-14sone 不正解
無駄に早く起きてしまったとき、眠ったことを後悔したくなる。
十並マコトはベッドルームとリビングを繋ぐドアを見つめた。
清高が帰っていれば、ささやかなライトが扉を縁取るように細く光っているのですぐにわかる。
――何やってるんだろ……。
珍しく就寝しているのではないかと期待したが、ベッドを離れてリビングを調べてみると、真新しい廃墟みたいにひっそりとしていた。
ソファの端に衣類が畳まれている。いつの間にかやってくれているので気づきにくかったが、あの身体でふたり分の洗濯をするのは大変だっただろう。そのうち自分で洗わなければならなくなると、心の奥が寂しさに耐える支度を始めていて怖い。
一番上に、MNTで清高に見立てた服が置いてある。気に入ってほしいとまでは思っていなかったけれど、『十並が着てくれ』と当たり前のように返されたことが少し悲しかった。
カーテンを開け、窓ガラスに額をつけて、景色を覆う白いミストを眺めてみる。
ここで不安を募らせるより、清高を探しに行くべきか。
この状況なら、不在がばれても濃霧の中で記念撮影をしていたと誤魔化せる。
心配なのは清高だ。どこかで血だらけになって力尽きていないとよいけれど。
朝が早いせいだろうか。予想以上に霧が深い。
冷えた外気がうっすらと湿っていて、奇妙な精神世界に迷い込んだ錯覚を抱かせる。
白い靄を吸い込みながら足を進めていると、曲がり角でアクシデントに遭遇した。
耳を突くブレーキ音。自転車の前輪。驚いた女性の顔。
次の瞬間、石畳の歩道に身体ごと吹っ飛ばされていた。
僅かに遅れてくる衝撃の威力。飛び降りに失敗したとしか思えない無慈悲な痛みに意識が揺れる。ダメージがきつく、呻きながら眉を寄せた。
「すみませんっ! 大丈夫ですか!?」
スマートに立ち上がれず、自転車から降りた人物に助け起こされる。
「大変っ、血が……。どうしよう。本当にごめんなさい。すみませんでした」
頷きながら呼吸を整えた後、ようやく周囲を確認する余裕が戻ってきた。
乗っていたのは、自分たちより少し先輩くらいの女性。自転車のカゴに積まれたケースから、超絶つまらなそうな哲学のテキストが透けている。おそらく女子大生で間違いない。デニムに淡い色のニットという服装で、意外と長身だが、派手でも地味でもないナチュラルな雰囲気だ。
けれど、彼女の不自然に怯えた様子が気になった。しかも、この霧を考慮すると、明らかにスピードの出しすぎだ。急いでいたにしても、自分の身を危険に晒してまで、視界不良の街を疾走する理由があるとは思えない。
「何か、あったんですか……?」
息が切れて声が歪む。
女子大生は困惑した態度で顎を引き、事情を口にするか迷っているような素振りをした。
「避けられなかった僕も悪いし、通報したりしませんから、よければ、話して、……ください」
どうぞ、と控えめに差し出されたハンカチを受け取る。
悲痛な面持ちで首の辺りを指差す彼女の動作に誘われ、無意識に手を遣った。
地面に着いた皮膚がまだ痺れていたが、ぬめりけのある感触を伝えてくる。
ピアスホールが壊れ、その血が胸の方へ流れてきている。悲惨だ。
「本当に、申し訳ありませんでした。警察官を名乗る男に突然呼び止められて、逃げてる最中だったんです。身近で事件も事故もなかったですし、待ち伏せされてたみたいに感じたので。女なら誰でもよかったのかもしれませんが……」
彼女は背後を警戒しながら、課題処理のために普段より早く通学先に向かったと言った。
「僕の勝手な判断ですけど、今回の件をポリスに相談するのはやめた方がいいと思います」
清高の警告に加え、自分がMNSで切りつけられた日の違和感を忘れられない。
この街の警察組織もいつかは変わるかもしれないが、今はだめだ。
彼女は深刻な瞳で頷いた。
「あの、ケガの治療費を……」
「高等部の学生なのでかかりません」
それでは、と軽く微笑んで歩き出す。
立ち去る間際、女子大生が再び謝罪の言葉を添えて頭を下げた。
「大丈夫ですから気にしないでください。ハンカチありがとうございました」
・
決して清高を諦めるわけではないが、露骨に負傷したので寮に戻るしかない。
お気に入りのスエットも、血糊と穴で酷い有様だ。
自分の部屋のように慣れ親しんだドアを開けると、キッチンから鋭い水音が聴こえた。
「清高?」
行き違いになったのだろうか。とにかく帰って来てくれて安心した。
彼は顔を上げず、熱心に爪の先を洗っている。昨夜の黒い服のままだ。
気づいてほしくて腕に触れると、清高が身を硬くしたのがわかった。
キャンペーンか何かでサバイバルモードを延長しているようだ。
「十並……。どうしたそのケガ」
水を止めた清高の手も傷だらけだ。
