百年桜
それは、大型連休最終日のことだった。
明日からまた学校が始まる、という事実に気怠さを感じながらテレビを眺めていると、不意に電話の呼び出し音が鳴り響いた。
縁側に腰を掛けていた宮比さんは面倒そうな顔をして立ち上がり、電話の側に歩み寄って受話器をとる。
「もしもし、原江ですが…て、何だお前か。何の用だ?」
不機嫌さを少しも隠さない声音だった。
唯一の楽しみともいえる喫煙の時間を妨げられたからだろう。
話が進むにつれ、それが更に不機嫌さを増していく。
「あぁ?仕事ぉ!?今からって、幾らなんでも急すぎだろがよ!」
電話の向こう側の相手に、女気のまるで感じられない言葉使いで怒鳴り散らす。
こうも怒りを露わにされると、此方も気が滅入ってきそうだ。
誰に向けるでもなく、私はため息を吐く。
「あ?おい、新香!?ちょっと待……くそっ!!」
がちゃん、と大きな音を立てて受話器が元居た場所に収まる。
電話の相手は新香というらしい。
名前からして女性だろうか。
電話を終えた宮比さんは怒りも冷め遣らぬといった風で外出の支度を始める。
といっても、上着を着こむ程度のものであるのだが。
「…仕事行ってくる。」
不貞腐れながら、それだけを言う。
いってらっしゃい、という言葉が出かかったが、寸でのところで私はそれを呑み込む。
よくよく考えてみると、宮比さんが仕事に出掛けるのをみるのは、これが初めてだ。
いつも家に居て、居間で寝てるか縁側で煙管を吸っているか家事をしているか。
外出するのは買い物時位のものだった。
「どこにいくんですか?」
「ちょっと本土の方にな。」
俄然、好奇心が湧いてくる。
美琴ちゃんに影響されてきた、と言えるのかも知れない。
どんな仕事か、どのような仕事ぶりか。
知りたくないと言えば嘘になる程度には、興味を持った。
「…付いてきたいのか?」
それが顔に現れていたのか、宮比さんは言った。
私は直ぐに大きく頷く。
やっぱりか、といった風に宮比さんは溜め息をつく。
最早、それを止めるように言うことさえしない。
止めても聞かないことを、重々知ったのだろう。
「なら、直ぐに支度しろ。只でさえ急な話なんだ。さっさと終わらせたいんでな。」
大型連休最終日。
夏の始まりを告げるかのような、妙に暑い日だった。
行き先は、意外と遠い場所だった。
電車に乗り、山をひとつ越えたところにあるらしい。
新緑の木々、流れる小川、切り立った崖。
車窓から見える景色はどれもが新鮮で、ちょっとした旅行をしているような気分になれる。
「間もなく、白川、白川…。お降りの際はお忘れものの無い様、御注意下さい…。」
車内アナウンスが流れる。
私たちの降りる駅は、この次だ。
宮比さんを見ると、寝ているのか目を閉じていた。
道理で静かだと思った。
乗りはじめの頃はぶつぶつと文句を垂れていたので、多少付いてきたことを後悔するほどだった。
この人は生来、働くのが嫌いなのだろうか。そう感じずにはいられない。
白川駅を過ぎてから程無くして、私たちの降りる駅についた。
宮比さんは寝過ごすのではないかと気が気で無かったが、車内アナウンスが鳴ると同時に起きてくれた。
寝覚めが悪く、無理に起こすと此方に被害が及ぶため、どうしようかと悩んでいた私は胸を撫で下ろす。
駅の改札口から町に出ると、私の頬を風が撫でた。
アスファルトに覆われた街のものと違い、自然に囲まれた町の風はとても涼しい。
小島に住んでいる身としては、四方が山に囲まれているのも新鮮だ。
「…あっち、か?」
方向音痴の気がある宮比さんが地図を見ながら指差す。
それは出掛ける直前、ファックスで送られてきたものだった。
横から地図を見てみると、持ち方がまるで逆である。
「宮比さん、北はこっちです。」
指摘すると、顔を赤くして地図を私に放った。
「ああもう、お前が見ろ、夕。私には解らん。」
それは恥ずかしさによるものと言うより、怒りによるものらしい。
…今まではどうやっていたのだろう。
そんな疑問は口に出さず、言われた通りに地図を広げ、方角や目印になる建物を便りに見知らぬ町を進む。
10分も歩くと、目的地と思しき赤丸の書かれた場所にたどり着いた。
「彼処が依頼主の家みたいですよ。」
「…でかいな。金持ちか何かか。」
