地平線の先
ローザリアとの和平調印式は、翌る週、王都リーザスと魔王軍の前線都市のひとつ、アレスタの中央にある平原で行われることになった。
両軍、1000名までの随員が許される。
無論、随行者は文官でも構わないが、主に武官、つまり兵士によって構成されるのが通例であった。
淫魔のリリスが嬉しそうに言う。
「我が軍団の規模は丁度1000名くらいですし、渡りに船ですね」
「ああ、確かに」
数が足りない、からといって、他の軍団から兵を借りるのもなんだか情けない話であった。
「丁度、アネモネ殿のエルフの部隊が加わってくれたおかげで、1000名を超える程度になったのか、我が軍団は」
戦支度を始めている人間、ドワーフ、それにエルフたちを見て、俺は吐息を漏らす。考え深げに。
「最初に旅団を任されたときは300名規模だったんだよな」
「そう考えると賑やかになったものですね」とはリリスの言葉だった。
まったくだ。
と相づちを打つが、俺はとあることに気が付く。
『旅団長』の癖に戦支度をせずにサボっている娘を見つけたのだ。
無論、その娘とは目の前にいるサキュバスのリリスなのだが、俺がジロリ、と見詰めると、彼女は「てへっ」と舌を出し、自分の部隊へと戻っていった。
「まったく、困ったものですね」
とは、オークのジロンだった。ジロンはおろし立てだと思われるピカピカの絹のローブを身に纏っていた。
曰く、人間共に舐められたらいけませんからね、ということらしい。
見栄っ張りというか、小物染みた考えではあるが、気持ちは分からないでもない。
確かに我が軍団は統一感を欠く。
魔族は勿論、人間、エルフ、ドワーフ、皆、それぞれに違う武装をしている。
魔族は武具さえ纏ってないものもいれば、人間やドワーフも鎖帷子、甲冑と統一性がない。エルフに至っては服と弓しか持ってないものもいる。
「民兵や義勇兵といったところだな」
一方、ローザリアの軍隊は恐らく、全員、重装甲の甲冑に、名工の鍛え上げた剣や槍で武装しているに違いない。
見栄え、という点では圧倒的に劣るだろう。
ただし、実力の方では負けるつもりはないが。
そう心の中で呟くと、俺は進軍、の号令を掛けようとした。
――が、それは途中で止まる。
ジロンが俺の服の裾を引っ張ったからだ。
何用だろう、と思いながら、愛馬からジロンを見下ろすが、見ればサティが小走りにこちらにやってきていた。
その両手に握られているのは、無論、火打ち石だった。
戦の前の験担ぎをしてくれるのだろう。
サティは息を切らせながらこちらにやってくると、いつものように「お待ちくださいまし」といい、火打ち石を二度叩く、カチカチッ、と。
俺はいつものように「ありがとう」と返す。
もはや戦前の恒例行事となってしまったが、悪い気はしない。
これで敵軍に勝てるか、或いは今回の場合、和平に成功するかは分からないが、少なくともこの儀式を行って悪い結果になったことはない。
そう思った俺は、それ以上出しゃばらずに背を向けるサティに感謝の念を送った。
その念が届いたのだろうか、途中でこちらへ振り向き、ぺこり、と頭を下げるサティ。
俺は彼女の背中が見えなくなったのを確認すると、王都の方へ振り向き言った。
「いざ出陣!」
と――。
1000の勇者たちは「おおッ!」と叫び、行軍を始めた。
イヴァリースからアレスタへは1週間、そこから王都の中間にある平原まで更に1週間ほど行軍に時間が掛かる。
人間のように騎馬部隊だけで部隊を編成できれば、その日数は短くなるのだが、軍隊という奴は必然的に一番足の遅いものを基準に行軍速度を計算しなければならない。
魔王軍には馬に乗れない魔物が多いため、その行軍速度は当然、遅かった。
例えば巨樹族は図体でかく、歩幅も広いが、その歩く速度は人間よりも遅い。
こういった種族は、機動戦には向かず、戦に連れて行かないこともあるが、今回は巨樹族や巨人族、トロールやスケルトンなど、鈍足の魔物もすべて連れて行くことにした。
ジロンなどは、
「戦は機動力が命だ、が口癖の旦那にしては珍しいですね」
と訝しがったが、これにはちゃんと理由がある。
俺はジロンに分かりやすく答えてやる。
「理由は簡単だ。今回は救援でもなければ、急襲でもない。単に時間があるからな。どんな鈍足の魔物でも構わない」
