セフィーロの入浴
敬愛する上司に呼ばれた俺は、溜息をつきながら言った。
「もう、軍団長、風呂やトイレタイムの可能性もあるから、いきなり呼ばないでください、ってあれほど言ったじゃないですか――」
言葉が止まってしまったのは、俺が純粋な証拠。
風呂に入っていたのは俺ではなく、軍団長だった。
彼女はバスタブに半身をつけたままの状態だった。
幸運なこと、或いは残念ながら、湯気によって局部は見えないが、彼女はさして気にした様子もなく、
「そこにあるブラシで背中を洗ってはくれまいか」
と、頼んできた。
「……そんなことは使い魔にでも頼んでください」
団長クラスの魔術師ならば、同時に何匹でも使役できるだろうに。
「馬鹿者、なんでもかんでも魔法に頼るのは二流の魔術師の証拠だ」
「弟子を召喚してそんな雑用を頼むのは一流の証なんですか?」
「いや――」
魔王軍第7軍団軍団長、黒禍の魔女セフィーロは首を横に振る。
「超一流の証じゃ」
彼女はそう言い切ると、
「かっかっか」
と笑い。
「さっさと背中を洗わぬか、洗わないと、独房送りにするぞ」
と俺を脅した。
仕方ないので俺は、目を背けながら、背中をブラシで洗ってやる。
「なにを恥ずかしがっているのだ、子供の頃は風呂に入れてやったこともあろう」
「……子供の頃の話でしょ」
「妾から見ればまだまだ子供じゃがな」
「団長は前の前の前の魔王様のときから生きてますからね」
「………………」
背中を向けているのに、「ぎろり」という擬音が聞こえてきそうな間があった。
やはりどこの世界でも女性に年齢を尋ねるのはタブーらしい。
彼女の背中からは、これ以上触れたら、お前でも殺す、といわんばかりの殺意を感じた。
危機察知能力の高い俺は、慌てて話題を転じる。
「そ、それにしても肌艶が相変わらずお美しい、まるで十代の生娘のようです」
褒めれば途端に機嫌を良くするのもどこの世界も共通らしい。
彼女は、
「そうじゃろ、そうじゃろ」
と、気をよくすると、おもむろに立ち上がり、
「背中を流せい!」
と、命令した。
俺はまたも目を背けながらそれに従うと、彼女にタオルを渡す。
かなり小さなタオルな上に、凹凸がある肢体なのでぎりぎり局所を隠せる程度だ。軍団長なのだからもっとましなタオルを使え、と言いたいが、たぶん、わざとやっているのだろう。
こうして俺の反応を楽しむ、それが彼女の目的なのだ。
なので仮面の下の顔を紅潮させて、どぎまぎしているのは、まさしく彼女の術中なのだが、見事にそれにはまってしまっている。
我ながら情けなくあるが、嘆いても仕方ないので本題に入ることにした。
「――ところで団長、ひとつお耳にお入れしたい情報があるのですが」
「なんじゃ? 妾の下着でもチョロまかしたのか?」
「真面目な話です。それも火急の用件です」
俺が真剣な声色でそう言うと、彼女はおふざけモードを解除したようだ。
「なんじゃ、話せ」
と、真剣な面持ちになった。
いや、背中越しからは見えないので想像だが。
「はい。実はどうやら我が旅団内に内通者がいるようなのです」
「内通者?」
「はい」
「根拠は?」
「先日のイヴァリース防衛戦の折、魔族だけにしか知らせていない抜け道から、敵兵が乱入してきました」
「ほお、よくもまあ対処できたな」
「まあ、抜け道に大軍を通すのは不可能ですからね。予定外のことではありましたが、その程度で負けるほどやわじゃないですよ」
「ほう、一丁前な口を聞きおって」
「軍団長に教わった軍略のおかげです」
「おだてても何も出ないぞ」
と、セフィーロは言い切ると、続けろ、と言った。
「ただ、内部から攻略されるのは想定外でした。もしもコボルトの部隊を残しておかなかったら、やばかったかもしれません」
「ふむ、なるほど、つまり内部から攻められるのは想定外だったが、城外の一戦では圧勝したので、ことなきを得た、ということか」
「まあ、要約するとそうです」
「もしも白薔薇騎士団に苦戦していたら、最悪、潜入された部隊に、住民を扇動されて負けていたかもしれない、というわけか」
「……最悪の場合は」
「ふむ、それは由々しき問題じゃの。で、その抜け道を教えたのが、不死旅団の内部にいると?」
「おそらくは」
「なんじゃ、根拠はないのか? 根拠もなく味方を疑えば、内部に不和が生じるぞ。さすればそれこそ敵の思うつぼじゃ」
「いえ、根拠はあります」
と、俺は言い切った。
「ほう、どのようなものじゃ」
俺は詳細を話す。
その話を聞いたセフィーロは、
ふむ、なるほど、と僅かに首を縦に振り、同意する。
「抜け道の途中に、魔力駆動式の探知機を設置していた、というわけか」
「そうです。団長が作ってくれた奴ですよ」