宮比さんがそう呟いた通り、それは豪邸とも言えるほどの大きさだった。
高い塀、立派な門構え。
庭に植えられているのであろう松や桜の木が幾本も延び、更にそれよりも高い位置に瓦屋根が見える。
一生、私なんかは住めない家だろう。
「おい、夕。口を閉じろ。」
呼鈴を押しながら宮比さんが言った。
慌てて手を口にやる。
どうやらその大きさに呑まれ、放心していたらしい。
暫くすると門が開き、中から初老の男性が顔を出した。
「すみません、この暑い中ご足労戴いて。ささ、どうぞ中へ…。」
導かれて家の中に足を入れる。
外から見た通り、中も立派な造りだった。
長い廊下、沢山の部屋。
通ったところだけでも、この家の広さが伺えた。
やがて客間と思しき部屋につき、敷かれた座布団に促されるまま座る。
「ええと、二人で来られるとは聞いておりましたが…此方のお嬢さんは?」
「私の姪です。訳あって預かっているのですが、仕事に行くと言ったら付いてきたいと駄々を捏ねまして。御迷惑であるなら、直ぐに追い出しますが。」
宮比さんのその物言いに、男性は慌てて手を振る。
「い、いえとんでもない。大した話でも無いですし、大丈夫ですよ。」
宮比さんに圧倒されているのか、吃りながら言った。
堂々とした振舞いというより、礼儀が今一なっていないのだろうが。
「それでは、早速話に入りましょうか。今回当方に依頼された理由は…?」
「は、はい、その、何と言いますか…わたくし此れでも地主でして、ここ周辺に土地を持っているのですが…。その一つの山に、不気味なものが御座いまして…。」
男性が4枚の写真を取り出す。
それは一昨年辺りに撮られたものだった。
どれもが同じ風景を写しており、私はその異様さに息を呑む。
撮られていたのは、一本の桜の木だ。
一枚目は日付から春に撮られたとわかる。
二枚目。
日付は7月。夏に撮られたものだ。
東北地方の山ともなれば、多少遅咲きの桜もあるかもしれない。
北海道では7月に桜が咲くと聞いたこともある。
しかし、残りの2枚は異常だった。
周りの木は紅く色付いているのにも関わらず、自身は桃白色の花を咲かせ、また雪に覆われても変わらず花を咲かせる姿が写っていた。
つまりこれは──
「ふむ、これは一年中、花を咲かせているんですか?」
「いえ、一年中どころではありません。かれこれ私の祖父の子供の頃からと聞きますから、もう100年にはなろうかと…。」
100年間、咲き誇り続ける桜の木。
確かにこれは綺麗だが、不気味なものでもある。
「今までは放っておきましたが、流石に家族皆が不気味がっておりまして。それで依頼をした次第であります。」
「御家族の方々は今何処に?」
「今は旅行にいってます。今日の夜辺りに帰ってくるかと。」
皆が旅行に行っている中、一人残ってこの桜の対処をさせられているのか。
この人の、家族内での立場が何となく解った気がした。
宮比さんは暫く4枚の写真を眺め、口を開く。
「…この桜、何か曰くでもあるのですか?」
「強いていうなら、これは祖父の弟が庭の桜の枝を植えたところ根付いたものと聞いております。弟は植えてから間もなく病死したらしく、その怨念か…と言われたりはしますが…。」
因みにあの桜です、と男性が庭の老木を指差す。
庭の中心に鎮座するそれは、樹齢数百年にも及ぶものに見えた。
「あれは染井吉野ですか?」
「いえ、江戸彼岸です。染井吉野は寿命が短いので、あそこまでにはならないんですよ。」
取り合えず知っている桜の名前を言ってみると、男性は丁寧に教えてくれた。
別に桜の種類に興味は無いが、自分の頭越しに話が飛び交うのが、少し寂しかった。
「あ痛ッ…!」
「大人の話し合いに口を挟むな。」
こつん、と頭を軽く殴られる。
意外と仕事に対する姿勢はしっかりしているのか。
そのわりに、座り方は胡座だが。
宮比さんは煙管を取り出し、火を点けるでもなくくわえる。
そして4枚の写真を再び季節順に眺め、立ち上がる。
「事情は解りました。しかし写真だけではまだなんとも言えませんね。宜しければ、その問題の桜の所まで案内して戴けませんか?」
桜の木が有るところは、この男性の所有する山の中。
…もしかしなくても、山登りになるだろう。
私はまた、付いてきたことを後悔した。
「おい夕、早くこい。置いてくぞ。」
