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-18sone 不均衡


 海の水と同じだ。

 近づいてきたと思うと遠ざかり、気を緩めると戻ってくる。そしてすぐにまた遠くなる。

 十並となみマコトは暗い部屋で毛布の端を握った。

 耐えがたい吐き気だ。コルクに封じられたあいつを、ストローで流し込む前の自分に伝えたい。

 わけもなく、船酔いを引きずりながら海辺で遊んでいる夢を見ていた。

 モノトーンの砂浜で震えていると、生命感の薄い足音とともに清高きよたかが現れた。

 彼は側に屈み、ベッドサイドの小さな灯りを点ける。

「十並。起きられるか?」

「無理……。動けない」

 妙な感触があって視線を遣ると、葡萄色に濡れたTシャツが肌に貼りついていた。

 惨めで無様だ。

 近日中に、自分を痛めつけるのをやめなければ。グループセラピーの緊張と不安から身を守るため、重度の失声症も戦友になってくれそうだ。

「もう少し寝てろ。食べられるなら何か持ってくるけど」

 曖昧に頷くと、部屋を出た清高が、器に入った白いものを運んできた。

「ヨーグルト。余ってたから」

 大好きな苺が見えたので受け入れてみることにした。

 横たわったままでいると、清高がスプーンを口元に寄せてくる。

 冷たいヨーグルトは甘みが行方不明で、ひっそりと混入していたバナナを舌の上で弄んだ。

「……シロップは?」

「果物入ってるから大丈夫だろ」

 清高の、無糖ヨーグルトの酸味を想像できていない様子が切なかった。

「子どもの頃どうしてたの?」

「は?」

「食べないで生きられる?」

 清高は手首の針の痕を一瞥する。

「古いのは消えた。……俺は放っておいてほしかった」

「残念だったね、死ねなくて。りほちゃんも諦めてくれないと思うよ」

 彼は気怠く首を傾げ、唇の端を上げた。

 重い腕に指令を出して、目にかかった前髪を整えたとき、指の切り傷に絆創膏が貼ってあるのが見えた。

 清高から世話好きな要素を取り除いたらきっと、暗さと白さしか残らない。


 不意に聴こえてきたサイレンに手を止め、清高がベランダから動向を窺う。

 深夜にしか姿を晒さない密偵スパイみたいだ。

 担当の『W事件』を警戒しているのだろう。人々の関心が薄れ、報道の気配が消えた頃、奴らは必ず活動を再開する。本当に、誰にも終わらせることができないのか。これまでの断片を繋ぎ合わせると、清高が何らかの切り札を持っているのは間違いない。

 もっと深く突き詰めたかったけれど、吐き気の襲来がきつすぎる。

「うっ」

「十並。おい、大丈夫か?」

「人間に生まれたこと後悔してる……」

 清高は静かに眉を寄せ、無実の罪を抱えることに疲れ果てたような、ぎこちない笑い方をした。そして下を向く。

「ああ、俺もだ」



 授業に出られるコンディションではなかったが、a.m.-1の数学が試験だったので、廃人状態で解答欄を埋めた。

 莉保りほのところへ行く途中、文系クラスのエリアに立ち入って清高を観察した。

 彼は陽の当たる窓際の席で、テキストにマーカーを走らせている。とにかく姿勢が真面目だ。生徒会長に選ばれたら最高に笑える。カーディガンの長い袖から指先を可愛く覗かせて、女子の視線を意識しているように見えなくもない。

