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-10sone 無理


 かけい清高きよたかはa.m.-2の授業を終えて白っぽいあの部屋へ向かった。

 マコトから連絡があり、昼の休憩時間に莉保りほのところに行けと言う。

 今朝、通院はしないと意思表示をしたことに関係がありそうだ。

 昨日の午前、搬送先のメディカルセンターから無事に脱出できた。環境が変わると刺激が強すぎて気疲れしてしまう。居慣れたキッチンとリビングが一番だ。

 もう少し治療させてほしいと引き止めてくれたことには感謝しているが、時間を無駄にできない。


 保健室の扉を開くと、莉保がセンチメンタルな歌を口ずさみながら花瓶の水を換えていた。

 また彼女ひとりだ。

 ――先にいた男の保健医、庭に埋められてるのか……?

 莉保はドアの閉じる音でこちらに顔を向けた。そして目を丸くする。

「筧くん!」

「理系クラスの十並となみマコトに、ここを訪ねるように言われたんですが」

「歩いて平気なの……? 近くに行っていい?」

 泣きそうな笑みを浮かべた莉保の頬が側に来て、いつの間にか胸に触れていた。布越しに沁みる、自分ではない人間の体温。

「……あの、采生さいしょう先生」

 気恥ずかしさに戸惑っていると、彼女は照れた様子でごめんなさいと呟き、身体を離した。ふわりと揺れる髪と白衣。莉保は濡れた睫毛を指で拭い、口元を綻ばせる。

「筧くんの生存が確認できてよかった」


 莉保の話によれば、今朝マコトが来て状況を説明した後、密かに勤務していた保健医が、メディカルセンターと連携できるよう手続きをしてくれたらしい。有り難いけれど、面倒をかけてしまって申し訳ないと思った。

 勧められたベッドに座って待つと、莉保がいくつかの医療アイテムを連れて戻ってくる。

 横になるよう促され、言われた通りに利き手ではない左腕を出した。

 ふと見上げた空が青く、先日のバッドウェザーが映画のワンシーンより遠い。

「大変。筧くんの血管がすごく嫌がってる」莉保が難しい顔で唇を尖らせる。「冗談よ。寒くない? 予備の毛布あるけど」

「いいえ。大丈夫です。いつもすみません」

 莉保は未成熟な蝶と戯れるような指で消毒を済ませ、手の甲に点滴の針を刺した。

 対人関係の傷とは違い、すぐに忘れられる弱い痛み。

「ねえ」

 一瞬の沈黙。

 まずい空気だ。何を訊かれるのだろうと緊張が走る。

「筧くん、誰も困らせないようにずっといい子にしてるから疲れちゃったの?」

 まっさらなシーツで包み込まれるみたいな声に、不覚にも頷いてしまいそうになる。

「いや、そんなことは……」

 そもそも最初から、よい評価を得られる素地ができていない。愛される命でもない。

「周りの人たちの気持ちを最優先に考えて頑張りすぎちゃったとか?」

「少しも頑張れてません」

 結果がこの有様だ。解決の遠い『W事件』は次の獲物を探している。

 今夜は必ず山小屋へ行って、端末の無事を確認しなければ。

「もし酷い人がいなくなったとしたら、もっと明るく笑ってくれる?」

 ソフトな誘導尋問だ。否定も肯定もしないという意味で僅かに唇の端を上げる。

 苦しくて、癒されたくても、自分が楽になるための夢を見てはいけない。

「感情を出さないことに慣れてるのね。子どもの頃から?」

「記憶にありません。元の性格が暗いだけだと思います」

「信じてもいいのかしら。筧くん、かわいかったんじゃない?」

 やるせない過去を分け合うようにそっと、莉保が手を重ねてきた。

「吐血って残酷な言葉……。こんなことになる前に、私がもっと早く気づきたかった。ごめんね」

 謝られると発作的に息ができなくなる。

 莉保の願いを踏みにじって、真実を口にせずに立ち去ろうとしている最低な自分。瓦礫より重い後ろめたさに押し潰されそうだ。

「身体壊すほど人に気を遣わなくても、食べられなくなるまで心をすり減らさなくても生きていけるでしょ。……どうして筧くんばかりが血を流すの」

「普通になれなかったからです」

 誰かを傷つけることが、自分も深く傷つくことが、怖くて不安で仕方がない。人の悪意が怖くて堪らない。他者との摩擦に怯えながら、心を開いて清々しく生きていけるはずがない。

