生け贄に捧げられる乙女
ゼノビア側の転移の間には、灼熱の髪を持った女性が待ち構えていた。
仕立ての良い白いブラウスを身につけた女性で、その赤毛が映えて見える。
数ヶ月ぶりの再会だったが、相も変わらず剛胆そうであり、抜け目のなさそうな女性だった。
ただ、若干、やつれているように見えなくもない。
さもありなん。
俺が抱きかかえている執事のハンスの言葉が真実ならば、今、ゼノビアは成立以来の危機に立たされているらしい。
俺は単刀直入に尋ねた。
「ユリア嬢の生命の危機、というのは本当なのでしょうか?」
通商連合の長エルトリアは、俺の瞳をまっすぐに見詰めると、ゆっくりと頷く。
肯定したくない、という表情に見えたが、彼女は現実主義者の権化のような商人だ。
端的に事実を述べてくれた。
「……ああ、その通りだよ。残念ながらね」
エルトリアはそう言い切ると、
「立ち話もなんだ。我が館に案内しようか」
と、勧めてくれた。
確かに俺もいつまでも50代のむさ苦しい男を抱きかかえているほど酔狂な男ではない。
執事のハンスをエルトリアの召使いに托すと、彼女の後に付き従った。
エルトリアの館は相も変わらず豪勢であった。
一緒に連れてきたエルフのアネモネは、
「こんな立派な館初めて見ました!」
と目を丸くしている。
「これに比べたら、イヴァリースの俺の館は掘っ立て小屋だろう?」
と冗談で返したら、彼女は、
「はい」
と、即答する。
「……正直な娘だな」
アネモネと同じようにエルトリアの屋敷を見上げる。
まあ、確かに彼女の感想は的を射ている。
通商連合の長、エルトリア・オクターブは、ゼノビア一の豪商だ。
その住居もその財力に相応しく、王侯貴族の別荘と変わらない。
「いや、それ以上かな」
王族や貴族の別荘をいくつか見たことがあるが、これよりも立派な作りの屋敷を作ることができるのはこの異世界でも一握りだろう。
リーザスを占領すればそれが見られるかな?
そんなことを考えていると、俺はエルトリアの屋敷の客間へと案内された。
ソファーに座るように勧められる。
それに従う。
エルトリアの侍女に勧められるがままにローブを渡すが問題はない。
ゼノビアへは『人間』としてやってきた。
『不死のローブ』と『変化の仮面』はイヴァリースに置いてきてある。
エルトリアには正体が露見しているのだから、魔族の恰好をしていても問題ないのだが、やはり人間の街に魔族が彷徨くのは避けた方が無難であろう。
ちなみにリリスにも尻尾を隠すように命令し、角が見えないように帽子を深く被って貰っている。
ただ、大きく口を開けて話すタイプなので、話すと時折、牙が見える。
この娘に話すな、と命令するのは簡単でも、実行させるのは不可能なので、指摘はしないが。
あとは淫魔族特有の褐色の肌も問題だが、南方の人間には多く、それほど目立つことはない。
この館にくる途中、幾人もの褐色の肌の人々を見かけた。
南洋にある島嶼都市の人間らしい。
そもそも、お茶を持ってきたメイドの女性も褐色の肌をしている。
「なんの問題もないだろう」
そう心の中で呟くと、出されたお茶に口を付けながら、この館の主に視線をやった。
彼女も同様に茶に口を付けると、話を切り出した。
「ハンスから我がゼノビアの、いや、我が娘の危機だということは聞いているね」
俺は答える。
「ええ、勿論、言葉にされなくても血を滲ませた包帯姿でやってこられれば窮地だとすぐに分かりますよ」
俺は苦笑いを浮かべながら真意を尋ねる。
「ハンス殿は気を失う直前、このままではユリア嬢を生け贄に捧げなくてはなりません、と言っていましたが、それは本当なのでしょうか?」
一応、執事のハンスが最後に残した言葉の意味を再確認する。
エルトリアは残念ながらね、と苦々しげに言う。
「生け贄とは不穏当ですね、それに前時代的というか魔族的な思考だ」
神、或いは邪神に生け贄を捧げる。
前世の記憶を持っている人間からしてみれば馬鹿馬鹿しい考え方であるが、この世界は中世めいた剣と魔法の異世界。いや、『実際』に生物を生け贄に捧げ、魔術に耽溺する錬金術師がいたりする分、余計性質が悪い。
敬愛すべき我が元上司、セフィーロも夜な夜な羊の首を掻き切っては生け贄に捧げ、怪しげな実験を行っている。
人間の世界でもそれは同じだ。
生命を生け贄に捧げ、秘術を施し、奇跡を起こす怪しげな魔術師の数は、魔族の魔術師とそう大差はないはずだ。
ただ――、
「それにしてもそれは魔術師界隈だけの話と思っていましたが。商人は現実主義者、商業の神女アンメニカの神殿に寄付はしても命まで捧げるとは聞いたことがありませんが」
その問いにエルトリアは明瞭に答える。
「それは陸の商人の話だ」
彼女はそう言うと続ける。
「我々ゼノビアの商人は、商人であると同時に船乗りであることも多い。それは分かるかい?」
