虫火
夜、夕食を済ませ、ただ何をするでもなくテレビを見てい ると、耳元に不快な音が聞こえた。
私にまとわりつくかのような、羽音。
小さな羽虫の類いかと思いもしたが、ふと腕を見ると赤く腫れている。
…藪蚊だ。
まだ6月に入ったばかりだというのに、もう藪蚊の出る時期になってしまったのか。
年々の温暖化で、発生時期が変わってきているとは聞いてはいたけど…。
この家の中に容易く蚊が入ってきた理由は簡単だ。
何時ものように縁側で宮比さんが喫煙しているのだが、何故か窓も開けっぱなしにしているせいだ。
今までは気にしていなかったが、ここ最近、部屋の中に侵入してくる虫が多く、多少辟易していた。
「宮比さん、窓くらい閉めたらどうなんです?もう蚊が出てきてるみたいですし。灯りに惹かれて、家の中が虫だらけになりますよ。」
「あ?…ああ、そうだな。」
上の空で返事をする。 その宮比さんも、腕等を中心に幾つか蚊に食われていた。
ただ縁側でじっとしている人間など、格好の餌食でしかないのだろう。
「取り合えず、蚊取り線香とかないんですか?」
「ん…一応、大分昔に買ったやつが押入に入ってるが…。 」
そこで口を閉ざす宮比さん。
あまり蚊取り線香を使うことに気が乗らない、といった風 だ。
この人は、がさつな性格なわりに、虫には妙に優しいところがあった。
小さな虫でも決して叩き潰したりはせず、窓から逃がしたりしている。 極力、殺さないようにしているようだった。
「じゃあ、私が持ってきますから…、良いですね?」
虫にも五分の魂が有るとかいうが、この痒さには耐えられない。
これ以上被害がでないうちに、何とかしなくては。
妙な使命感を抱きつつ私は押入に行き、中から蚊取り線香や痒み止めの薬を取り出す。
居間に戻ると、宮比さんが食われたところを掻いている姿が目に映る。
先程より腫れている部分が増え、見ているこっちの身体が痒くなりそうだ。
「言わんこっちゃない…。マッチ、借りますよ。」
いつも宮比さんが喫煙に使っているマッチを手に取り、擦る。
不馴れなせいか、無駄な悪戦苦闘をしつつ、やっとのことで蚊取り線香に火を着けた。
その私の様子を横目で見つつ、宮比さんは相も変わらず喫煙を続けている。
煙を出している、という点ではこの人も蚊取り線香とおんなじか。
蚊を遠ざけるか近付けるか、という違いはあるけれど。
そう思うと縁側で煙を燻らせる宮比さんが蚊取り線香に見えてきた。
笑いを堪えつつ、その場を離れる。
それから暫くは、先程と同様にテレビを見ていた。
別に好きな番組ではないが、他にすることもないので、ただの惰性でそれを続ける。
蚊取り線香を着けてから、何分たった頃だろうか。
ふと、そちらに目をやると、丁度ポトリと一匹の蚊が床の上に落ちたところだった。
それは暫く六本の脚をばたつかせ、苦しそうにもがいていたが、やがて動かなくなる。
その様子が、少し罪悪感を私の中に芽生えさせる。
それによるものでもないだろうが、私の視線はテレビからそちらに移った。
動くでもない小さな対象を、ただ眺める。
その時。
ふと、小さな淡い光の球のようなものが蚊の死骸から浮かび上がった。
「…え?」
思わず口から、疑問の声が出る。
白熱灯の光に晒され、凝視でもしないと気づかない程に儚い光ではあるが、それは確かにあった。
光の球は少し左右に振れながら上昇し、天井に近くなったところで見えなくなる。
今の私は、他人に見られたら恥ずかしくなる程に呆気にとられた顔をしているだろう。
蚊の死骸に再び目をやる。
それは、さっきと変わらずにそこに落ちていた。
…今のは、一体何だろう?
