文字の読めない少女
ドワーフの王との交渉を終えると、文字通り一息ついた。
第2軍団を囮にして諸王同盟を釘付けにし、その間、ローザリアを跨いでのイスマス強襲、ギュンター救出に、その後の交渉、めまぐるしい忙しさだった。
正直、自分の身体がもう一つ欲しいところだった。
「団長に頼んで俺をもう一人作って貰えないだろうか」
そうすれば仕事が半分になる。
冗談のつもりでそう言ったのだが、横にいたメイドのサティは諸手を挙げて賛同してくれる。
「是非そうしてください」
なんでも、そうなれば俺が戦に行っている間に、暇を持て余さなくて済むそうだ。
「そう言えばサティは、俺が留守にしている間はなにをしているんだ?」
「基本的にお掃除をしています」
「それはいつもしているじゃないか」
「いつもより念入りに行います」
曰く、この館には俺しか住んでいないので、俺がいなくなると本当にやることがなくなるらしい。
だからいつもより念入りに掃除をするか、最近、庭に住み着いた猫のお腹を撫でるくらいしかやることがなくなるらしい。
無趣味というのも可哀想なものだな。
確かにこの異世界は前世とは違い、娯楽などほとんどない。
当たり前だが、インターネットもなければTVもない。
演劇や曲芸師などは存在するが、イヴァリースは小さな街だし、最前線の街なので、そうそうやってくることはない。
ただ、仮にこの街に劇場があったとしてもサティがそこに通うとは考えにくい。
この娘は謙虚というか、びっくりするくらい欲がない。
仮に演劇でも見に行きなさい、と、お金を渡しても、それで俺へのプレゼントでも買ってくるか、貧しい者にでも施してしまうだろう。
サティという少女はそういう少女だった。
「……うーん、なんとかこの娘に趣味でも作ってやらないとな」
そういう考えにたどり着く。
今後、俺はイヴァリースを留守にする機会も増えるだろう。
そのたびにサティが掃除に精を出せば、この館から埃が一掃されてしまうかもしれない。
実際、この館は異常に綺麗だった。
塵一つ落ちていない。
試しに本棚に近寄って本棚の端を指でなぞってみる。
まるで日本のTVドラマに出てくる姑のような真似だが、ドラマのように指に埃が付くことはない。
つまり、それくらい丹念に掃除されているということだ。
掃除をするなとはいわないが、なにもここまでする必要はないだろう。
そう思わざるを得ない。
「そもそもこの本棚は一度読んだ本ばかりだからな。処分しても良いくらいだ」
「処分されるのですか?」
「……いや、それは勿体ないか」
この世界では本は貴重だ。
活版印刷などというものは発明されていないので、一冊一冊手書きで書き写すか、魔術師が《複写》の魔法でコピーするしかない。
そんな風に考えていると、サティは思わぬ発言をする。
「でも、サティは本は読めませんが、本は大好きです」
「サティは本が好きなのか?」
「はい」
「そうか。なら、俺がいない間に本を読めば良いじゃないか」
「それはできません」
と、彼女は言い切る。
「ご主人さまのものを勝手に借りるのは、メイドとしてやってはいけないことです。それに――」
と、彼女は続ける。
「サティは本は好きですが、文字が読めません。お借りしても無意味です」
「……なるほど、サティは文字が読めないのか」
そりゃそうか、この異世界の識字率事情はよく分からないが、少なくともこのイヴァリースには教育機関と呼べるようなものはない。
魔術師や学者が私塾を開き、子供達に文字や簡単な計算を教えているが、それでは限界があるだろう。
それにサティは奴隷の子供だ。
そういった最低限の教育さえ受けていないのだろう。
「ちなみになんで本が読めないのに、本が好きなんだ」
「本の臭いが好きなんです。それに本の背表紙を見ているだけで頭が良くなるような気がして。あと、たまに本をパラパラとめくると挿絵があって、それを見てるだけで時間を忘れます。行ったことのない土地の絵が描いてあったり、綺麗な女の人が描かれていたり――」