「ええ、まあ、このゼノビアは南方にある島嶼都市、通称、香辛料諸島の重要な中継地点です。船乗りは多いでしょうね」
「かくいう私も実は昔、船に乗っていたことがあってね。執事のハンスと共に5つの海を駆け巡ったものさ」
「その武勇伝はハンス殿から散々聞かされましたよ」
曰く、一度没落しかけたオクターブ家を再興させたのはエルトリア自身らしく、彼女が大型帆船の指揮を務め、危険な海域を渡り、稀少な香辛料や霊薬の素材などを大量に掻き集め、それを売りさばき、オクターブ家、中興の祖となったらしい。
「船に乗る人間から言わせると、船乗りというのは案外、迷信深い。やれ、船に犬は乗せるな、船に輪っかを持ち込むな、船に焼き菓子は持ち込むな。私が船長だった頃は、生娘は船長にするな、というものもあったな」
「それぞれ、どういった意味があるので?」
「海神ネプトゥスは猫の姿をしているから、犬は乗せてはいけないそうだ。それに船に積んだ穀物を鼠から守るため猫を乗せるのが船乗りの習わしになっている」
「猫は鼠を狩ってくれますからね」
エルトリアは頷く。
「そこまではまだ理解できるが、船に輪っかを持ち込んではいけない理由は滑稽すぎる。その理由がわかるかい?」
「さあ、想像もつかない」
「理由は縁起が悪いからだ。船の底に穴が空くことを連想させるからだそうだ」
「なるほど。……それはまた迷信深いというか」
「いや、はっきりと滑稽と言って貰ってかまわないよ。私もそう認識している。それに焼き菓子も一緒だ。こちらも笑ってしまうような理由で船に持ち込んではいけないのさ」
と、エルトリアは「ははは」と渇いた笑いを漏らす。
「その理由は、菓子がシケるからだ。海がしけると船乗りは困るからな。だから船に持ち込みは厳禁なのだそうだ」
その言葉を聞いたサティは顔を青ざめさせている。
たぶんだが、前回、船に乗ったときクッキーを持ち込んでしまったのだろう。
無論、それで海がしけって荒れた事実はない。
つまり、完全な迷信なのだが、それでも船乗りという奴は迷信を固く信じているらしい。
エルトリアは元船乗りのためだろうか、彼らを弁護するような口調で補足してくれた。
「しかし、まあ、彼らの気持ちも分からなくはない。船乗りと死は常に隣り合わせに生活しているようなものだからね。このゼノビアで最も死亡率の高い職業の一つが船乗りだ。迷信でも縁起でもいい。それに頼りたくなる気持ちは分かる」
それには俺も同意する。
前世でも船乗りは危険な職業だ。
大型のタンカーならともかく、小型の漁船ならばいつ転覆してもおかしくないし、実際、毎日のようにどこかで船が遭難し、多くの人命が失われている。
そもそも船乗りという職業は高給取りだ。その辺の傭兵団の団長よりも稼いでいる船長もいる。彼らに高給を支払うのは、船乗りという職業がそれほど危険であり、儲かるからでもある。
前世でも大航海時代と呼ばれる時代があった。
その先駆けを作ったポルトガルのリスボンという街から出港した船団が、世界を回り終え、寄港したとき、残った船と船員の数は極僅かだったという。しかし、その船に大量に積まれていた香辛料は、出港時に積んでいた金貨の数十倍もの値段が付いていた。
船団を何個も買い直せるほどの利益を上げたというわけだ。
大航海時代の人間も酷く迷信深かったというし、死と隣り合わせの人間は藁にでもすがりたくなるのだろう。
――その気持ちは分からなくはないが、さて、それとユリア嬢が生け贄にされる件とどんな因果関係があるのだろうか。
俺はそれを尋ねることにした。
エルトリアは快く答えてくれる。
「海神ネプトゥスは20年ごとに純血の乙女の血を欲す、これは古くからゼノビアに伝わる伝承の一つだ」
「つまり、20年ごとに乙女を殺し、海に投げ捨てていた、ということですか?」
エルトリアはゆっくりと頷くが、すぐに言葉を付け加える。
「無論、馬鹿げた話だ。そんなことは大昔の話で、ここ100年ほどその儀式が行われた形跡はない。私が調べた限りでは、だが」
「それではなぜユリア嬢は生け贄に捧げられてしまうのでしょうか?」
俺の素朴な疑問に、エルトリアは指をさして答える。
「原因はあいつさ……」
エルトリアは俺の後方を指さす。
彼女の白い指の先にあるのは、一枚の絵画だった。
そこには荒れ狂う海と、うねり狂う蛇のような生き物が描かれていた。
その絵を見て俺はぽつりと漏らす。
その絵に描かれた生物の名前を。
「大海蛇?」
エルトリアは「正解」というでもなく、こう口にした。
「伝説のシーサーペントの活動時期と乙女を生け贄に捧げる時期が丁度重なってしまってね。それで我が娘が生け贄候補に選ばれた、というわけさ」
エルトリアは困ったものだね、という表情と仕草をすると、そう締めくくった。
確かにそれは困るだろう。
俺はエルトリアに同情すると、どうやってその難題を解決するか、さっそく知恵を巡らせ始めた。




