宍飯虫
ふと、妻が笑った。
私がその横顔を見ていたことに気付いてのことだろう。
酷く、儚げな笑顔だった。
昔から彼女はこんな笑い方をしただろうか?
少し考えてみたものの、直ぐには思い出せない。
元々病弱ではあるから、その身の上がそう見せたのかもしれない。
そう思い直し、あとは特に気にも留めず、私も笑いかける。
良く出来た、妻だった。
家事も良くこなし、料理も上手。
昨今、中々見ない程の良妻と私は自慢にしている。
…そんな彼女に、私は何も返せてはいない。
身を粉にしてまで私を支えてくれている彼女に対し、私は何もしてやれていない。
仕事に追われ帰れない日も多く、休みさえろくにとれない。
付き合い始めの頃とかと比べると、彼女もそう思っているかは知らないが…どうにも疎遠になっている気がするのだ。
この前も、出張で暫く家を空けてしまっていたため、殊更罪悪感が心の中でに育っていた。
それを和らげよう、という訳でもないが、その細く、白く、そしてしなやかな体に慰労の意を込め、手を掛けようと思った。
隣の椅子に座る彼女に、すっと腕を伸ばす。
「……。」
触れる直前、それはぴたと止まった。
止めたのではない。
直感的に止まったのだ。
自分でも突然なことに、些か戸惑う。
…どうしてだろう。
──もし私が触れてしまったら、この今が一瞬で壊れてしまうような気がしたのだ。
それから幾日か経って、一本の電話が家に掛かる。
それは、父からだった。
電話越しのその声は、どれくらいぶりのものか解らなかった。
大抵は母のものであるし、多忙ゆえに実家に帰ることもままならない。
だから、それがとても懐かしいものに感じたのだろう。
けれどもその感傷に浸る暇もなく、その内容は私にとって良いものではなかった。
「今日お前の所に人が来る。突然の事で済まないが、拒まずに家に入れてやれ。」
私に四の五の言わさず、それだけを言うと父は電話を切った。
…一体、何だというのだろう?
久しぶりでも解るくらいに、沈痛そうな声だったのも気になる。
何か私はやらかしてしまったのだろうか。
そう思えてしまうくらいだ。
「…どうしたの?」
その妻の一言で私は我に帰る。
受話器から横へと視線を向けると、心配そうな顔で此方を見ていた。
見れば解るほどに、私は困惑していたらしい。
「…ああ、いや。その…父からでね。人が来るとかなんとかで…心当たりが無いから、戸惑っていただけさ。」
なんの偽りもない言葉を投げ掛ける。
すると妻はそう…とだけ答え、台所の方へと消えていった。
全く、冗談じゃない。
折角の休みを妻と過ごしていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
とは言え、無視することも出来ないだろうと、来客に備えて辺りを片付ける事にした。
それを見た妻は、「手伝いましょうか?」と言ってくれる。
「いや、たまにはこれくらいはやらせてくれ。お前にはいつも、世話になっているから。」
彼女を椅子に座らせておき、私はあちこちの片付けを進めていく。
そしてそれが粗方終わると、それを見計らったかのように家の呼び鈴が鳴った。
これが父の言っていた来客か、と思い、玄関へと向かう。
そして扉越しにそれと相対した時、私の心の中に、ちょっとした不満が生まれた。
この不意の来訪者のせいで貴重な私の休日が削られるのだ、という、少しばかり我が儘なもの。
ふと顔を覗かせたそれは、抑える事も出来ず、相手にその気持ちを吐露してやろう、という考えに変わった。
鍵を開ける。
がちゃり、と扉が開かれる。
そして、入ってきたのは──。
「ああ、どうも突然すみません。あなたのお父上から依頼を受けた、茅輪と言います。」
私のその意気が殺がれてしまう程に強面の男だった。
額にある、一文字の傷。
その眼光鋭い目付き。
予想外の事に次の動作に少し迷った私は、その唯一、男から感じられる優しさである声につられて、頭を軽く下げる。
すると、その背後からひょっこりと女が顔を出した。
そして男の隣に並ぶと、同じように頭を軽く下げる。
「同じく、原江宮比です。」
こっちはこっちで、その可憐な見た目と違い、妙に威圧感のある声…だった。
揃いも揃って、なんてちぐはぐな二人であろうか。
とは言え、やはり女性がいるとなると多少なり警戒を解くことができ、落ち着きを取り戻した私は「ああ、そうですか。」とだけ言って二人を客間へと案内する。
部屋にはいると、既に妻がそこに座っていた。
御辞儀をするも、それが見えていなかったのか、二人は特に反応もせずに宛がわれた席に座る。
「此方が家内です。」
今度は私がそう口添えすると、二人は漸く妻の方を見、挨拶を交わす。
そして何事か小声で内々の会話をした後、私を見据えて先ずは原江と名乗った女が口を開いた。
「ええと…今回こうして私たちが貴方の家にお伺いしたのがお父上の依頼によるものである…というのは先程述べた通りですが、私たちの仕事内容はご存じでしょうか?」
