-11sone 不完全
ドアの音で目が覚めたのは、ささくれた風が眠りを妨げていたせいだと思う。
十並マコトはベッドを離れ、リビングから廊下を覗いた。
「遅かったね」
清高は返事をしなかった。明け方の薄青い闇の中で沈黙している。
よく見ると妙な姿勢なので、拾った文庫本でも抱えているのかと笑いかけたがそうではなく、またどこかで傷を負ってきたらしい。浅く弱く不規則な呼吸をしている。
「走ってて転んだの? 泥だらけ」
清高が言葉を殺すように唇を噛んだ。
「素人の見立てだけど重傷っぽいよ。派手にやられたね」
森のざわめきしか聴こえなかったが、彼は驚愕の面持ちで扉を振り返る。
「もしかして追われてる?」
「いや、放っておいてくれ。……ケガも大したことない」
嘘だよね、と問い詰めたいところだけれど、深入りするとすぐに警戒心を露わにしてくるので頷くしかない。
彼はキッチンで手の平を水に浸し、ふとこちらを向いた。
「悪い、ディサイダー忘れた」
「今度でいいよ。急いでない」
頼み事をすれば帰ってきてくれるだろうと計算していただけだ。心を読むのが大好きな清高は、それに気づかないふりをして謝ってきた。すれ違ってしまう日もあるけれど、これからも上手くやっていけると思いたい。
着替えを手伝うと申し出た親切を拒絶されたので、清高がパジャマ代わりにしている衣服を取ってきて渡した。
さすがにシャワーを浴びる気力はなかったらしく、すぐにリビングへ戻ってくる。
「ベッド譲るからこっちの部屋で寝なよ」
使用の痕跡が滅茶苦茶な寝具を素早く整えた。
「清っ高っ」
呼びに行くと、運命に導かれるように、彼が暗いキッチンに立ち、破れた肘の皮膚を食器用洗剤で洗っている現場を目撃してしまった。
「どうしたの……? ケガしたとこ可哀想だからやめた方がいいよ」
清高はバイオレンスな儀式を終え、静かにリビングへ移動する。そしてふらりとソファに横たわった。
身体を大切にするよう繰り返し伝えたのに、まったく聞き入れてくれていない。自分の感情が切り捨てられたみたいで空しくなる。
言っても無駄なので、胸を庇うように真横を向いている清高を、ブランケットと毛布で丁寧に包んでみた。
彼は怪訝な上目遣いでこちらを一瞥する。行為の意図を隅々まで知りたがっている。心身ともに不安定なときは、些細なことも疑ってくるので言動に気をつけなければ。
信頼は一瞬で灰になり、二度と修復できない。
裏はないと信じてくれたのか、清高が布の端を掴んで細く息を吐いた。
睫毛が重そうだ。白っぽい肌が青褪めている。でも、人に好かれるニュアンスをさりげなく押さえていて、心模様が透けて見えるような、悲しくてやさしい顔をしている。
「眠っていいよ。見張ってるから」
「寝ないけど」
醒めた口調とは裏腹に、額に汗が滲んでいる。
「清高はとてもいい子だね」と髪を撫でてからかった。
その手を遠ざけられる。
露出している部分を観察すると、清高の左手首が、内出血で寒色系のグラデーションになっていた。
触ろうとした途端、動揺した目で牽制される。性格の傾向として、自分の状態を把握されることに心理的な抵抗を抱きやすいのかもしれない。弱点を晒しているような無防備さが怖くなるのだろうか。それとも単純に、負傷した経緯を詮索されたくないのか。
黒いカットソーの襟が緩んでいて、その隙間からも酷く殴られたような痣が覗いている。
「薬飲みなよ。持ってくるね」
十並、と呼ばれて足を止める。
「俺のことはいいから……」
声の感じが素っ気なくて、遠慮しているのか、嫌がられているのか判断に困った。
救いを求めるニュアンスはなく、怪我の痛みを内包したまま自己完結している。
「もし逆の立場だったら納得して離れられる? それに、僕がベッドに戻ったらきっと心細くなるよ」
清高はほとんど表情を動かさずに笑った。
目蓋を閉じると、馴れ合いを許さないあの独特な視線が影をひそめ、人物像が水で溶いたみたいに曖昧になる。
・
朝を待ちながら、眠る清高をぼんやりと眺めていた。
親指の関節を唇に寄せていて、幼い頃に満たされなかった何かを連想させる寂しげな寝顔だ。
清高を産んだ人は、心を閉ざしがちな清高が可愛いと思えず、綺麗な愛情を注げなかったのだろうか。そうだとしたら切ない。
