珈琲を求めて
アーセナムを攻略していた敵騎士団を見事に撥ね退けた第7軍団。
その余勢を駆ってそのままローザリアの王都リーザスまで攻め込む、というのが当初の予定だったが、即座にそれは却下された。
どうやら先ほどの敵軍は、諸王同盟の先発隊にしか過ぎないらしい。
今、ローザリアの王都に集まっている諸王同盟の数は、数万に膨れ上がっているという。
無論、第7軍団の団長であるセフィーロは愚かではない。
「ここは一旦、撤退し、様子を見ましょう」と提案するまでもなく、「各自持ち場に戻るように」と命令を下した。
その命令を聞くと、俺は真っ先に軍を撤収し、帰路へついた。
イヴァリースにある自分の館へ戻ると、さっそく執務室へ入った。
何も言わなくても恭しく頭を下げ、紅茶を一杯、それに砂糖を2杯入れて持ってきてくれるサティ。
戦場では久しく味わえなかった香りと配慮である。
戦場にも一応、美しい女性たちはいた。
セフィーロという年齢不詳の魔女と、リリスという淫魔である。
彼女たちは見た目こそ美しかったが、サティのような細やかな心配りはできない。
お茶一杯入れられないのではないだろうか。
ましてやサティのように旨いクッキーなど焼けるわけがない。
そう思いながら、サティの焼いたクッキーを頬張る。
甘い香りとバターの香りが広がる。
前世では平凡すぎてその有り難みが分からなかったが、菓子という食べ物は、こちらの世界では嗜好品だ。
庶民はおいそれと食べられない。
それを毎日のようにでも食べられるのは、統治者としてのささやかな贅沢だろうか。
そんな風に思いながら、紅茶の香りを楽しむが、やはりあの味が懐かしくなる。
「はあ、コーヒーが飲みたいな」
その言葉にサティは反応する。
「コーヒーですか?」
「ああ、聞こえてしまったか。小さな声で呟いたつもりなんだけどな」
「サティの耳は、ご主人さまのどんな小さなお言葉も聞き漏らしませんよ」
サティは微笑を浮かべながら言う。
「……それは怖いな」
これからは独り言も注意しなければならない。
そう思いながら、コーヒーの解説をする。
「コーヒーとは、琥珀色の飲み物だ。黒い豆を煎じて、いや、元々は赤いらしいんだけど。ま、それはどうでもいいか。とても良い香りのする美味しい飲み物だ」
「ですが、紅茶も良い香りがしますけど……」
「それとは別の香りだな。紅茶はなんか高貴な感じ、コーヒーはなんだろ。もっと大衆的な香りだ」
「はあ、大衆的ですか……?」
サティには計りかねているようだ。
まあ、そうだよな。一度もコーヒーの香りを嗅いだことのない人間にコーヒーの香りの説明をするのは困難だ。
「せめて現物の豆さえあればな」
「今度はコーヒーを生産されるおつもりですか?」
「いや、さすがにそれは無理だな。コーヒーは南方でしか取れない。ビニールハウスでも作って魔法で温めれば別なんだろうけど、それではコストが掛かりすぎる」
「それでは南方から輸入されればいいのではないでしょうか?」
「コーヒー豆が存在すればな、それも可能なんだろうけどな」
「存在しないのでしょうか?」
「たぶん、しない。ローザリアの王都では見かけなかった」
俺はそう言い切ったが、思わぬ人物が、それを否定した。
「コーヒーならば南方で流通しているぞ」
と、横槍を入れてきたのは、我が上司セフィーロだった。
彼女はノックするでもなく、勝手に執務室へ入ってきた。
この館には選ばれた魔族しか入ることはできないようになっているが、残念ながら彼女は選ばれた魔族だった。
ゆえにこうして堂々と俺の執務室へと入ってこられるのだが、せめてノックくらいはして欲しかった。
「なんじゃ、その顔は、せめてノックくらいしろ、という顔じゃな」