 いろいろなものが欠けすぎていて、自分に何が足りないのかわからなくなった。

 最初から何もなかったのかもしれない。

 この世界に執着はなく、用さえ済めばいつでも死ねる。それが救いだ。

「明日も来てね」と悲しげに微笑む莉保に、謝罪を込めて小さく頷いた。



 夜を待てず、夕暮れの残す僅かな色を頼って山小屋へ足を運んだ。

 端末はスコールの被害を免れ、壊れかけたチェストの中で眠っていた。

 慎重に奴らの移動経路を探る。

 今回の遺棄はたぶん、住宅地からさほど離れていない建設跡地だ。

 配送会社の大型センターが新設されるはずだったが、施工の途中で放棄され、今もそのままの状態で時が止まっている。


 目的地に辿り着いた頃には完全に陽が落ち、どこか安堵を覚える冷たい黒がシティに立ち込めていた。

 フェンスを乗り越え、ひび割れたアスファルトに着地する。

 これからしようとしていることは批難されるだろうけれど、痛みが和らぎ、指先にまであたたかい血が巡っている感触に微かな喜びを感じた。

 周囲を警戒し、ペンライトを点ける。

 侵入した建物は広く、埃だらけのコンベアが中央に佇んでいた。錆びたカートやコンテナの散乱で雑然としている。

 ここにあるという確証はないが、被害者を探さないわけにはいかない。およそふた目と見られない惨い死体を。


 捜索を続けると、直感でそれとわかる包みが、斜め前方の壁際に置かれていた。

 廃材の低い山の上に、真新しいブルーシート。

 そこだけに特別な光が当たっているような異様性から視線を逸らせない。

 足がひとりでに動き出し、震える手でシートを開く。

「うっ……」

 思わず声が漏れ、顔を背ける。

 中身はもう、人の形をしていなかった。

 かつて人間であったのかさえわからない。

 体感温度が下がっていくのを他人事のように自覚しながらシャッターを押した。

 惨殺体を目の前にして思う。これは犠牲というより、無駄死にではないか。被害者の感情を想像したくない。耐えられそうにない。

 けれど、捕殺の連鎖を断ち切りたくて命懸けで訴えたとしても、このシティの警察に容易く揉み消されるだけだ。

 犯人グループはねじれた権力に縋って、反省も償いもせず、街のどこかに身を潜めて下卑た笑みを交わし合うだろう。

 ――だから俺は、計画的にすべてを終わらせたい。

 先に危害を加えられた以上、報復を諦めるつもりはない。

 遺体袋代わりのシートを巻き直している途中、廃材の陰に落ちていた紙を拾おうと腕を伸ばした刹那、こちらへ近づいてくる複数の靴音を察知した。

 ――奴らだ……!

 鋭い汗が全身に滲み出す。

 この廃センターに脱出用のルートはあるのか。自分が使った扉以外は確認していない。今からでは間に合わない。派手に動けば絶対に見つかる。

 ペンライトの灯りを消し、コンテナの裏に隠れた。

 しかしまだ、シートを元通りに整えられていない。中を見たと気づかれる。

 扉が開いた。4人か5人。低く聞き取りにくい声。おそらくあの紙の話をしている。

 何が書かれていたのか。

 細く浅く息を継ぎ、横目で動向を窺う。

 予測していたが、やはり死体を覗いた痕跡を見抜かれていた。手分けしてこの建物の内部を捜索するらしい。

 文字通り目の前が真っ暗だ。

 奴らの気配がすぐ側にまで迫っている。鉄パイプを引きずって歩く耳障りな音。

 ここで殺されるなら、今までの辛労は何だったのだろう。報われないことばかりで疲れてしまった。

 いつかは終わると思ってはいたけれど。

 緩く顔を上げると、そこに窓があった。助走をつければ乗り越えられない高さではない。侵入に使った扉が遠く、脱出経路の選択肢は他になかった。

 ――今だ。

 ゆっくりと立ち上がり、最寄りの男が方向転換したのを見計らって駆け出した。

 背後から狂気が追ってくる。

「逃がすな殺せッ!!」

 開けた窓に飛びついたと同時に、猟奇犯の爪が背中を掠った。

 振り返った直後、鉄パイプに肩を打たれる。

 倒れた身体を狙われ、反射的に右腕で庇った。

 容赦のない殴打。幻覚めいた痛みが全身に突き抜けていく。

 朦朧とした視界に映る脚を、半ば無意識に蹴りつけた。

 敵がよろめいたのを見届けずに体勢を変え、激痛に呻きながら、身を投げるようにして建物の外に落下する。屋外に出た途端、肌を刺す夜風の冷気が体力を奪っていく。

 急いでここを離れ、森に紛れるべきだ。立ち止まらずに走り続けなければ殺される。

 廃センターに響き渡る狂人たちの怒号と嗤笑。

 あれは、心など持ち合わせていない怪奇の群れだ。

 あの害毒たちを排除する。それが、自分の人生で為すべき使命だ。命も時間もすべて捧げる。未来がなくても構わない。

 現時点ではこちらの目的に気づかれていなかったとしても、次に接触したら絶対に、数少ない手札とともに地の底に沈められる。

 あまりに不注意だった。完全に油断していた。

 奴らは車に仕掛けた装置を見つけるだろうか。そうなればデッドエンド確定だ。

 悔しさを抑えきれず、病んだ精神が血を吐きたがっている。


 殺すのではなく、闇の中に棄ててやりたい。

 何者も這い上がることのできない闇の中に。



                                 -10 sone end.


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