-22sone 無化
筧清高は額の汗を拭い、来た道を振り返った。
歪んだ歩道が暗がりに呑み込まれて死んでいる。
辺りには風もなく、不思議と心は静かだった。
莉保はどうしているだろう。諦めなければならないのに考えてしまう。
昼の休憩時間に訪ねたとき、これが最後だと自分だけが知っていた。
点滴が終わったことを報せたくてカーテンの囲いを出ると、彼女は幼さの残る女子学生みたいに長椅子で眠っていた。患者が増えずに退屈していたのか、寝る直前まで針傷用の絆創膏にペンで顔を描いていたらしい。
――采生先生……。
心の中で、別れの言葉を口にしなくて済んだことに安堵した。感情を取り繕うのがあまり上手くなくて、いつもと変わらない姿で部屋を出るのは難しいと思っていた。
ありがとうと言う代わりに、他の絆創膏に目と口を描いて莉保の手に貼り、彼女のスマイルを1枚貰う。
人の素朴な可愛らしさは甘い毒と同じだ。また触れたくなって、少しずつ、けれど侵されるように、ひとりになるのが怖くなる。
扉の前で肩越しに振り向くと、閉じたままの莉保の睫毛の縁から涙が細く伝っていた。
普段通りの会話しかしていないのに、これが最後だと、彼女も気づいていた。
・
端末で奴らの動向を確認した後、再び陸橋を目指して歩き始める。
窪んだ空き地に乗り捨てるようにして置かれていた遺体運搬用の車。その曇ったフロントガラスに『事件の証拠を引き渡す』とだけ記し、時間と場所の指示を加えた。
細工を疑って徹底的に調べただろうが、車を替えたりはしていないはずだ。発信機の光が順調に橋へ向かっている。
問題は、全員で現れるか否か。ひとりでも逃がすと処理が面倒だ。闇に沈む足元を見つめながら、欠席者が出ないことを願った。
もうすぐ陸橋に辿り着く。一度も名乗る機会がなかったので、あの者たちからは残虐事件を追うルポライターか何かだと思われていそうだ。
罠にかけられたと知ったら驚くだろう。反省と謝罪は最初から要求していない。
ポケットに入れた小さな装置を指の先でなぞる。押せば自分も終わりだ。
暗さと溶け合って、夜の静けさの中で死ぬことを喜びたい。二度と開かない物語に閉じ込められた気分だ。自分が感じてきた人の生は悲しさと痛みに満ち溢れ、降り出す前の薄青い空のようだった。
マコトと、スコールに怯える街を走り抜けた日の情景が懐かしくて苦しい。
見るからに廃れきった橋の欄干から身を乗り出して、真下に横たわる靄を眺めていた。
遠くから奴らの車が近づいてくる。周囲を警戒しているらしく、完全に無灯だ。窓から微かに漏れ聴こえる重低音。理解不能な笑声。存命メンバーは全員出席のようで安心した。
今も、身分を明かして殺意を顕わにすべきか迷っている。優柔不断な自分を見つけたばかりだが、間もなくお別れだ。
ふと腕時計に意識が向く。長いこと陽に当てていなくて充電が尽きかけていた。
もし動いていたら、奴らと対面する。停まっていたら何も告げずに殺す。
袖を捲って文字盤を見ると、秒針はもう時を刻んでいなかった。
これでよかったのだろう。言葉の通じる相手ではない。
元の山道に戻って橋を明け渡す。破滅への直通ルートを開放した。
車体が陸橋の半ばに差しかかったのを合図に、スイッチに指を置く。
「清高っ!」
幻聴なのか。頭がいかれたと思いたい。
清高、と再び叫ぶように名を呼ばれる。
血の気の引く感覚。想定外の事態だ。タイミングが悪すぎる。
前方から響くタイヤの軋みで、奴らのしようとしていることを察知した。
「十並! 避けろ!」
事態を呑み込めていない様子で立ち止まるマコト。
だめだ。間に合わない。
アクセルを踏み込んだタイヤの速度に敵うはずもなく、捨て身で庇うのが精一杯だ。
力の限りにマコトを突き飛ばす。
迫る車体。圧縮されるような衝撃に痛みはなかった。
身体が宙に浮く。
ガードレールに激突した瞬間の硬い質感。
「……っ」
起き上がろうと、乾いたアスファルトに爪を立てる。
――十並……。
ダメージを受けたのか、あちらも地面に倒れている。逃げろと警告したかったが声が出ない。
マコトはふらりと上体を起こしてこちらを向いた。頬に血が滲んでいる。彼の浮かべた悲愴的な表情で、自分が瀕死の重傷だと悟った。
「清高。……今助ける。待ってて」
刹那、奴らの車がタイヤの軌道を修正し、照準を合わせた。
目の前でマコトを轢き殺すつもりだ。
転がった装置に手を伸ばす。届かない場所に行っていなくてよかった。
奴らはこちらを見ているだろう。見ていないはずがない。見てくれていると信じた。
最高に蔑んだ笑みを浮かべてスイッチを押す。
一瞬で、加速した黒い車体に淡い紫のベールがかかった。進路が斜めに逸れる。
マコトは熱風から顔を背けるようにして屈み込んだ。
鮮やかな色を纏ってガードレールを突き破り、車体が崖下に傾れていく。
フロントガラスに呼び出し状を書いた際に、時間をかけて合成した高レベル可燃物質を、執拗に何度も隅々まで丁寧に隙間なく吹きつけておいた。
妖精の羽に似た紫の光。人に成り済ましていた奴らには勿体ない最期だ。
・
マコトが、ちょうど車1台分をロストしたガードレールに近づいて下を覗いている。
やがて冗談めかした困り顔で引き返してきた。
「アイスみたいに溶けてる。絶命っぽいね。呪われたらどうしよ」
彼はアスファルトに膝を着き、軽やかな笑みを作ったまま汗を流して喘いでいる。
「……平気か?」
「全然だよ」
マコトの、必死に恐怖をはぐらかしているような落ち着き方が不安をかき立てる。
「悪かった……」
「妙に素直じゃん」
言いながら彼は、唇に入りかけた血を袖口で拭った。
「話すの嫌なら黙ってていいよ。でも僕たち、普段から会話少なくない? 同じ部屋で暮らしてるのに平均以下だよね?」
低迷感が可笑しかったのか、マコトは笑っている。
「これから増やそうよ。具体的にいうと40%くらい」
「いや、俺は……」
疲れるので無駄に喋りたくない。死んだらもっと無口になりそうだ。
この件については、いずれ興味本位で動き出した他人に暴かれるだろう。それがマコトであっても問題ない。すべて委ねる。
「大丈夫だよ。清高の味方するって決めてるから」
なぜ彼がここに現れたのかは訊きたかったが、知っても意味のないことに思えた。
「とにかく慎重にいかないとまずい雰囲気だね。……僕に任せて。まだ歩ける」
「俺に構うな」
指先に酸素が足りていない。痛覚が戻り始めている。
「忘れてくれ。おまえの幸せを祈る」
最後かもしれないので少しだけ微笑んでみた。
目を閉じると、夜風が海へ流れていくのがわかる。
人は脆い。どこで何をしていても、いつだって死と隣り合わせだった。
-22sone end.




