-16sone 無暇
昼休みの保健室は静かだった。
筧清高は式典用の上着を脱ぎ、窓際のベッドに横たわる。
行事に組み込まれていた、楽団を招いての音楽鑑賞会が予想以上にきつかった。ホール内に空調が効き過ぎていて寒く、音の振動が傷に障る。
「筧くん、上下で制服着てるといつもよりクールな感じで緊張しちゃった」
カーテンの隙間から莉保が笑いかけてくる。
どことなく元気がないけれど、自分に原因があるように思えて笑顔を作ることができなかった。
不意に彼女が眉を寄せる。
「そのケガ、もしかして……」
シャツの間から胸元の痣がちらついていたらしい。油断していたのか、そこまで気が回らなかった。
「2日くらい前じゃない? 受傷日」
莉保の声は穏やかで、無口な人間の受け入れ態勢が整っている。
彼女の中では、筧清高がいじめに遭っているというストーリーが少しも色褪せていないようだ。
先ほどここへ来て、扉を開けて目が合った瞬間、莉保が泣きそうな顔をしたので焦った。
以前より弱っているように見えたのだろうか。
森で死にかけた話はしていない。マコトも黙っていてくれたはずだ。
「私、低体温生徒をカーディガンであたためたくて我慢できない。……筧くん、お願い。頷いて」
莉保は手早くエネルギーの素をセットして、カーテンの囲いから離れた。
「何かあったら遠慮しないで呼んでね」
今、ふたりだけのこの部屋に、彼女の作り出したやさしい時間が流れている。
着せられたカーディガンはやわらかく、淡いグレーの糸で織られていた。
かつて誰かのために選んだ品を、自分に貸してくれたのかもしれない。
ボタンを留める彼女の指がそっと触れたとき、あの夜を思い出さずにはいられなかった。
抱き寄せた莉保が涙を流し始めたので、それ以上のことはしていない。
彼女の鮮明な感触を、腕より胸が憶えている。預けてきた額の重さや、髪の光沢の、綺麗な断片。長い夜の気配。
・
晴れた昼に心を開くことができない。
空は青く、陽の光が眩しく降り注いでいる。
草木の瑞々しい緑。風に舞う花びら。
明るい世界から逃げ出すように、暗く荒んだ森を回想する。
断続的なスコールに見舞われた日、頼りにしていた山小屋が崩れ落ちることを危惧して行動を起こした。
タブレットも証拠写真も、この段階で失うわけにはいかない。
幸いすべて無事だったが、先を懸念し、別の隠し場所を求めて樹木の合間を彷徨った。
目の前にかざした手の平さえ捉えられないほどの、視界を覆い尽くす無慈悲なスコール。
何度問いかけられても黙秘したが、怪我は斜面から転落した際のダメージだ。足場が悪い中、焦りすぎていた。
最悪なのはその後だ。
余力がゼロになる前にと、偶然見つけた廃別荘に望みを懸けた。
雨風をしのげるのなら、どこでもよかったのかもしれない。当時の朦朧とした投げ遣りさに唇を噛む。
扉に打ちつけられた木板を懸命に剥がして廊下を覗くと、口を塞ぎたくなるような空気の穢れを感じた。
嫌な予感ほど当たるのはなぜなのか。
内部は家具や機器が運び出されていて、生活の名残りは皆無だった。ペンライトがないと、まともに歩くことすら危うい闇だ。足元は埃が酷く、大きな袋か何かを引きずった跡がある。
気が進まないけれど、他を探す余裕はない。
注意深く探索していると、壁紙の印象から、幼い子どもが使っていたと思われる部屋に行き着いた。
扉は半開きのままだ。
無意識に息を止めた。
中央に何かいる。
そう気づいた刹那、安易に足を踏み入れるべきではなかったと激しく後悔した。
――またかよ。いい加減にしてくれ……!
置かれていたのは男の死体だ。変色していたが、明らかに女性ではない。
頭が首から少し離れたところにあり、古びて黒く溶解しかかっている。しかし形状を留めていない衣服の切れ端から、犯行グループに所属していた人物ではないかと強い疑念を抱いた。
側に捨てられていた裁ち鋏とカッターナイフが悲惨な拷問に関連づけられていく。
こちらの直感が正解だとしたら、死体はおそらく、ひとりめの殺しの担当だ。殺害された理由はたぶん、仲間割れか口封じだろう。どうかしている。
写真を撮るべきか迷った末、冷静にシャッターを押した。証拠は多い方がいい。
一巡するように室内の壁を照らしてみると、奇妙なアルファベットの走り書きに意識が吸い寄せられた。
悪い魔女を見つけました、と英文で記されている。精神の歪みをパーフェクトに映した筆跡だ。
――この森もあいつらの庭なのか……。
力の限りに窓を開放し、自分の靴跡を消す。
死体に出くわしたことより、奴らが躊躇なく仲間を手にかけた残酷さに驚きを隠せなかった。グループ単位で共に殺しを繰り返していても、特別な絆は存在していなかったことになる。
やはり人間ではない。人の皮を被った狂気が命を得ただけだ。情などあるはずもない。奴らには、誰かの痛みを喜びに、苦しみを楽しさに変換できる機能が備わっている。だから簡単に仲間も殺す。
自分にはその冷酷さを解読できない。
マコトが鞄を開けずにいてくれたことが唯一の救いだ。
悪い魔女について考えながら、点滴の針を指でなぞる。
メディカルセンターで迎えた朝、旅行鞄を抱えてぬかるんだ森に入り、山小屋へ戻った。そこで以前、廃品マーケットで入手したヴィオラのケースに中身を詰め替え、無人のレンタルロッカーに収めた。監視カメラに記録されていても、目を引く不自然さはないだろう。
奴らのルート確認はしばらくのあいだ、人の気配がなくなった緑地公園で行うことに決めた。
倒壊を免れたので、今後も使い慣れた山小屋を拠点にしたかったが、いつ死体置き場にされるかわからない。
もう無理だ。できるだけ早く次を探さなければ。
・
深夜に迫る時刻、マコトがベッドルームから顔を覗かせた。
「そっち行っていい?」
拒絶を怖れているような弱い声だ。内面を晒しすぎている。
文庫を閉じて浅く頷くと、彼はどこか照れた感じの笑顔でリビングに現れた。そのままソファに座る。
「またダークな小説読んでたの?」
「そうだけど」
何を言われても本を手放す予定はない。
「この部屋がっていうより清高自体が静かだよね」
マコトはソファに横たわり、畳んでおいたブランケットを引き寄せて身体を覆った。
まさかとは思うが、ここで寝るつもりなのか。
「明日着てくから清高のカットソー貸してほしいな。襟開いてる無地の」
「わかった」
彼が、前回貸したニットを握り締めて眠っているところを目撃してしまったので辛い。
核心を避け、不安げに甘えてくるマコトの仕草に胸が痛んだ。
それはきっと、長年続く愛情不足が原因で、対象は自分でなくてもよいのだと素っ気なく処理した。
なのに、薄青い悲しみが奥深くに沁みていくのはなぜだろう。
感情は不都合が好きなのかもしれない。
「清高の分も掛けるやつあるよ。持ってくる?」
首を横に振りながらも、ふと、ここで寝てみようかと思った自分が可笑しくなる。
たとえ寂しさに切り裂かれても、日々の思い出をこの部屋に置いていく。
マコトが代わりに憶えていてくれることを願わずにはいられなかった。
-16sone end.




