-24sone 無痛
忙しない足音。身体の上を往復する血腥い単語。
少し前まで森にいたはずが、いつの間にか冷たい台に寝かされていた。
この消毒された空気に覚えがある。けれど幻覚かもしれない。
先ほどから半分眠っているような、鈍い曖昧さの海を漂っている。
これで何度めだろう。望んでいないのに救われるのは。
筧清高は小さく唇を動かした。
――……俺が俺に言ってるんだ、諦めて死んでくれって。
目覚めたことに気づかれたのか、こちらを見下ろしていたマスク姿の男と視線が合った。
「カケイ、キヨタカ君だよね」
親しげな口調だ。何を企んでいるのだろう。感情を読まれているのを察して、警戒せずにはいられない。
「十並は……? 呼んで、……えませんか」
深く息を吸ってもあまり声が出ない。全身が怠く、思考も分断されて、自分がまともに話せているか自信がなかった。
「同意書にサインしてくれた子かな。ごめんね、今は無理だよ」
医者らしき男が、目元に宥めるような笑顔を見せる。
マコトに何かあったのだろうか。
無事を確かめたかったが、得体の知れない虚脱感に打ちのめされて腕を動かすことすらできない。
頭の方に立っていた別の男が突然、大きな手鏡を翳してきた。
「君が思ってるより酷い怪我してるよ」
嘘ではなかった。笑えるほど青褪めていて、額の右上に傷がある。皮膚の谷間を縫い合わせるつもりなのか、邪魔な前髪がファンシーなクリップで留められている。
鏡に映った自分にはさほど驚かなかった。これまでに見てきた死体の切り口を思い出すと、些細な掠り傷に感じて可笑しくなる。
もう充分だ。
これ以上は何も抱えられない。殺すのが無理なら死ぬまで放っておいてほしい。
黒く霞む線路のような殺意を必死に支え続けてきたけれど、自分のしたことが世間に受け入れられるとは初めから思っていない。
「事情は後で聞くから頑張りなさい。生きていればお友だちにもまた会えるよ」
抵抗したが返事はなく、頭上で交わされる遣り取りと絡むように意識が崩れていく。
「……俺は、死んではいけないんですか」
闇の底に墜落する間際、誰かがそっと指の先を握ってくれたのがわかって悲しかった。
・
『清高は幸せになれない』と言い切った椛の、やさしい輪郭を忘れたくなかった。
今、虚ろな夢の中で、頑なに閉じ込めていた過去を手繰り寄せようとしている。
海外のあたたかい島に別荘があった。
父の知り合いに招かれ、退屈なホームパーティに参加した帰り、森の中腹へ向かう寂れた夜道で車が停まる。
ハンドルを握っていたのは父だ。
後部座席で眠りかけていたが、普段とは違うブレーキの踏み方にぞっとして目を開けた。
助手席の母が短く悲鳴を上げ、父の腕に縋りついている。
焦りながらフロントガラス越しに外を見ると、上着のフードで顔を隠した男が交通整備のように道路を塞いでいた。
斜め前方に停められていた古い乗用車から仲間らしき人物が降りてくる。
怯える母を労り、「戻ろう」と口にした父が、ミラーを睨んで眉を寄せた。
僅かな隙に前後左右を囲まれ、逃げたければ轢き殺すしかない。
敵は、こちらがそうしないことを見越した態度だ。
父は窓を開けず、現地の言葉で問いかけた。
「要求は何だ」
正面に立っていた男が、罰ゲームだ、と嘲るように笑った。
ガラスを割られ、路上に引きずり出された父がバットで殴られている。
セルラで通報しようとしていた母も暴力の餌食になり、口から血を流したままブラウスを破られている。
時間が消えた気がした。窓の外を写す撮影機のように身体が動かない。
不意にひとりの男がこちらを向いた。子どもが乗っているとは思わなかったという表情だ。軽やかな足取りで後部座席へ近づいてくる。
「清高ッ!」
母の叫びで状況が伝わったらしく、地面に倒れていた父がふらつきながら駆け出し、男を突き飛ばして馬乗りになった。
泣いていた母も激しく暴れ、別の男に掴みかかる。
しかし弱りきった父と母が4人を制圧できるはずもなく、すぐに振り払われて血の匂いが漂うほどに虐げられた。
醜い腕に捕えられ、気がついたときには、残酷に破壊され果てた両親とひと纏めに縛られていた。
男が中身を抜き取り、父の財布を茂みに放る。
もう自分たちに用はないだろう。
死を覚悟した刹那、聴こえてきた走行音。
眩しすぎるライトから目を背ける。
敵は、偶然通りかかった車を次の標的に定めたようだった。バットを掲げ、距離を詰めていく。
警察ではなさそうだ。こちらの惨状を見て、直ちに引き返してほしかった。
思いがけずドアが開き、車内から自分と身丈の変わらない子どもが飛び出してきた。
「マリカ、待ちなさい!」と母親らしき声が引き留めている。
彼女は長い棒のようなものを手にして走り出した。何をしたのかはわからないが、側を駆け抜けた瞬間にバットの男が崩れ落ちる。
数秒で決着がついた。
慌てた様子で車から降りてきた人物を、彼女はパパ、ママと呼んだ。
ぬるい夜風に運ばれ、彼女の父親がセルラで通報している声が耳に届く。
なぜ擦り切れるほど願っても、この場で命を終えられないのだろう。
もう限界だ。
生き残ってしまった自分が、人生の最後までこの記憶を抱えていかなければならないことに、精神が歪むほどの恐怖を感じていた。
「……大丈夫?」
少女が屈んで問いかけてくる。生まれた国の懐かしい言葉だ。
彼女は栗色の真っ直ぐな髪をしていて、とても綺麗だった。
「わたし、椛・マリカ・広崎。あなたは?」
余罪だらけの夜盗4人は逮捕され、間もなく死刑になった。
当時、椛も、彼女の父と母も口にしなかったが、自分の両親はすでに路上で殺されていたのだと思う。
帰国後、部屋が空いているからと誘われ、椛の家で暮らしていた。
提供されたのは、行方不明のまま見つかっていない彼女の兄の部屋だ。
たとえそれが、喪失を埋めるための親切だったとしても構わない。
椛は妹のようでもあり、かけがえのない戦友でもあった。
彼女の家の、昼の空に似た空気をよく憶えている。
差し伸べてくれた手に今も感謝しているけれど、生まれてこなければよかったと思わない日はなかった。
いつかの夜、襲われている自分を助けてしまったことが、後に広崎家を悪夢に突き落としたのは間違いない。
マコトにだけはすべてを話しておくべきだったと後悔している。
あの頃、意味もなく大人になりたがっていた自分は、コンクリートの壁とひとつになれるくらい冷めた灰色だった。
-24sone end.