「おお、あれか。あれは人間如きでは容易に解除できまい。いや、探知さえ不可能じゃ」
「あとで調べたところ、その装置は見事に解除されていました」
「なるほど、それならば、秘密裏の工事が住人にばれた、という可能性もない、というわけか」
「敵軍が偶然抜け道を発見した可能性も除外していいかと」
「で、お前は内通者の存在を疑った、と。なるほど、合理的な判断じゃ」
「……あまり味方を疑いたくないんですけどね」
「何を甘っちょろいことを。魔族が仲良しこよしの集団ではないことくらい、お前も承知しているだろう」
「人間もですけどね」
「その通り、歴史上、仲違いをしなかった組織など存在しないからの」
「できれば我が旅団くらい、その例外であって欲しかったのですが……」
「例外などこの世界にはない」
セフィーロは断言する。
まあ、その通り。
元の世界でもその辺の事情は一緒だ。
一枚岩の組織なんてものは存在しない。
ましてやその誕生以来、互いに争いを続け、覇権を争ってきた魔族だ。
すべての魔族が一致団結する、というわけにはいかない。
「しかし、問題なのは、誰が、どのような理由で裏切ったか、ということじゃな」
「理由は自明でしょう。我が旅団を敗北させるためです」
「その通りじゃ。じゃが、敗北させるにも理由はあるはず」
「まあ、我が軍団を妬ましく思っている軍団はいくらでもありますからね。そうなってくると他の6軍団の団長、すべてが容疑者となる。おおかた、第7軍団の足を引っ張ろうと、俺の旅団にスパイでも紛れ込ましていたのでしょう」
俺が自分の考えを述べると、上司であるセフィーロは、「くっくっく」と笑った。
「……なにがそんなにおかしいんですか? 団長。俺、そんなに的外れなことを言いましたか?」
「いや、裏切り者が他の軍団のスパイだと決めてかかっているところが、実にお前らしい、と思ってな」
「……同僚はなるべく疑いたくないですよ」
「だが、思考は最後まで放棄するなよ。お前の祖父も言っておったであろう。最後まで考えるのをやめなかった者が最終的な勝利者になるのだ、と」
「しかし、自分で言うのもなんですが、俺は部下に恨まれるようなことをした覚えがないですし、第7軍団の他の旅団長ともそれなりに上手くやってるつもりですよ」
「そこじゃ。お前は鋭いように見えて、時たますごく間抜けじゃな」
セフィーロはそう断言すると続ける。
「確かに我が第7軍団は他の軍団と比べ、比較的団結心がある。他の旅団の足を引っ張るような輩は少ない。妾がそういう風に教育しているからの」
しかし、じゃ、と彼女は俺に指を突き立て、指摘する。
「ものには限度というものがある。最近のお前の活躍はなんじゃ。一体、いくつの敵軍を破り、人間の砦を何個落とした? しかも味方の損害は最小限、敵もほとんど殺さず鮮やかに」
「はあ……」
何を言っているのか分からないので思わず間抜けな答えをしてしまう。
そんな俺の姿を見たからだろうか、セフィーロは「やれやれ」と吐息を漏らしながら言った。
「お前は本当に馬鹿者じゃの。要は他の旅団長に嫉妬されている可能性くらい、考慮しておけ。と言っているのじゃ」
「俺が他の旅団長に嫉妬される立場なんですか?」
そう尋ねると、彼女は、机の上に置かれたこの大陸の地図を指さす。
次いで、軽く口元を動かす。
なにやら魔法を詠唱しているようだ。
彼女が魔法を詠唱し終えると、地図が輝き出す。
「これは?」
と、尋ねるまでもなく、その意味を理解する。
この大陸の東の3分の1は赤く塗られている。
つまり、魔王軍が現在占領している地域だ。
その考察が正しいことを証明するように、セフィーロは、
「これは今現在の魔王軍の占領地域じゃ。そして――」
と、続けると、今度は赤い地域の7分の1くらいが光り始める。
「この地域は?」
と問うまでもなかった。見覚えがある地名、砦、街の名前ばかりだ。
「皆、お前が占領に関わった地域じゃ。たった一つの軍団の一旅団長が、これだけの地域を制圧するのに関わり、主力を担ってきたのじゃ。しかも、ついこの前旅団長になったばかりの若造がな」
「……なるほど」
確かに団長の言うとおりだった。
旅団長になってから、特に他の旅団長と喧嘩をした、という記憶はないが、確かに他の旅団長の気持ちになれば、妬ましくなるかもしれない。
そう吐息を漏らすと、他の旅団長の顔を思い浮かべた。
さて、俺を陥れようとしたのは誰なのであろうか?
粉砕の戦鬼の異名を持つトロールであろうか。
それとも竜人族の旅団長であろうか。
第7軍団には、俺を含めれば10人の旅団長がいる。
容疑者は9人、ということになるが――。
俺はなるべく先入観を持たないように心がけながら、裏切り者の候補者の選定を始めた。