しかもこの人は勘が鋭い。
仮面で表情さえ見えないはずなのに、俺の考えが手に取るように分かるようだ。
俺は心の中で、両手を挙げて降参すると、彼女の発言の真意を問うた。
「コーヒーが存在するというのは本当ですか?」
「本当じゃ。南方にあるゼノビアで見かけたことがある。あの黒い豆をひいた飲み物じゃろ。一度、飲んだが、苦かった。妾の口には合わないな」
「それですよそれ。そうか、この世界にもあるのか……」
「お前はあんな苦いものが好きなのか」
「まあ、そうです」
カフェインが恋しい、といってもこの人に通じるかどうか。
どうも最近、午後になると眠気に誘われる。
前世ならばコーヒーでも飲めば、すっきりするのだが、残念ながら紅茶では覚醒作用は得られない。
「ともかく、コーヒーがあるとは朗報です。久しぶりにあの香りを堪能したい」
そう思った俺はさっそくジロンを呼び、コーヒーを手配するように指示しようとした。
が――、それは上司である魔女に止められる。
「お前はなんでもかんでもあの豚に頼るのう。たまには自分の力でなんとかしてみようとは思わないのか?」
「いや、仮にも俺はイヴァリースの領主ですよ。それにここは最前線だ。留守にするわけにはいかない」
「有能すぎる上司がいると部下は育たない、という名言は知っているか?」
「……知っています。身に染みて」
目の前にいる魔女と俺の関係がその良い実例かも知れない。
セフィーロのやる気のなさ、いい加減さを補っているうちに、俺は勤勉となり、色々な経験が積めたような気がする。
要は上司がなんでもかんでも自分でやってしまうと部下は育たない、と彼女は言いたいのだろう。
「お前の部下にはなかなか優秀なのが揃っている。あのジロンとかいうオークも有能ではないが、職務には誠実だし、お前には忠実だ。良い部下を見つけたの」
「それはあいつ自身に言ってやってください。泣いて喜びますよ」
「部下の能力を見極めるのも上司の力のうちよ」
「それに、シガンという竜人は冷静沈着にして有能な指揮官だ。リリスという娘は頭が足りないが、それを補うくらいの力がある。それに奴らはまだまだ成長の余地がある。ここは奴らに暫くこの都市を任せるのも悪くなかろう」
「要は彼らに留守を任せても問題ない、と?」
「その通り」
と、セフィーロは言い切る。
「そこまで言い切るからには、ただ、コーヒーを買いに行かせるお使いのために俺をゼノビアに赴かせるわけではないのでしょう?」
「まさか。妾はそこまで酔狂ではない。ついでにお肌に良いとされている乳液も買ってきて貰おうかの」
セフィーロは戯けて見せたが、冗談だとすぐに分かる。
すぐに真剣な表情になったからだ。
「――お前には南方の貿易都市であるゼノビアに向かって貰いたい。魔王様の名代として」
その表情で俺はすぐに察する。
「――なるほど、つまり、コーヒーを買い付けるのは口実で、なにか秘密裏の目的があるということですね」
「流石はロンベルクの孫じゃ、よう察したな」
「団長とは長い付き合いですから」
「それではその内容については見当がついているかの?」
「想像になりますが、構いませんか?」
「うむ、構わない」
彼女は教師のような口調で許可してくれた。
「団長は、いえ、恐らくですが、魔王様は、南方にある『通商連合』の盟主であるゼノビアと交易がしたいのではないでしょうか?」
「ほお、その根拠は?」
「我が軍の財政状況」
俺は一言で言い切る。
「目下のところ我が軍の財政状況は潤沢とは言い切れません。魔王様の統治により、昔よりは遙かに豊かになりましたが、それでもまだまだ足りない。特に食糧不足が顕著です」
「お前のおかげでイヴァリースの農業生産高は膨れ上がったが」
