甘味天国へようこそ(12/4編集)
「おお、いい色になってきたぞ! 美味しそうだ、見てみなさい!」
「わーほんとですね! さっきからずーっといい匂いもするし、うまくいきましたよ~」
「これは……なかなか期待できそうですね」
不知火椛、氷上恵毘守、初嵐秋麗の順にオーブンの窓を覗き込み、めいめいに感想を言う。三人の目を輝かしたのは、天辺がきつね色に染まりつつあるチーズケーキだった。
不知火家の厨房に三人は集まっていた。手入れが行き届いた厨房は、こっくりした甘味とレモンのほど好い酸味の絡まった匂いで満たされていた。よだれがあふれる匂いだ。直径二十一センチの円に収まったチーズケーキは、焼き色がつく前から、匂いでこの場にいる者を誘惑していた。オーブンに縋りつかんばかりの秋麗が、うっとりと呟く。
「ああ、本当に今から楽しみ。ああ……」
「この匂いかいじゃうと、冷やしてから食べるっていうのが、もどかしいですよね~」
「俺、たまに我慢できなくて、あっつあつの時に端っこのカリカリ食べちゃうんだよ。また、カリカリは焼きたてがおいしくてさー」
「わかりますソレ~!」
「それ、おいしそうね……!」
「秋麗も後で食べてみなさい、美味しいから!」
凝り性な上に美食家ばかりが揃った厨房は、成功の予感に早くも浮かれていた。きゃいきゃいとはしゃぐ様は、絵になる。方向性が違っても美人が集まると目の保養だ。
秋麗が本格的に椛から菓子作りを教わるようになったのは、ここ数年のことだった。そのうち、明歌も北欧料理に興味を持つようになり、最近は暇があれば二人きりの料理教室を行っていた。二人でも料理の出来に舞い上がることはあった。それでも、ここまで盛り上がらない。今日は恵毘守が参加したことでどこか空気がゆるく、はしゃぐのに拍車がかかった。彼の持つ雰囲気に影響されたようだ。
この日、なぜ恵毘守が参加することになったかというと、椛の身勝手な事情のせいだった。恵毘守によると、前前日、椛から恵毘守へ電話がかかってきたのだという。講義の連絡事項と他愛無い会話の途中で、椛はクリームチーズのストックがないことを思い出した。これ幸いと感じた彼女は、チーズを持って遊びに来いと恵毘守を誘ったのだそうだ。
「自分で買いに行ってもよかったんだが、その日はチーズを買いに行くより大事な用事があったのさ」
「椛さんってば、俺に材料任せて女の子と一緒だったんでしょー!」
わざとらしく嘯く姿も様になる椛に、恵毘守はチーズが十キロ入ったビニール袋を振り回した。もちろん、ケーキを作るのにそんなに量はいらないが、どうせ椛は使うだろうからということらしい。十キロも手にぶら下げてきた恵毘守へ、秋麗はこっそり羨望の眼差しを送った。
「じゃーん! 今日はサヴォイアルディも持ってきたんだ~」
「サヴォ……? クッキー、あ、ビスコッティって書いてあるね」
「イタリアのフィンガービスケットだな」
チーズケーキが焼けるまであと十分というところで、大仰に恵毘守が取り出したのは、袋入りのビスケットだった。
「ははーん、今日のチーズはマスカルポーネ(イタリア産のフレッシュクリームチーズ)だったし、アレか」
「ですよ~」
「え、な、何?」
何か解った風な椛と、歌いだしそうな表情の恵毘守を、秋麗は交互に見遣った。
「へへ~。今日はですね~ティラミスも作っちゃいますうよ~!」
ばりりと袋の口を開けながら恵毘守が答えた。
「マンマの作る簡単ティラミス、てやつだな」
「うん、それ! ちょーかんたんにできるんですよ。秋麗さんに教えてますね~!」
「本当! ありがとう!」
ティラミスも秋麗の好物だったが、レシピまではおぼえていなかった。チーズケーキがあるのに、さらにティラミスまでと思わなくもなかったが、美味しくて簡単な料理を秋麗は見逃せなかった。