階下の騒音から逃れたくてここへ来たのに、無音の時間に遊ばれて虚ろな気分になる。
退屈なので、清高を起こさないよう、そっと服の内側を確かめた。
トリアージタグのフラッシュバックだ。
「……見たこと後悔するレベルだね。レッドでいいかな」
予想以上に怪我の状態が深刻で、自力で歩いて帰ってきたことが不気味にも感じた。
このままでいいはずがない。
原因は『W事件』だ。他には考えられない。
「こんなふうに痛めつけられても大人しくしてられるんだね。僕とは辛抱強さの桁が違うね」
本人は自分を罪の塊みたいに扱うのが得意なようだ。
清高のポリシーは彼のものだから、余計な口を挟んではいけないと、弁えてはいるけれど。
――まさか、被害者の周りの人に話聞いて本にしようとかじゃないよね。
かけがえのない存在を無残に死なせてしまったことで、突然思い立ったのかもしれない。
昼や夕方は不在の場合が多いので夜に。そしてその後は、MNCで取材の内容を纏める。だからいつも帰りが遅い。
怪我はおそらく、遺族の感情を逆撫でし、嫌悪感を持たれて攻撃された結果。
しかし本が出版されるまでは、何があっても内密にしなければならない。
事件の狂気に囚われ、たくさんの人たちの哀傷に触れすぎて、清高は精神を引き裂かれた。
仮説はここまでだ。
・
「十並。起きろ」
焦れたように腕を揺すられ、ふやけていた意識がゆっくりと覚醒する。
顔を上げると、清高がソファからこちらを見下ろしていた。
看病と警備活動に勤しんでいたつもりが、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「遅刻するぞ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分でも何を言っているのかわからないくらい寝惚けている。
「おい、……大丈夫か?」
口先は軽いが、清高は痛みを抱え込むように眉を寄せ、険しい表情を崩さない。
「そっちこそ平気なの? 辛かったら欠席しなよ。ノートのコピー貰ってきてあげる」
「提出しないといけない課題あるから行くけど」
変なところで真面目だ。
彼は毛布とブランケットを畳み始めた。
窓を開けると、青空の下、透き通った風が吹き抜けていく。
「清高」
もう、燻った感情を明日に持ち越さないと決めた。
不安とモノクロームな未来を頭の中から追い出さなければ自我が罅割れる。笑顔が多くてフレンドリーな自分を、この先、保てなくなる。
全力で清高を助けたいのなら、少しでも余裕があるうちに行動すべきだ。
「ひとつ訊いていい?」
無言で見つめ返してくる清高の黒い瞳。続けるまでもなく、すでにこちらの心算を暴いている。
手を休めた彼は、立ち入った質問には応じないと言いたげにきつく唇を結んだ。
ひとりになることを怖れていない清高は、別の意味で無敵だった。
「『W事件』の被害者に、清高の身近な人が」
「俺の知り合いは殺されてない」
責めるような視線が喉に刺さり、明かりのない私有地に踏み込んだことを後悔した。
「報道の後、精神的に追い詰められてるみたいに見えたから、もしかしたらって……」
「嘘はついてない」
乾いた声で、清高は短く言い捨てた。
それきり目を合わせない。
「信じるよ」
仮説は外れた。同時に新たな謎が波紋を拡げる。
「清高のこと信じるから」
隠し事に触れられるのは、やはり苦痛なのだろうか。
彼はソファに座ったまま俯き、流れ出す感情を戒めるように手の平で目元を覆った。
心も身体も血だらけで泣きたかったのかもしれない。
「十並……」
自分がつけた傷なら罰は受けようと思った。
「全部終わったら、俺を殺してくれ……」
躊躇いつつも、清高の薄い肩を抱いてみる。
「そんなこと言わなくてもいいじゃん」
擦り切れそうな嗚咽が、振動を伴って胸に響いている。
大人びた佇まいと相反する、この生々しい人間らしさは何なのだろう。
いなくなってほしくない。死を永遠の休暇みたいに受け入れてほしくない。
普段通りに微笑えなくて、自分の手と、彼の傷んだ手首を見比べながら小さく呟いた。
「清高が頑張って生きてるって知ってるよ……」
-11sone end.