そう考えてい間に、またポトリと床に蚊が落ちた。
先程のと同じように脚を動かしながら、もがいている。
これもまた、光の球を出すかもしれない。
そう思った私の行動は速かった。
「宮比さん、ちょっと灯りを消しますよ!」
「おう、良いぞ。」
私の突然の言葉に、宮比さんはあっさりとそう言った。
普段なら突っ込みたい所ではあるが、今はそうもして居られない。
テレビを消し、部屋の灯りのスイッチを切る。
辺りは闇に包まれ、ただ蚊取り線香と宮比さんの煙管の火種だけが光を放っていた。
その時。
新たに一つ、薄黄色い光源が生まれた。
蚊取り線香の近くで生まれたそれは、蚊の死骸を中心としている。
この暗闇の中でさえ弱く、小さな光球は、ふわふわと居間の中を漂ったのち、突然爆ぜたかのようにして消えた。
「宮比さん、これは…?」
明らかに、普通の現象ではない。 これもまた、何らかの怪異の一つだろうと思い、私は尋ねる。
「“虫火”だよ。」
「むしび?」
今はただ赤い光と化している宮比さんをみる。
それが彼方此方に動いていたのを見るに、今、煙を吐いたのだろう。
「要するに、虫の魂だ。それなりに霊感のあるやつなら、どこでも見れる身近な現象だ。」
虫の魂。
言われれば、何だと思うようなものだった。
虫だって、生きている。
当然私たちと同じように魂を持っているだろう。
死んでしまえばそれは体を離れ、天に昇る。
それだけで、殆どの疑問は消えてしまった。
ただ一つ、最後の現象を覗いては。
「何で最後、爆発したかのように光が一瞬強くなるんです ?」
その問いには直ぐには答えず、宮比さんは一息煙を吐く。
「…夕、お前虫の幽霊を見た、若しくは見た話を聞いたことはあるか?」
疑問に疑問で返されてしまった。
私はそれに答えるべく、少し考える。
しかし勿論見たことはないし、話にも聞いたことはない。
幽霊といえば人。
他には精々、哺乳類くらいのものだろう 。
「いえ、ありません。」
私の答に宮比さんがだろうな、と呟くと再び赤い光が動く 。
「私だって、見たことはない。まあまだ廻り合ってないとか、見落としてるとかそういう可能性も無くはないだろう 。でもな、私は虫の幽霊は、存在しないんだって思ってるんだ。」
宮比さんはこう言うとき、遠回しに話を進める癖がある。
結論だけ言えば良いのにな、と思わなくもない。
「魂ってのは、言ってしまえば精神体だ。そしてそれ単体では、この世に有ることさえ難しい。それはこの世が物質の世界であり、精神体の世界はあの世であるが故、さ。では何故、この世に幽霊が居るか。…それは強い感情が有るからだ。」
「強い感情?」
何時だったか、宮比さんが言っていた事を思い出す。
幽霊がこの世に留まるのは、憎しみや未練の感情が有るからだと。
強い感情のエネルギーが、この世での霊体の活動を可能にしている…とか、そんなところだろうか。
「それが負であれ正であれ、感情が無ければ、この世に魂は存在出来ない。虫に関しては…まあ虫にならんと解らんが、そこまでの感情は無いだろう、と言われている。」
漸く暗闇に目が馴れてきたお陰でうっすらと見えた宮比さんの視線は、どこか遠くを見ていた。
「幽霊と天に昇る過程にある魂とは、この世に存在する精神体と言う意味では、さして違いはない。…人や哺乳類等に比べ、遥かに感情の希薄な虫の魂はな、あの世に至る前にその形を保ち続けることが出来ずに、跡形もなく消えちまうのさ。」
あの蚊の魂が爆ぜていたのは、そのせいだったのか。
肉体が死に、魂となった虫は、それさえも失ってしまうのだ。
段々と先程の小さな罪悪感が、より大きくなっていく。
果たして、私にそれを奪う権利があるのだろうか。
彼らを完全に消し去ってしまう権利が。
自らに問いかけてみるが、答えは出てこない。
俯くと、そこからまた一つ、儚い光が生まれた。
それを、宮比さんは優しく包み込むように手で覆う。
けれども光はその手さえあっさりとすり抜け、天井付近まで上がると爆ぜて消えた。
「私がこれを知ったのは、丁度お前と同じくらいの時だった。祖父さんにつれられて、夜にどこかの野原に行ってな 。そこかしこから、蛍のようにこの光が浮かんでは、中空で消えていた。そして、その中で祖父さんがこの話をしてくれたんだ。多分、命について学ばせようとでもしてたんだろうな。」
私はその言葉を聞きながら、部屋の灯りを付ける。
床に何匹かの蚊の死骸が落ちていた。
物言わぬそれが、仇である私に抗議しているかのように、罪悪感を突きつける。
「…。」
「あんまり落ち込むなよ、夕。別にこうやって虫を殺すことを、責めているんじゃないんだから。何より蚊に食われる痒さは、堪らんからなぁ。」
腫れたところを掻きながら、宮比さんは縁側から立ち上がり、部屋に入る。
そしてすれ違いざまにぽん、と私の頭に優しく触れた。
「…宮比さん。生きるって、なんなんでしょうね。」
命。
自分、他人、動物、植物、生きとし生けるもの全てが持つもの。
そして、後代に継がれていくもの。
命を紡いでいった先に、何があるというのか。
そして、その過程に生まれた自分は何だろう。
自分が自分として、この世に在るのは何故なのか。
考えれば考えるほど、自分が解らなくなっていき、恐怖さえ感じてくる。
「さあな。私が同じ質問をしたときは、祖父さんは“死ぬときになればわかる”って言ってたけど…祖父さん、解ったのかなあ。」
宮比さんの呟き。居間から出ていく足音。
そして私は、一人残される。
生きるとは、何なのか。
答の出ない疑問を、何回も反芻しながら立ち尽くしていた 。
“死ぬときになればわかる”
先程の宮比さんの台詞がまた、頭のなかに響いた。
私が知るのは何年後か。
明日かもしれないし、100年後かもしれない。
…貴方達には、解ったの?
私は一点を見つめたまま問う。
床に落ちた蚊の死骸は、何も答えてはくれなかった。