたくなる。



                                 -26sone end.


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