 実際はどうなのだろう。未だに清高の生態が不明だ。


 保健室を訪ねると、中には莉保ひとりだった。

 彼女は白衣の下に淡いグリーンのワンピースを着ている。

「早退する前に寄ってみた」

「マコトくん、具合よくないの? 患者さんが来なくて4つとも空いてるけど」

 冗談ぽく笑いながら、莉保が白いベッドを指差す。

「眠いから休ませて貰おうかな。貸し切りだし」

 中央右の寝台に横たわると、呪詛カーズ系の虚脱感に身体を乗っ取られた。

 心細くなって、側に来た莉保の白衣を引っ張ってみる。

 彼女の、たぶん焼きたてのマフィンみたいにあたたかい肩に凭れて癒されたかった。

 甘えたがっているのがストレートに伝わってしまったらしく、莉保の方からそっと手を握ってくれた。

「りほちゃん、お姉さんぽくてやさしいよね」

「そんなことないわよ。私、あまり大人じゃないから」

 不意に遺伝子上の父親が浮上する。あの男も寂しくなって、母親に縋ったりしたことがあったのだろうか。そして母親は、あの男の弱い手を握ってしまった。だから自分がここにいる。

 最悪の展開だ。

 けれどなぜか、ふたりが抱き合っている場面を想像したとき、儚くて美しいと思った。



 寮の部屋にいても学内の予鈴が響く。

 罪の意識を植えつけられる音だ。しかしこの身体では午後の授業に辿り着けない。

 ソファに寝転んでニュースを点けると、知らない街の未解決連続殺人が特集されていた。

 血腥くて気分が塞ぐ。

 ――lonly、dislike、hopeless、みたいな。

 テンションを上げるためにディサイダーを取ってきて開けると、落とした覚えはないのに中身が飛び散った。

 服も髪も、噴水が直撃したような有様だ。

 バスルームのタオルで微炭酸の残骸を拭う。

「あー、清高の本濡れちゃってるし」

 仕方なく、1冊ずつ新しいタオルで拭いていると、ページの間に挟まれている紙片が目に留まった。

 破れないよう引き出してみる。

 手の平サイズのありふれたメモ紙に、記号と数字が綴られていた。

 清高の字だ。

 意味不明なアルファベット。数字の後に続く単位も統一されていない。

 見た感じ、計算式ではなさそうだ。

 本人に直接訊ねても教えてくれる確率は低い。

 余計な詮索はしない方が、苦しまずに遣り過ごせると学んだではないか。

 ――でも、どうしよう。

 上手く検索すれば情報を得られるかもしれないが、法的にまずいものだった場合、自分の端末からアクセスしたことでポリスに追跡される危険がある。清高を巻き添えにするわけにはいかない。

 逡巡の末、触った痕跡を残さないようメモを戻した。

 遅れて嫌な汗が滲み出してくる。

 この選択が、未来に取り返しのつかない影響を与えるかもしれない。そう思うと、見なかったふりをすると決めた無責任さが急に怖くなった。

 ――書き写すだけなら大丈夫だよね……。

 写真とコピーはだめだ。管理に失敗した際のリスクが高い。

「そうだ、数学のノート」

 分散させて書き込めば、自分にしかわからない状態にできる。

 もう一度メモを取り出し、すでに数字と記号で滅茶苦茶なノートに内容を写した。

 これがあれば後からでも調べられる。



 清高の秘密を開けるつもりはなかった。

 けれど、ついに一線を越えてしまったという罪悪感で食欲が低迷している。

 昼食を探しに街へ出てきたが、気がつくとソフトクリームを唇に押し当てたまま、シティの外周をなぞる定期客船に乗り込んでいた。

 海風に煽られて、髪が支離滅裂な方向に遊ばれている。


 深い水に誘われるように、手摺から思いきり身を乗り出して水面を眺めた。

 透き通った波にすべてを沈めたくなる。

「のぞいたらあぶない……」

 背後から少女の声。シャツの裾を引く手の感じが幼かった。

 自殺を心配されたのだろうか。

 顔を上げて振り返ると眩暈がした。

「まだ死なないよ」

 頑張ろうとしているのに、地平線から吹く風の強さに足が竦む。

 感情を持つ生きものは皆、この世界に物語を生み出すための駒だ。



                                 -18sone end.


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