上の方から宮比さんの声が聞こえる。
山は険しく、体力の無い私にはとても辛い。
明日から筋肉痛になるかもしれない。そう考えると、益々学校に行きたくなくなる。
「すいません、手入れもしてないので、登りづらい山でして…。」
「いえ、この子は運動不足気味でしたので、むしろ丁度良いですよ。」
何とか登り切ると、そこはちょっとした野原のようになっていた。
草は伸び放題で、私くらいなら腰まで埋もれてしまいそうだ。
少し先を行くと崖になっているようで、そこから町が見えた。
吹きすさぶ風が汗の滲む額に心地好い。
「あれが、写真の桜です。」
男性の指す方向に、見事に咲く桜の木があった。
今は5月初旬であるから、別に違和感はない。
ただ素直に、綺麗だと感じた。
「ふむ…。ちょっと触らせて貰いますよ。」
草を掻き分け宮比さんは木に近づく。
そしてぺたぺたとその表面を触り、撫で回す。
何だか医者が触診をしているかのようだ。
暫くそうしたのち、私たちの方へ向く。
「時間を頂けますか。そう…10分くらいですかね。その間、私には話しかけないようにしてください。」
手を木に触れさせたまま、宮比さんは両目を瞑る。
……もしかして10分間そのままでいる、ということなのだろうか。
男性もどうすればいいのか解らないようで、ただおろおろとしている。
「あの…どうして今頃になって桜をどうにかしようと思ったんですか?」
仕方ないので、私は男性に話し掛ける。
「ああ、いえ…実は祖父があの木を伐ることに反対していたんです。あれは弟の遺した大切なものだから、とのことで…。父もそれを守り、残していたのですが、その父も一昨年に亡くなり、それから程無くして家族内でどうにかしようという話が持ち上がったんですよ。」
男性は沈痛そうな面持ちで語る。
恐らく、祖父や父が大切にしてきた桜の木を、不気味なものであるとはいえ伐りたくないのだろう。
それから数分後、漸く宮比さんが目を開き、木から手を離して私たちの方へと戻る。
「お待たせしました。…結論から言いますと、あれは放っておいても大丈夫です。」
男性はただきょとんとしていた。
私も解らないことが多すぎて、同じような顔をしていただろう。
「あの…それはどういう?」
恐る恐る男性が聞き返す。
宮比さんは、あの桜がああなった次第を語り始める。
あの桜の木は前の話通り、祖父の弟が植えたものだ。
ここは祖父とその弟の秘密の場所で 、厳密に言えば二人で一緒に植えたのだという。
ただ、兄である祖父の方はすぐにその桜への興味を無くしてしまった。
一方、弟はというと、毎日のように水を与え、話し掛け、それこそ我が子を世話するかのような風だった。
「…それで、その弟が言ったらしいんです。“お前が咲かせる花を、見てみたい”というようなことを。しかし花を見る前に弟は病死してしまい、それを知らない桜の木はいつ彼が来ても良いように、ずっと花をつけるようになった。…まあ、そんなところみたいです。」
100年間。
それほどの長い間、花を保ち続けた理由は──
余りにも、細やかなものだった。
「何で…」
男性が、口を開く。
「何でそれを貴女は知り得たのですか…?」
当然の疑問。
口からの出任せかもしれない。
そんなことをする人ではない、と知っている私ですら、一瞬それを疑ったから。
宮比さんは頭を掻きながら、答える。
「──証明出来ないので、信じる信じないは貴方次第です。私は生来、触れたものの過去を見ることが出来るんです。厳密に言うなら、そのものに宿った魂を感じているのですが…器物なら九十九の魂、木なら木霊といった具合ですね。」
「…。」
「まあ、だからこそこんな仕事をしているんですがね。…とにかく、この木をどうするかは貴方が決めることです。先述の通り、放っておいても問題はない。…ただ、私としては、止めさせてやりたいと思っています。」
男性はただ黙っている。
腕を組み、難しい顔をしていた。
しかしやがて、何かを決心したかのように大きくうなずいた。
「実は、もう家族内では伐ることに殆ど決まっていたのです。私が貴女の方に話してみる、と言ったとき、金の無駄だから止めとけと言われたのですが…私も祖父や父同様、この桜を守りたい。だから、お願いします。どうか止めさせて下さい。」
