-13sone 無我
ブックストアの見取図を、予め手に入れることができたらと思った。
筧清高は夕暮れを待って、寮の部屋を後にする。
隣のシティのマップが必要だ。ただし、余分な痕跡を残してはいけない。
監視カメラに記録されることを見越して、衣服は通学に着ているものとは別に用意しておいた。念のため靴も、マスクと帽子で顔を隠し、適当な店で揃えた。
人の多い時間帯。自分とは無関係な、大学最寄り駅のブックストア。
この段階では怪しまれるはずもないのに、緊張を嘲るように指先が冷えていく。
穏やかなダウンライトの店内は、期待通りほどよく混雑していた。
早足にならないよう意識し、書架の合間を縫って目当てのエリアに辿り着く。
――誰かに見られてるかも……。
自然に、普通に、興味のない本を開いたりして、熟考している学生客を装った。
きっと誰かに見られている。失敗は許されない。
凍りかけた手で、目的のマップを他のシティのものと混ぜ、小説を重ねてカウンターへ持って行く。
笑顔のない店員は、こちらに少しも関心がなさそうだ。
死の地図を受け取り、ひと言も発することなく店を出た。
黒く霞んだ空が迫る。それでも願いとは裏腹に、冷たい水滴が街を濡らすことはなかった。
途中、一度だけブックストアを振り返る。
計画実行前に手錠を掛けられるような不手際はなかったと思いたい。
けれど訳もなく不安ばかりが込み上げてくる。
・
部屋に戻ると、マコトがリビングのソファで眠っていた。
外出したときには自分ひとりだったので、放課後どこかで遊んでいたのだろう。
しかもよく見ると、早速あの『俺には似合わないから』と引き渡したクラブ用のTシャツを着ていた。
MNTの最悪な記憶が蘇って気分が塞ぐ。
音を立てないよう、マップと小説を書棚に仕舞った。
『W事件』の報道によると、ボートに遺棄されていた今回の犠牲者は、遺体が一切欠けていない。
それが真実であれば、現場を探し当てて写真を撮る悪夢のような苦役から解放された。そのことを喜ぶべきなのか。どちらにしても、山小屋へ行って奴らの移動経路は確認したい。
マコトの食事を作り始めながら、浜辺の惨状を注意深く回想すると、ある疑念が浮かぶ。
殺しの担当が変わったのではないか。
遺体の一部を隠匿せず、すべて現場に配置したことも含め、これまでとは何かが大きく異なっている。
犠牲の連鎖は、何としても阻止しなければ。
奴らを生かしたまま終わらせるのは不可能だ。
「……清高? 帰ってたの? 調子どう?」
「変わりないけど」
マコトは明らかに寝惚けた様子で、そっか、と短く言ったきり静かになる。
仕方なくキッチンからソファまで移動し、揺り起こした。二度寝するつもりなのか、意味不明に脱力して柔らかくなっている。
「食事できたから食べれば。俺は出掛ける」
難色を示すような顔をして、マコトが上目遣いにこちらを見ている。
流行りの服と派手な髪でイメージを操作しているけれど、無駄に隙がありすぎて、本人が隠したがっている実体に容易く触れそうだ。
「どうかした?」
「別に」
「気をつけてね。SOSはセルラにコールして」
十並に助けを求めるつもりはない、と軽い口調で言いきれなかったのはなぜだろう。
無関係の人物を巻き込まずに最終地点まで進むことが使命だ。
仲間は必要ない。救いの手も、慰めの言葉もいらない。
・
思いがけないタイミングで着信があり、掴みかけた上着を置いて応答した。
『……あの、筧くん?』
莉保だ。散々躊躇った末に決断したような、ぎこちなく揺れる声のトーン。
こちらは「はい」とだけ答えた。
『保健室に腕時計忘れなかった?』
問いかけられるまで、自分の手首から時計が消えていることに気づかなかった。
「すみません。休憩時間に伺ったとき置いてきてしまったんだと思います」
寮まで届けに来てくれるという彼女の申し出を固辞し、すぐにこちらから行くと伝えた。
山小屋は後に回すしかない。
莉保はなぜ、この時刻に連絡してきたのだろう。
もう夜が深い。明日ではいけなかったのか。