珍しくサティの言葉は止らない。
それくらい本に興味があるということだろう。
元々賢い娘だ。
人一倍探究心が強いのかも知れない。
そう思った俺は、サティに文字を教えてやることにした。
「え、宜しいのですか?」
彼女は、興奮気味に、申し訳なさげに、尋ね返してくる。
「ああ、今、ギュンター殿が各地のドワーフに手紙を書いていてな。それがドワーフたちに届き、彼らがこの街にやってくるまで、ちょっと時間がある。それまで執務の合間に文字を教えるよ」
「本当ですか!? 嬉しいです!」
飛び跳ねないばかりに喜ぶ。
サティは感情を表に出さない娘だ。こんなにも表情豊かになるのは珍しい。
その姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまう。
サティは言う。
「わたし、本が読めるようになったら、まず最初にこの本が読みたいです」
彼女はそう言うと書庫に行き、本を両手で沢山抱えてくる。
その姿はまるでサンタにプレゼントを貰った子供のようだ。
まず彼女が広げたのは料理の本だった。
「これは料理のレシピ本ですよね?」
「そうだ」
「これを読めるようになれば、アイクさまに作って差し上げられる料理の種類がいっぱい増えます。それにもっと美味しく作って差し上げられます」
今でも十分美味しいけどな、そう言う暇も与えずに彼女は続ける。
次に開いたのはとある冒険家の東方見聞録だった。100年ほど前に存在した実在の人物の日記風の読み物で、この大陸の東にあるセイカと呼ばれる国まで冒険した男の話である。
「ああ、それは俺も読んだ。どこまでが本当でどこまでが嘘かは分からないが、なかなか面白かったぞ」
サティは俺と出会うまではアーセナムの街の外にさえ出たことがない。
この手の冒険記に憧れるのかも知れない。
「はい、サティは一度でも良いから冒険という奴がしてみたいんです。お馬さんに乗って、見知らぬ土地を旅してみたいのです」
「意外と行動的なんだな。女の子らしく、恋愛小説でも好むかと思っていた」
「それも読みたいです。ともかく、サティは一杯本が読んでみたいです」
サティは力強く宣言したが、彼女の持ってきた本の中に官能小説もどきの本があることに気が付く。
――前の領主が残していったものだ。
取りあえず、その手の危険な本はすべて隠しておくとして、さっそく、彼女に文字を教え始めることにした。
この世界の文字は複雑にして怪奇だ。
英語のように発音と綴りが食い違うことも多々あったし、文法の不備も目立つ。
習得難易度は、日本語より難しいかもしれない。
「まあ、それでもサティが暇を持て余すよりはましか」
俺はそう口にすると、一番簡単な文字から教えることにした。
アルファベットでいえば『A』、日本語でいえば『あ』に当たる言葉だ。
サティは熱心に俺の講義に聴き入る。
賢い彼女のことだ。
一年もしないうちに簡単な本ならば読めるようになるだろう。
そう思ったのだが、彼女の賢さは想定以上だった。
――1ヶ月後、彼女は嬉しそうに小走りしながら俺のもとにやってきた。
「アイクさま、ギュンターさまに、文字の書き方を教わりました」
どうやら彼女は読むだけではなく、文字まで書けるようになったようだ。
彼女はそれを俺に渡す。
そこにはつたない文字であるが、ちゃんとした言葉が書かれていた。
「ごしゅじんさま、だいすきです」
――深い意味はないのだろうが、なんだかこちらが気恥ずかしくなってしまう言葉だった。
ともかく、この調子ならばサティは半年もしないうちに読書家になれるだろう。
娯楽の少ない異世界だ。
本を読むくらいの贅沢は、メイドにも許されるべきだろう。
そう思いながら、彼女に文字を教えつつ、ギュンターが呼んだドワーフたちが集まるのを待った。