「…解りました。それでは早速、取り掛からせていただきます。」
再び宮比さんは桜の元に歩みより、手を触れさせる。
また、同じようにするのだろうか。
そう思ったが、今度は目を閉じず、変わりに口を開いた。
「…さっきは、有り難うな。お前の過去を見させて貰ったよ。そんな風に、咲き続ける理由も解った。」
それは男性に向けられたものでも、私に向けられたものでもなく──
明らかに、桜の木に向けられた言葉だった。
まさか、止めさせる方法というのは説得の事だったのだろうか。
「随分と忠義者だな。ただ一目、その子に花をみてもらいたいが為に100年も咲き続けるとは…。並大抵の苦労では無かっただろう?」
当然ながら木は黙したままで何も語らない。
けれども宮比さんは構わずに続ける。
「…けれどな、それはもう叶わないんだ。人里離れた場所で育ったお前には解らないのかもしらんが、人はお前達程に長生きは出来ない。…その子はもう、ずっと昔に死んでしまったんだ。」
その時、一抹の風が吹いた。
木が揺れ、ざわざわと枝が擦れ会う音がなる。
「…認めたくない気持ちは解る。だが、お前は此れからも来はしない彼を待って、咲き続けるのか?折角その子に繋ぎ止められたその命を、あたら無駄に使うというのか?彼はそんなことを望んではいないだろうに。」
優しく諭すように、宮比さんは語りかけ続ける。
しかし桜の木に変化は見られなかった。
依然として、見事に咲き誇っている。
「…見かけによらず、強情なんだな。いや、だからこそ100年間も咲き続けれたとも言えるか。解った。これ以上はもう、私は無理強いはしない。ただ最後に一つだけ、聞いてほしい話がある。」
そこで宮比さんは一呼吸おいた。
最後の締めに、入るのだろう。
「…生き物はな、死ぬと天国に行く。それは空高くにあって、下界を一望できる楽園だ。そこから、彼がお前を探さないと思うか?お前が100年保ち続けたその自慢の花が、空から見えないと思うか?もしもそう思うのなら…気の済むまで、咲き誇り続けるがいいさ。」
話を終えて、此方に向かって歩み始める。
変わらない桜の木を見て、私と男性は説得は失敗したのだ、と感じた。
しかしその時、先程より一段と強い風が辺りを吹き抜ける。
…その光景を、私は生涯忘れないだろう。
──一瞬にして一斉に、桜の花弁が風に乗った。
幾百、幾千という数の花弁が、一斉に散ったのだ。
たちまち視界は桃白色に覆われ、何も見えなくなる。
しかし、それもまた一瞬。
風が通りすぎた後、残されたのは花を無くした桜の姿だった。
「…花が、散った。100年も咲き続けた、桜の花が…。」
男性が呟く。
声は震え、両目からは涙が溢れていた。
それは、祖父や父が大切にしてきた桜の木を、自分の代でも守ることが出来た、という安堵感によるもの。
そして、桜の木の気持ちを察したが故のもの。
その両方によるものなんだろう。
「あ、有り難うごさいます!貴女に頼んで、正解でした…!」
宮比さんの手を取り、何度も何度も頭を下げる男性。
宮比さんは何だか恥ずかしそうに顔を赤らめ、頭を掻いている。
その姿を見ていると、私も不思議と嬉しさが込み上げ、自然と笑みが溢れた。
「兎も角、ここでの目的は果たしました。一旦、家に戻りましょう。話の続きはまたそこで…。」
宮比さんがそう言うと、男性は頷いて来た道を引き返していく。
その足取りは、来たときのものとはまるで別人のように軽いものだった。
「…おい、夕。私たちも帰るぞ。」
宮比さんは私の手を引っ張り、男性の後に続く。
その頭には、何枚も花弁がついていた。
「宮比さん、花弁がついてますよ。今度は宮比さんが花を咲かせているみたい。」
「…言っとくがお前も人の事は言えんぞ。」
頭に手をやると、一枚花弁がついてきた。
軽く指先で擦ると、ぽろぽろと崩れて消えた。
私は振り返り、桜の木を見る。
さっきまでの姿が嘘のように、みすぼらしく感じる。
「ねえ、宮比さん…。あの桜大丈夫かな…?」
「大丈夫さ。江戸彼岸は、強い木だからな。また来年には、見事な花を咲かせるよ。」
確信したかのように、きっぱりと断言をする宮比さん。
出来れば来年の春、また此処に来たいものだ。
──今までと変わらない、綺麗な花弁を開かせた姿があると信じて。