そして自分はなぜ、受け取りに行くと迷いもせず口にしたのか。
意味もなく手を洗って鏡を見ると、誰とも関わらずに生きられなかった自分が映っていて怖くなる。
・
夜の学院を訪れたのは初めてだ。
構内に不気味な印象はなく、潔い静けさに心惹かれた。
保健室に近づくにつれ、左の腕が無意識に、やさしい針の痛みを思い出す。
ドアが少しだけ開いていた。
そっと押し開けて中を窺う。
莉保は灯りを点けたデスクでペンを走らせていた。昼間と同じ、シンプルな紺のワンピースに白衣を重ねている。
「遅くなってすみません」
入室せず、扉の前で言う。
「筧くん、律儀ね」
顔を上げ、莉保がからかうような笑顔を見せる。
根拠は曖昧だが、ほんの少し前、自分が現れる直前まで、ここに誰かがいたような気配を感じた。
「どうぞ、入って」
促されるままデスクの側へ。何か話すべきか悩んだが、唇を閉じている方が気が楽だった。
ふと、机上のフォトスタンドに意識が吸い寄せられる。もっと距離を詰めて覗き込まなければ、誰、もしくは何が写っているのか見ることができない。
彼女は白衣のポケットに手を遣り、可哀想な腕時計を差し出してきた。
「素敵なデザインね。なくて困ったでしょ?」
「……はい」本当は連絡を貰うまで忘れていた。マップの入手についてばかり考えていたせいだ。
渡された時計が彼女の余韻に浸っていて、すでに自分のものではないような、不思議な感触を手の中に包む。
莉保と真っ直ぐに視線が合った。
ほとんど化粧をしていない綺麗な肌。
沈黙を上手く壊せなくて目を逸らす。
「筧くん、黒い服が好きなの?」
何かを案じるようなニュアンスだ。
間違えて、闇に紛れるためですなどと口走ったら大変なことになる。
「好きなのかは自分でもわかりません」
「そう……。そうよね」
もしかすると、莉保の記憶の中の誰かと反応が似てしまったのかもしれない。
彼女の表情に呼び覚まされ、泣くのを我慢しながら、必死に微笑みを保とうとしていた主人公の心情を辿る。
莉保の様子が気に掛からなかったわけではないが、ここに長居する理由がない。
自分なりに礼を言って扉へ向かう。
ドアノブに触れた瞬間。短い靴音が聴こえ、背後から袖口を握られた。
その気になれば簡単に振りほどける莉保の細い指。
不測の事態に順応できず、身動きがとれなくなる。
「筧くん、これからどこか行くの?」
「……はい」
事情を察してくれたのか、彼女はその先を聞き出そうとしなかった。
「明日も来てくれる?」
もちろんそのつもりだ。けれど、冷静な頭が疑問を投げかけてくる。守れるか不確かな未来に頷こうとしている雑な自分に。
「約束はできません。俺も人間なので……」
こちらの腕に額を預けて莉保が泣いているのを、薄闇の微かな震えから感じ取った。
「それ、私に言っていいの? 筧くんのこと、もっと強く掴んで放さなくなるかも」
彼女は涙声で冗談ぽく呟く。
「すみませんでした。もう行きます」
忙しくしているなら私の時間を分けてあげる、と莉保は大切な思い出を差し出すように音を紡いだ。
「お気持ちだけ有り難く受け取らせて貰います」
ドアを開けると、その振動で写真立てが落ちたらしく、室内に固い音が響いた。
思わず振り返り、落下したそれに視線を遣る。
衝撃なのか、恐怖なのかは知りたくないが、嫌な汗が肌を覆っていく。
フォトスタンドの中身は、白い紙のように見えた。
未使用のまま置いていたのか、それとも誰かの写真を裏返して入れているのか。ここからでは確かめられない。
莉保は頬を濡らしながら、少し困った顔をして首を傾げた。
涙を湛え、星のように煌めく瞳。そして、慰めの台詞が見つからないほど、濃く、深く滲み出した悲しみの暗い青。
「飾る写真、捨ててしまったの。だから……」
気がつくと、彼女の身体を抱き寄せていた。
夜が刻まれていく。
「筧くん、あまり笑ってくれないし、平熱低すぎるけど」
莉保は腕の中で目を閉じた。
「あなたの体温、すごく好き」
-13sone end.




