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-20sone 不織布


 十並となみマコトは、ヘアサロンで変身させたばかりの髪を指で梳いた。

 河沿いの堤防は朗らかで平和だ。このところ『W事件』も落ち着いている。

 変わっていないようで若干軽くなった毛先が、ぬるい追い風に煽られて空を向く。

 久しぶりに元の栗色に戻して無防備な直毛を解禁した。

 素を晒すスリルと、清々しさの駆け引きがいじらしくて、歪な快楽物質が滲み出してしまう。

 心境の誤作動は全部、早々とした授業終了で時間を持て余したせいだ。暇になるとエラーが起きやすくなる。

 昼に差しかかり、気温が上がってきたのが、氷の溶ける速度でわかった。

 歩きカフェラテが最高すぎて眩暈がする。

 急性カフェイン中毒で搬送されるその日までの、限りある幸せだ。

 ――どうしようかな……。

 これから図書館へ行こうか迷っている。清高きよたかのメモを書き取ったノートは鞄に入っている。



 サブウェーに乗り、寮から遠い方の図書館に足を運んだ。

 新設で無駄に広く、蔵書も多い。顔見知りと遭遇したくないときはここがベストだ。

 一番奥のデスクが空いていたので、課題に取り組むふりをして件のノートを開いた。

 やはり何度見ても、数字の後の単位が不揃いで、何を表しているのか推測できない。

 心配性の清高が細工をしたとしか考えられなかった。現にメモを見つけた自分が迷宮入りしかけている。

 リストに書かれているものが材料だとすると、薬品、道具、もしくは器具、爆弾、凶器といった感じだろうか。

 数値だとしたら、機械の設定に必要なデータかもしれない。


 日が沈む直前までいろいろな資料をあたってみたが、些細な手掛かりすら得られなかった。

 図書館を出たと同時に雨に降られ、寂しさが服の隙間から忍び込んでくる。

 サブウェーの混雑に近づきたくなくて、寮までの路を緩い足取りで進んだ。

 途中、交差点で信号待ちをしていると、友人と気象予報をしていた隣の女子学生が、チューリップの蕾みたいな折り畳み傘をくれた。

 さすがに受け取れないと思い、丁重に断ったけれど、女子高っぽい上品な笑みで躱されてしまった。

 しかし今は、この冷めた温度が不思議と心地よかった。自分は可愛らしいピンク色の傘に守って貰えるほど価値のある人間ではないと知っている。

 でも、たとえ屋上のフェンスを乗り越えて墜落したいくらい自暴自棄全開だったとしても、手を差し伸べてくれた人への感謝は忘れられない。

 浅く吸った夜の外気が、センチメンタルでとても綺麗だ。



 部屋に帰ると清高が勉学に励んでいて、その一途な真面目さに、学生の在るべき姿を教えられてしまった。

 扉の音で気づいたのか、彼は顔を上げてこちらを振り返る。いつもの暗く閉ざされた表情に少しだけ変化があった。

「何で濡れてるんだよ」

「急に降ってきたから」

 渡されたタオルで手早く水気を拭った。残念ながら靴の中にまで被害が及んでいる。

「実は親切な女の子に傘貰ったんだけどね」

 鞄に仕舞っておいた現物を披露する。

「それ差せばいいだろ。わざと濡れたのかよ」

「そうだよ。たまにはいいじゃん」

 やさぐれた感情さえも見透かされていて俯きたくなる。

「とりあえず先にシャワー行け」

 彼はキッチンで作業を始めた。夕食の前に、たぶん無糖のホットミルクを淹れてくれる。


 水浸しの服を脱ぎ、バスルームのタイルに触れてふと思った。

 清高が普段通りに試験勉強をしているということは、今日、明日にいなくなったりはしないだろう。血腥い出来事に引き寄せられる呪縛を断ち切ったのかもしれない。

 ――でも……。

 これまでの清高の行動が反対票にすり替わり、前向きな空想を支持することができない。

 深夜の外出。不自然な怪我。『W事件』へのシリアスな執着。黒い鞄。謎のメモ。

 気味が悪い。

「十並。大丈夫か」

 ドア越しに、無感情を装った低い声が問いかけてくる。黙っていたら死んだと思われそうだ。

 あたたかいシャワーに甘えたりせず、早めに切り上げなければ。


 洗いたての髪を乾かし、清高の反応を待ったが、これといった感想はなかった。

 あまり興味を持たれていない。

 批評や孤立を怖れず、ひとりでも荒廃した線路を歩いていける人が羨ましかった。きっといつか、足跡のない砂浜に導かれて青い海に辿り着ける。

「ねえ、清高。色変えたんだけど」

 前髪をつまんで自己申告してみた。

「元はこんな感じなんだよね」

 テーブルの向かいで退屈そうに指を触っていた清高が素っ気なく頷く。

「何か言ってよ」

「前より素行がまともに見える」

 優等生っぽいという意味だろうか。上手く演じられそうになくて笑ってしまった。

「暇になったらこの髪のまま踊りに行くけどね」


 もう少しふたりで話をしたかったけれど、ただならぬ異変を察知し、夕食を辞退してベッドに入った。

 猛烈に寒気がする。

 清高には申し訳ないが、飲み終えたばかりのホットミルクを吐きたくて身体の芯が震えている。取り柄の健康を奪われたら廃人以下だ。

 心細くなってリビングを覗くと、清高が試験勉強を再開していて目を疑った。

「そっち行っていい? ……どうしよう、風邪かも」

「座ってろ。薬持ってくる」

 数歩の移動で力尽き、ソファに吸い寄せられた。しばらく動けない。テーブルに置かれたノートに神経質な文字が並んでいる。

 側にいても、清高の考えていることがわからない。血の代わりに秘めやかな蜜が流れていたとしたら素敵だ。

「ここで寝てもいい?」

「邪魔しないでくれ。集中できない」

「突き放しても無駄だよ。清高のこときらいになれなくて困ってる」

 彼はおそらく、降参の無声表現で、唇の端を斜めにしながら首を傾けた。

 ほどよく力の抜けた、余裕のある仕草だ。ときどき感情を欠壊させて泣くけれど、清高は意志が強く、凛とした人間だと思う。

 自分はどうだろう。

 好かれる笑顔。お洒落な服。フレンドリーな態度。

 学生生活は意外と楽しい。それなりに楽しんでいる。楽しすぎて離脱したくない。

 なのに、白くて薄い布越しに世界と接したくなるのはなぜなのか。


 部屋のカーテンが開いていて、窓ガラスに無気力な自分が映っている。

 髪の感じが幼くて、悪いことを何も知らなそうに見える。

 もしかすると、子どもの頃にしか与えられない純粋さを諦めきれていないのかもしれない。

 ――日を追うごとにだめな人間になってくね。

 機嫌を窺う視線。流行に溺れたファッション。服従を舐めた態度。

 何かが矛盾している。



                                 -20sone end.


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