「おい、しっかりしろ!」
「取り乱さないでよ。僕に死なれると困るの?」
「別に俺は」構わないとは思っていない動揺が口調に表れている。
「美人女子大生と接触事故。車じゃなくて自転車ね」
冗談めかして言うと、彼は眉を顰め、こちらの全身を観察するように視線を巡らせた。
「通報とかしてないし問題ないよ。……そっちは平気なの?」
「放っておいてくれ」
心配されると鬱陶しくなってストレスを感じる体質らしい。
ソファに座るよう促され、しばらく待つと、ファストエイド箱を持った清高が登場した。
自分の怪我は放置するくせに、備えがよくて感心させられる。
「ごめん消毒拒否していい?」
「は? どうすればいいんだよ」
彼はコットンに薬液を含ませる工程を中断し、呆れたように唇の端を上げた。
「OK。やさしくやってみて。治療シーンのリハーサルだと思って耐えるから」
本番の方を頑張ってくれ、と妙に大人びた受け止め方をされて恥ずかしくなる。
よく見ると彼は、昨日受け取りに行くと言ったはずの腕時計をしていなかった。
どの角度から問いかけても、清高は一切のことを明かさないだろう。
ふたりだけの事情があって、いつも着けていた時計を彼女にあげたのかもしれないと思った。
清高と莉保が上手くいってくれたら幸せだ。
・
放課後、清高を高等部5Fの展望室に呼び出した。
大きな窓からシティを一望できるというだけの、長閑で退屈な部屋だ。
長椅子に座り、絆創膏に巻きつかれた指でビスケットの包みを開けた。
「清高」
彼は低く冷めた顔をしてこちらへ歩いてくる。
「過去に一度も泣いたことない人みたいな目だね」
学院内で見かけるときはいつもそうだ。優等生っぽく落ち着いていながらも、気怠さと鋭利な何かを常に内包している。
あの不安定に研ぎ澄まされた感覚を、自分には表現できない。
黙ったまま、清高が少し離れた場所に腰を下ろす。
ミステリ小説を床に積み上げている彼に推理してほしい謎があった。
「今朝のトピックなんだけどさ、僕と接触した女子大生、課題やるために早く家出たって言ってたんだよね。でも、その人が走ってった方に大学なかった」
どう考えても森に向かうルートだ。周囲にストアも図書館もなく、仮にあったとしても朝が早すぎて開いていない。
女子大生が自転車で全力疾走していた経緯は寮で話した。
「おまえのことも警戒してたんじゃないのか。どこの大学か知られたくなくて遠回りした可能性は?」
「ある、かも」
「本当は講義始まる前に恋人の部屋に行く予定だったけど言いにくかったとか」
「気に入った。それ当たってたらロマンティックだね」
最後に清高は不穏な推論を口にした。
「全部嘘かもしれない。十並が通報したらまずいと思って保身のために……」
「そうだとしても許すよ」
真実を突き止める必要はないと判断し、椅子から立ち上がろうとしたそのとき。速報受信の電子音とともに、展望室内の液晶モニタが起動した。
「えっ」
また『W事件』だ。シティ・ユメイは虐殺の無法地帯と化している。
今回の惨殺体は、トラックのような重量のある車輛に複数回轢かれたと見られる状態で、ほとんど原型を留めておらず、現時点で身元は不明。
遺棄されていた場所がここから近い。徒歩圏内にある児童施設の花壇だ。
添付のカードは『Where am I?』。
ふと、不審なポリスから逃げてきたという女子大生の姿が脳裏を掠めた。追いつかれて殺されていたとしたら酷すぎる。
続く報道で、被害者の特徴が明らかになった。
小柄な女性。服装はデニムに薄手のニット。セミロングの髪。
おそらく人違いだ。1.76mの自分が長身だと感じた相手が、華奢な死体と同一人物だとは考えにくい。自転車に乗っていたのだから、高いヒールの靴ではなかったはずだ。
他とは異なり、この事件にだけ不自然な点が多い。暮らしているシティでこれほどまでに惨い殺人が連続していたら、普通は狙われないよう慎重に行動する。なのになぜ、短い間隔で犠牲者が増えていくのか。絶対に何か裏がある。
――犯人、笑顔が爽やかな美形警察官だったりして……。
少しも可笑しくない空想を閉じて、白く滲む街の景色に想いを馳せた。
事件が収束しない限り、清高は不吉なアルファベットにどこまでも近づいていく。
思い出の破片に、感情が死ぬまでいたぶられ、何度も切り裂かれる痛みを知りながら、清高は自分を保護した。あまりに残酷ではないか。
彼は指を組み、静かに俯いている。
その、ひとりきりで寒さに耐える狙撃手のような横顔を見て、胸が塞いだ。
失ったらもう二度と、罪深い清高の、悲しく込み入ったやさしさに守られることはない。
だから今、救いを求めて真昼の空に星を探している。
-14sone end.