「それでもまだ全軍に行き渡るほどではありません。農業とは結果が出るのに時間が掛かりますからね」
「そうじゃの」
「それに元々、魔王軍が占拠した土地は、あまり豊かな土地ではないですし、農業都市よりも工業都市が多い。戦争によって畑などは荒廃しています。そのうち深刻な食糧不足に陥るんじゃないかな」
「ならば魔王軍らしく、住民から徴発、いや、略奪するという手もあるが?」
「魔王様はそこまで愚かではないでしょう。せっかく、占領地の運営がうまく言っているのに、そのような愚挙に及ぶとは思えません」
「ならば魔王様の狙いはどこにあると思う? いや、お前ならばどうする?」
セフィーロの声はいつになく真剣だ。
あるいはこの魔女も魔王様の真意を掴みかねているのかも知れない。
この人も理知的で頭の切れる魔族であるが、やはり魔族だ。その考え方は魔族を基準にしたものになるのだろう。
「魔王様は恐らく、余っている工業製品、特にドワーフの職人達に作らせた宝石細工や工芸品などを南方に売り、その金で南方の潤沢な食料を入手したいのでしょう」
俺がそう言い切ると、セフィーロは、「……ふむ」という言葉と共に吐息を漏らす。
その態度で答えは分かるが、一応、尋ねておく。
「それで団長、俺の答えは合っていますか?」
セフィーロは、肯定も否定もしない。
「……気に喰わん。――気に喰わないが、魔王様と同じことを言っている」
「つまり、解答は100点ということで宜しいですか?」
セフィーロは、それにも明瞭に答えることなく、いつもの子供みたいな口調でこう言い放った。
「ともかく、魔王様の命令じゃ。第7軍団副団長のアイクよ。妾の代わりに南方にあるゼノビアに赴き、通商連合の盟主と通商条約を結んで参れ!」
セフィーロはそう結ぶと、少しふて腐れながら踵を返した。
彼女は捨て台詞のように言葉を残す。
「ふん、もしも、失敗したら、また妾の下で一からやり直しだからな」
と――。
そして転移の魔法を唱え、消えていった。
その姿を見て、横に控えていたサティは恐る恐る尋ねてくる。
「いいのですか? セフィーロ様は怒られていましたが」
「あれは怒ってるんじゃない。拗ねているんだよ」
「拗ねている?」
「あの人は俺が模範解答するとへそを曲げるんだよ」
「どうしてでしょうか? ご主人さまは正解を導き出されたんですよね?」
「俺のことをまだ子供だと思っているんだろう」
「子供……、ですか?」
「ああ、団長と俺は子供の頃からの付き合いだからな。まだまだ自分が導いてやらないといけない、って思い込んでるみたいだ」
「なるほど、あれは怒っているのではなく、拗ねているのですね」
サティは納得した表情を浮かべると、遠慮がちに笑う。
「確かにご主人さまのおっしゃっていた通り、子供みたいな方ですね」
「よく言えば童心が残ってる。悪く言えばガキっぽい人だよ」
俺はそう皮肉を漏らしたが、サティは急に笑うのを止めると、こう漏らした。
「それにしても――」
と、サティは言うと続ける。
「セフィーロ様は子供の頃のご主人さまを知っておられるんですよね?」
「そうだけど?」
その言葉を聞くと、サティは珍しい台詞を放つ。
「ちょっとセフィーロ様が羨ましいです。いえ、妬ましいです」
「どうしてだ?」
「だって、ご主人さまの子供の頃の姿をわたしは見たことがありませんから。きっと、可愛かったのだろうな、と想像してしまって」
「……可愛いね」
それは褒められているのだろうか。
魔王軍の中堅幹部には似つかわしくない言葉であるが、確かに俺にも可愛らしい子供時代はあったのだ。
そのことを思い出しながら、南方に向かう準備をした。