「このビスコッティを使うから、わざわざスポンジ焼かなくっていいんですよ~」
銀色のバットにビスケットを丁寧に並べながら、恵毘守が説明する。その横で秋麗はメモを取り、さらに向かいでは椛がエスプレッソを淹れる準備を始めた。スポンジ代わりのビスケットに染みこませるためのエスプレッソだ。エスプレッソ淹れるのに、今回はエスプレッソ・マシーンではなく、マキネッタを使うようだった。
「あれ? 椛さん、マキネッタ買い換えたんですか? 前のよりちっちゃいですね~」
「ああ、これでも足りるだろう。前のは先月春波と喧嘩した時に巻き添え喰らってしまって……」
「……彼が厨房に入ってくるなんて、珍しいね」
「千晴さんと手酷くやりあったらしくて、いつも以上に機嫌が悪くてな、アイツ。紅茶は自分で淹れるとか言い張って、抵抗するのが面倒になってしまってな」
「で、結局ここでドンパチと……」
「ご名答」
「言ってくれたら、マキネッタも持ってきましたよ~」
眉を下げてため息をついた椛に、恵毘守が慰めるように言った。秋麗も以前、椛からマキネッタを貰ったことがあった。マキネッタとは、イタリアの家庭でよく使われる、お手軽エスプレッソ抽出器だ。
「今日はどのリキュールにしようかな~」
「ティラミスならグランマニエ、アマレット(の種の核(仁)のリキュール。アーモンドの風味がする)、マラスキーノあたりが私のオススメだ」
椛が恵毘守のレシピを補足した。イタリアは鼻歌を歌いながら、リキュールのボトルが並んだ棚を物色している。マスカルポーネと混ぜるためのリキュールは、経験者の椛と恵毘守による短い協議の結果、アマレットになった。厨房にエスプレッソの濃い香りが漂う。うっかりチーズケーキの存在を忘れそうになったところで、オーブンのタイマーが焼き上がりを告げた。
「できたー!」
三人揃って叫ぶと、いそいそとレンジの前に並んだ。
「よーし、出すぞー!」
「あ、待って。バットよけるね」
「あ、どうも~」
作りかけのティラミスのバットを秋麗が除けたところで、椛がオーブンを開けた。
「いいにおーい! 焼き色もいい感じですね~!」
「食べるまでが料理だけど、これは間違いなさそうねぇ」
「たぶん、いやいや、私が教えてお前が作ったんだし、間違いないぞ! ちなみに端っこのカリカリは、長方形の型を使った方がいい感じにできるかもな!」
エスプレッソの匂いを押し戻すように、チーズケーキ独特の香りが鼻腔をくすぐる。
「カ、カリカリ、食べたい……」
「待て! お前、指火傷するぞ!」
「秋麗さん、いくら何でも焼きたてすぎますよー!」
「私も大和撫子の端くれだし! 何のこれしき!」
我慢できずに、秋麗は型から少しはみ出ていたカリカリ部分を摘んだ。
「……すっごく……おいしい……」
「わー! お、オレもー!」
「こら馬鹿、まだ駄目だ! お前がやったら泣くぞ!」
椛が間一髪でケーキを恵毘守の手から遠ざけた。
「うわーん!」
「泣くな! 泣いたら歌留多姉さんとかが来そうだ! いやきっと来る!」
「そのフレーズやめて下さい! しばらく歌留多さんをまともに見れなくなります!」
「氷上君、私が言うのもなんだけど、このケーキはお腹を空かすともっと美味しくなると思います」
「お前が言うな!」
あまりない椛の手厳しいツッコミにも、秋麗の弛んだ口元は直らなかった。
「ほらほら恵毘守、ティラミスの続きをやろうじゃないか。秋麗はさっさと卵白を泡立てなさい」
普段はボケ役の椛が珍しく場を仕切る。恵毘守はぶーぶー言いながら、マスカルポーネと他の材料を混ぜ合わす作業を再開した。秋麗は泡だて器を手にした。窓から入る夕日が全てをオレンジ色に染めている。薄く漂う秋の匂い。今日はこのチーズケーキとティラミスが晩御飯でも構わないと思ったのだった。
お菓子も飯テロに入るということを、最近知りました。ご飯だけじゃないんですね。