むしろ、鈍足の魔物の方が厳つく、敵軍を畏怖させる効果があるかもしれない。
敵軍が魔王軍を恐れ、和平の調印式を邪魔しなければ、それで効果を発揮したことになる。
俺としては血迷って調印式の最中に襲ってこられるよりも遙かに助かる。
――もっとも、敵軍の黒幕、ローザリア王国宰相アイヒス・ウーベルクがこの和平を邪魔する気なら、どんなに威圧しても無駄なのだが。
ただ、最悪の想定をするにしても、戦力となる魔物を置いていくのは愚策である。
総力戦になる覚悟で挑まなければならない。
なにせ、調印が行われる平原は王都の間近にある。
魔族にとっては遠く感じる距離だが、騎士団を大量に保有している人間にとっては目と鼻の距離だ。
馬という生き物は効率的に人や物を輸送する理想的な生き物だった。
それを大量に保有し、乗りこなす騎士という奴は厄介な存在なのである。
そういった意味では王国宰相、ウーベルク公アイヒスという男は、なかなかの知恵ものなのかもしれない。見事に魔王軍の弱点を調べ上げ、自分たちの有利な位置で調印式を開くよう国王を唆したのだろう。
魔王軍としても、魔王領と人間領の中間、と指定されれば断る理由などなにひとつない。
「敵軍が奇襲を仕掛けてくるとしたら三日で王都からやってこられるな」
俺は頭の中で計算するとそう呟く。
一方、セフィーロが救援に来てくれるのならば、最低でも一週間はかかるだろう。
「いや、実際はもっとかかるかな」
楽観的に見積もって計算するととんでもない火傷をする可能性があった。
「最悪、二週間は掛かるとみておいた方がいいかもしれない」
俺がそう漏らすと、サキュバスのリリスがこちらの方へ向かってやってくる。
「あのう、素朴な疑問なのですが、アイク様はこの調印式、成功して欲しいのですか? それとも失敗して欲しいのですか?」
「勿論、成功させたい」
「ならなんでそんなに悩んでるんでしょうか? さっさと約束の平原に赴いて、調印しちゃえばいいじゃないですか」
「そうできれば苦労はないのだがな」
前世の記憶がそうさせるのだろうが、俺は常に最悪の事態を想定して行動を起こす。
無論、今回の調印は必ず成功させるつもりでいるが、敵軍が乱入する可能性、そもそもローザリア国王自体が和平を結ぶ気など最初からなかった可能性、あらゆる可能性を考えなければならない。
それが多くの兵を預かる指揮官の最低限の務めだと思っていた。
ただ、この娘リリスにはなかなか俺の気持ちは伝わらないようだ。
「大丈夫ですよ。調印できなくても万の軍隊に囲まれても、アイク様ならばへっちゃらです」
暢気にそう言い張るリリスを見詰めると、吐息を漏らしながら尋ねた。
「してその心は?」
リリスは白い牙がくっきり見えるくらいに微笑むとこう言い切った。
「理由は決まっています、それはアイク様が魔王軍最強の魔術師だからです!」
気持ちいいほどの断言ぶりであり、持ち上げぶりだったが、この娘が言うと、なぜだか、自然と自信がわいてくるのが不思議だった。
ただ、そう思わせてくれるリリスの笑顔は有り難かったが、その楽天的な性格はどうにか矯正させなければならない。
俺ももはや魔王軍の軍団長だ。
そしてリリスはその副官兼旅団長。
いつか単独で軍を率いて貰わなければならない。
その楽天的な性格に精神的に助けられることは多いが、一人の将として見ると不安になる。
「……きっと、この気持ちを言葉にすると、親心とか老婆心という言葉になるのだろうな」
彼女に聞こえないように心の中でそう呟くと、視線を前方に戻した。
その先には平原が広がっている。
まだローザリアの軍営は見えないが、ローザリアの国王はどんな気持ちで待ち構えているのだろうか。
少なくとも彼の側近にはリリスのような脳天気な娘はいないはずだ。
それが幸せかどうかは知らないが、少なくとも退屈はしているだろう。
そう思いながら、交渉の場所へ軍を進めた。
この行軍速度ならば数日後には約束の地に着くはず。
「そこで和平の条約を結べるか、血みどろの抗争になるか、それは定かではないが、少なくともそこから何かが始まるだろう」
俺は地平線の先――、未来を見詰めると、そう心の中で呟いた。