「…いえ、特には聞いておりません。」
「そうですか。まあ、そうですね…。率直に言いますが、私たちは 心霊現象や怪異についての事を取り扱っていましてね。信じる信じないは自由ですが…。」
その言葉に、私は内心嘲りの笑いを漏らす。
心霊。怪異。生まれてこのかた、そんなものを信じた事がないからだ。
そんな事を言う連中がまともであるとは思えないくらい、一種の差別的な感情すら抱いている。
けれども同時に、一つの疑問が生まれた。
父も私と同じく、そんな事は一切信じない質であった筈だ。
忘れてならないのは、彼等が父の意向でやって来たということ。
…何があったのかは知らないが、無下に断るのも気が引ける。
「…はあ。それで、そのような貴方達が何故私の所に?別に霊障に悩まされているとかはありませんが…。」
「まあ、そうでしょうね…。」
そうとだけ言って、女は口を閉ざす。
すると入れ替わるかのようにして茅輪という男が話を続ける。
「…貴方は自分が気付かずして、霊障と接している──と言って、信じて貰えるでしょうか?」
「…?」
何をバカな、と言おうとして、私の心の中に違和感があることに気付いた。
ああ、そう言えばそうだった。
どうも最近、妙な感情が私を支配するときがある。
今の自分を取り巻く環境が、本当の、真実のものではない様な気がする。
それは何時も、妻といるときにふと感じるのだ。
「…。」
黙って妻の方を見る。
その瞳は、私の方を見てなく、ただ、誰もいない虚空を眺めていた。
「…正直言って、これは私たちがどうこうできる問題でもありません。貴方自身がどうにかしなければいけないのですよ。」
そうだ。
何故、私は彼等が来る前に部屋を掃除していた?
──部屋が、汚れていたからだ。
では何故、部屋が汚れていた?
──誰も掃除をしないからだ。
自分が自慢したくなるほどに、良くできた妻がいるのに何故──。
そっと手を伸ばす。
前に、触れてしまえば今が壊れてしまいそうだからとやめた行動を、ふとしてみた。
やはり、触れそうになると拒みたくなる。
触れてしまえば、幸せが消えてしまうような気持ちに苛まれる。
…けれどもこれは、乗り越えなければいけないのだ。
意を決して、何時ぐらい振りかわからない、彼女に触れる、という行為をした。
──その一瞬、妻の頬を涙が伝った気がした。
「……!」
突然、私はバランスを崩す。
触れるかと思ったその瞬間、それに質感が無いことに気付いたからだ。
そのまま椅子から転げ落ちるようにして、私は倒れ込む。
左手は床に、右手は妻の座っていた筈の椅子に強く叩きつけられる。
右手に、何か柔らかな感触がした。
ぐちゃり、と小さな餅のようなものが潰れたような気味の悪い感触。
男の方が私を助け起こし、先程のように椅子に座らせられる。
ふと、右手を見てみると、変な液体がこびりついている。
そして、次に妻の方を見る。
いない。
ただその座面に数匹の幼虫のようなものが潰れて体液を滴らせている。
「何だ、これは…。」
私はただ、そうとだけ呟いた。
気色悪いとかそういった感情も不思議と湧かず、己の掌を見つめる。
妻は一体、何処へ行ったのか。
「…宍飯虫、という蠱毒がいます。」
男が、その疑問に答えるかのように言った。
私は掌から、彼の方へと視線を移す。
「言うなれば、蛆の蠱毒…。宍とは人肉を意味し、その名の通り、人肉を食します。」
「…。」
「まあ人肉というか、腐肉やら生ごみやらを食らう。そこは普通の蛆と変わらない。」
バトンタッチするかのように、今度は女の方が話始めた。
「では何処が普通の蛆と違うかと言いますと…食らった肉の持ち主に化ける、というよりその幻覚を見せるのです。これは一種の擬態である、と言われていますが…。」
「あぁ…。」
その言葉で、私は大筋を察した。
いや、思い出したのだ。
今年の夏の、あの悪夢のような出来事を。
出張で暫く家を空けていた私が帰宅すると、台所で妻は倒れていた。
元々病弱で、心臓に持病を抱えていた故かの、突然死。
そのまま時間が経っていたのと、夏場ゆえに彼女の体は──。
「…貴方の奥さんの話は、聞いています。恐らく、その中に宍飯虫が混ざっていたのでしょう。そして──。」
…そうか。
失意の中にあり、精神的に参っていた私に寄り添って、そして妻に擬態することで生き長らえていたのか。
そうして妻が亡くなったにも関わらず、まだ生きているかのように振る舞う私を、不審がらない筈がない。
だから、彼等がここに寄越されたのだ。
「…ふっ。」
自然と、口から笑いが漏れた。
思い返せば返すほどに、何とも滑稽な話ではないか。
自分のせいで妻を死なせ、あんな姿にしておきながら、尚も生きていると思い込んでのうのうと暮らしていたとは。
これが、嗤わないでいられるか。
私は暫くそのままに、二人の前で嗤い続けた。
自分自身の騙され続けた愚かさを、妻であったものの残骸を見詰めながら──




