-19sone 無機
死んだ人間が外気と同じ温度だとすると、自分の手は死体より冷たい。
筧清高は、湯気の立つミルクのカップに唇を寄せた。
決戦の日に動けなくなるとまずい。そうならないために睡眠の予行演習が必要だ。
散々迷った末、深く眠りすぎるのが怖くて薬を避けた。
マコトは寝ているのだろうか。作ったものは普通に食べるけれど、ときおり怯えたような顔をしていて、少し痩せた気がした。
いつまで待っても安眠が訪れないので、ブランケットを肩に巻いたままキッチンの余白に座り込んだ。
抱えた膝に頭の重みを預けると、すぐに思考が切り替わる。
隣のシティ・ナウラまでの距離。ルート。立地。
場所を間違えなければ、不測の事態に陥ったとしても、ユメイの警察が駆けつけることはない。
問題は、奴らがシティの境界線を越えるか否か。保身のためにこの街を離れないかもしれない。綿密に計算し、上手く誘い出さなくては。
考えたくはないが、ナウラのポリスにまで汚染が拡がっている恐れもある。
そのときは潔く降参だ。計画通りに運べば次の犠牲は出ない。それを及第点とする。
初めから、4人殺して無事に済むとは思っていない。救済も酌量も望んでいない。
自分のしようとしていることは、被害者への献花ではなく、私怨に突き動かされた報復だ。
遺恨は、光に当たると浮かび上がる白い傷痕に似ている。
――…………。
覚悟していたが、一睡もできずにタイムリミットを迎えてしまった。
夜明けが近づいている。
ホットミルクの魔法は、ピュアな心の持ち主にしか効かないらしい。精神が乱れきった自分には、やはり薬しかないと思い知らされる。
目を閉じると酷く落ち込むのはなぜなのか。幸せも安らぎも失われた、血まみれの瓦礫と曇り空の世界。
誰も口にしないけれど本当は、命を絶つより、綺麗に眠る方が難しいのかもしれない。
・
昼の休憩時間を使って保健室を訪ねた。
先客がいたらしく、指に包帯を巻いた女子生徒とドアの前後ですれ違う。
莉保は処置に集中したかったのか、前髪を大きく横に分けてクリップで留めていた。色素の薄い額が、窓からの陽で光合成をしている。
「筧くん。来てくれて嬉しい。……ちょっとだけ捕まえてみてもいい?」
ナチュラルな衝撃に戸惑いながら黙っていると、冗談ぽく駆け寄ってきた彼女に腕を掴まれた。ニットの繊維越しに頼りない握力が伝わってくる。
明るい窓際のベッドに導かれ、横にならずに座った。悩み事の切り出し方がわからない。
莉保が、真正面からこちらの瞳の奥を覗き込んでいる。先走ったカラーレンズを挿れたり、目の周りに変な化粧をしたりしていなくてよかった。
「何かあったの? ……あまり話したくない? 筧くん、口数が少ない体質だからテレパシーでも大丈夫よ」
こういうとき、女性という生命体に、男にはないやさしさを見つけてしまう。
「最近寝てなかったでしょ。疲れて動けないの?」
頷くと、彼女の手が頭に触れ、逃げたくなって目を伏せると両腕で抱き寄せられた。
「身体は冷たいのに髪はあたたかいのね」
自分ではもう、泣くのを我慢しているときの目蓋の熱しか感じることができない。
「ハーブティ、試してみない? 淹れてくるから待ってて」
「あの、采生先生……」
ベッドの囲いを離れ、振り向いた莉保が微笑んでいる。最高にスリリングな笑顔だ。
「私ね、今、筧くんが夜の花畑で眠ってるところ想像しちゃった。ときどき目を覚ましてお花と会話してるの。外国の絵本みたいでかわいいでしょ」
・
寮の部屋へ戻ると、マコトがリビングから出迎えに来た。
「清高っ。おかえり。今日の夕食何? 踊りに行くからオムライスがいいんだけど」
「わかった」
前回、本人にリクエストの背景を訊ねた結果、身体が重くなるのでスープ系は好ましくないとのことだ。残酷なほど遊び慣れていて呆れたくなる。
マコトが実家に帰った日から塞いでいる理由は聞き出さなかった。
隠しているつもりかもしれないが、傷ついた声で喋りながら不器用に笑っていて、荒廃した感情が透けて見える。虐待の資料に登場する子どもたちと重なる部分が多い。
甘えたがりなマコトでさえ敗北したのだから、極めて難易度の高い問題を抱えた家庭なのだと思う。悪気はなかったが、知らずに帰した自分にも責任があったはずだ。
「清高、元気なくない? もしかして寂しがってる?」
「いや、別に」
謎のハーブティのお蔭で力が入らない。
曖昧にしか思い出せないけれど、保健室の隅に蹲って少し眠ったらしかった。
結局、感傷的な気分を刺激されただけで、期待していたような体力の回復は望めていない。何事も、いつも通りがよさそうだ。
夕食を終えてすぐに、マコトが夜のクラブへと出かけて行った。
器材の調達をするなら今だ。迅速に動かなければ。
奴らの死体と犯歴を隣の管轄に委ねる。あれだけの証拠があれば、言い逃れは絶対にできない。ナウラのポリスが、このシティの警察を侵す黒い盟約を暴いてくれると信じている。そのためのピースをひとつずつ集めてきた。
早くから計画していたのになぜか、やがて巡ってくる決別の日に、自分が死ぬという感覚をイメージできない。
試練のように、本能が疑問を投げかけてくる。
人の形をしたものを殺しておきながら、その記憶を抱えて生き続けるのが怖いのか。本当は誰かに引き留めてほしくて、おまえはそれに縋ろうとしているのだろう、と。
――頭がいかれてる……。
もうひとりの弱い自分が、救いを求めて壊れかけているのかもしれない。滑稽で浅はかで哀れだ。どうせ死ぬのだから黙れと怒鳴りつけたくなる。
最後まで、強い人間にはなれそうにない。最初から目指してもいない。
不意に呼び覚まされる莉保の笑顔が胸を裂く。
マコトも確実に心配だ。他に何か、してやれることがあるだろうか。緑地公園での出会いが、今は複雑な温度で逆再生されている。
自分はもう、終点へ向けて減速を始めた列車と同じだ。
差し伸べられた手に気づかないふりをして、孤独なルートを進む意思に存在価値があるとは思えない。生きているのが苦しすぎて、日々の隙間に終わりを探している。
心を切り取って物質のようになれたらと、乾いた白昼夢に夢を託すのをやめられない。
書棚を見ると、本の並びが変わっていた。
気に入っていた小説のカバーからべたつきを感じる。
――まさか、あいつ……。
思い返すと、タオルの洗濯量が不自然な回があった。マコトがディサイダーを撒き散らしたのだろう。最悪だ。
表紙の暗い題字を、そっと指でなぞる。主人公は殺しを請け負って自殺した。
細く息を吐き、ページの間に隠したメモを上着のポケットに入れる。
・
部屋を出る間際。
今になって初めて、適当に選んで置いた間接照明を愛おしいと思った。
誰も皆、共存しているすべてのものと別れる日が来る。
望まずに生まれてきたことと、いつか死ぬことだけが、命の持つ唯一のイコール。
それが宿命だというのなら大切にしたい。
花の嵐のように舞い上がり、零れていく時間を。
-19sone end.




