蓑虫藤次(後編)
目を覚ますと、部屋の窓から光が差し込んでいた。
僅かながらの夢ではあったが、現実ではこんなにも時間がたっていたのか、と少し驚く。
…しかし、しくじった。
夢の中での自分の行動を、私は悔やむ。
自分で自分の寿命を縮めていたら世話がない。
顔に手を当てながら、私はゆっくりと体を起こす。
(……ん?)
何か、妙な臭いが部屋の中を漂っている気がした。
それは、つい先程まで嗅いでいたもの。
…腐臭か?
夢から覚める直前、染み出ていた液体が身に掛かったせいだろうか。
だがあれは夢の中の出来事。
現実にまで影響を及ぼすとは考えたくもないが…。
…まさか、私自身が腐敗しはじめているわけではあるまいな。
蓑虫藤次に憑かれた者の末路を思いだし、私は少し身を震わせる。
真っ先に風呂場へ向かい、何時もより念入りに体を洗って、朝食の支度に取り掛かる。
しかし、そこで自身の異変に気付く。
…何だか、体が怠い。
やはりあの縄を一気に切らせたのが影響しているのだろうか。
まさに、あれは私の命綱であるらしい。
夕や和男に朝食を食べさせた後、昨日と同じように仕事場へと向かう。
流石に全ての行程を走って行く元気もなく、何時もより時間をかけて目的地にたどり着いた。
「あっ…み、宮比さん。その…どうですか?体は、大丈夫です?」
扉をあけ、此方を見るなりそんな心配そうな声を出したのは新香だった。
どうやら、尾白さんは彼女に私に憑いている者の正体を知らせたようだ。
そして、新参の彼女さえもその恐ろしさを解っているのだろう。
真っ青な顔をしている。
「まあ、こうして生きていられる程度には大丈夫さ。」
立っているのさえ辛くて、どっかと自分に宛がわれている椅子の上に腰を下ろす。
そして、昨日そのままにしておいた本の一つに手を伸ばす。
「宮比よ。なにか進展はあったか?」
同じように何らかの古書に目を通していた尾白さんが口を開いた。
ああ、寿命が縮まりましたさ──とは、とても言えなかった。
馬鹿者と怒鳴られるのが目に見えていたし、こう言うときでさえ彼が怖い。
だから、特に何も、と答えるに留まる。
「でも、宮比さんなら話を聞けるんじゃないんですか?」
「いや、それは私も思ったんだけとさ…奴さん何も喋らずただ泣いてばかりいやがんの。話にもならんよ。」
「泣いて…?藤次郎は泣いていたのか?」
そこに食い付いたのは尾白さんだった。
確かに、そんな伝承はなかったはずだから、初耳だったのだろう。
「ええ、男泣きに泣いてましたよ。」
「ふむ…なるほど、やはり何か無念な事があったのだろうな。そこが解れば、成仏してくれるとは思うが…。」
んなもん知るか、と取り憑かれた身としては言いたかった。
人々を死に至らせてまで、自分の事しか考えないのか。
藤次郎には、侮蔑の感情しか抱けない。
取り合えず、焦点をそこに絞って調査を続けることになり、今日は仕事が無いのもあって三人で取り掛かる。
しかし、それでも特に目新しい発見はなく、ただ時間は過ぎ、読んでいない本も残り少なになっていく。
というか、どの本にも蓑虫藤次としての記述しかなく、生前の藤次郎についてはただ極悪人としか書いていない。
こんなのでは、何が無念なのかを知りようもなかった。
「本を当たるのも限界なんじゃないですか?それより、情報をまとめて推理してみるのはどうです?」
埒があかないと思ったのは私だけではなく、新香も同じだったらしい。
「でも推理っつったって、どうするんだよ?お前に推理力あるのか?」
「例えば、ですよ?藤次郎は権力者の娘に手を出して失敗、結果殺されたんですよね?」
「それはまあ、そうらしいな。」
なら、こんな推理はどうでしょうか!と新香は少し得意気に言う。
探偵にでもなったつもりなのか。
こいつ、推理小説とか好きだったっけ…?
「ひとつ前は、市内の女の子。そしてその次に宮比さん。そこにある共通点は女性!つまり、藤次郎は女に飢えているという事なんですよ!」
「…藤次郎による犠牲者の大半は男だ。」
ぼそりと呟かれた尾白さんの言葉によって、彼女の推理は跡形もなく消し飛んだ。
「そ、そうなんですか…?」
「ああ、それは私も知ってる。藤次郎が最も猛威を奮っていた時…たしか、殺されてから数年後辺りだったか、その時は犠牲者は殆ど男だったな。」
殺された恨みからか、その時は多くの人の夢に連続して現れたという。
数十人、という犠牲者の数は殆どそこに集中していて、それ以降は散発的な出現に止まっている。
「ちぇっ、いい線行ってると思ったんですけど…。」
「二人だけの例を取り出して導きだした推理の何処がいい線なんだよ。」
とは言え、女という着眼点は悪くないのかも知れない。
じつは恋仲としては悪くなく、連れ出そうとして見つかり殺されたという考えも出来なくはない。
しかし、そうだとしてどうすればいいのか。
その女もとうの昔に死んでいるわけだし…墓を見つけて一緒に弔えとでも言うのだろうか?
「そう言えば、藤次郎って犬や猫の死体と一緒くたにされたんですよね?」
「ああ、らしいな。」
「なんでそんなことをしたんでしょうかね?」
「どこで見た文だったか…確か畜生道に堕ちて苦しむようにとの考えから、そうされたらしいが…。」
記憶の断片を辿るように尾白さんは言った。
無論、そのような方法が正式に有るわけではない。
恐らくはその場での思い付きでそうされたのだろう。
「なら、これはどうですか?藤次郎は犬や猫、小動物が大嫌いで、一緒にされたのが心底嫌で出てきている!」
「…んな糞どうでもいい理由で憑かれたんじゃたまんねえな。」
とはいえ、完全に否定しきれないのが怖いところだ。
世の中、様々な人がいるように、様々な霊もいる。
下らない理由で取り憑いていた霊はごまんと見てきた。
(…いや、まてよ?そもそもの畜生道は──)
ふと、あることに気が付く。
畜生道とは、輪廻転生における六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)下層三位…三悪趣の一つだ。
生前罪多きものの堕ちる世界で、本能のみでしか生きられず、救いは少ない場所だと言われている。
正確には、仏教に於ける六道と民間信仰のそれとは大分違いがあるが…。
藤次郎が畜生道に堕ちるようにと願った人々は、奴が永劫苦しむようにと願ったのには違いない。
ただ──
(藤次郎程の悪人であるなら、ほっといても堕ちるようなところじゃねえか…?)
それを何故、無意味とはいえ畜生道に堕ちる様にとの思いを込めて、犬猫等の死体と一緒にしたのか。
古書に記されているその理由は、本当に正しいのだろうか。
私はふと、そこの矛盾に気がついたのだ。
「……。」
「どうしたんです?宮比さん。」
「悪い、ちょっと先に上がらせてもらうわ。」
「なんだ?急用か?」
そんなところです、と尾白さんに言って立ち上がろうとする。
しかし、腰を半ばまで浮かせたところで足に力が入らなくなり、再び椅子に体が納まってしまう。
(……!)
まさか、ここまで私は弱ってしまったのだろうか、と少し驚く。
いや、多分長時間座りすぎただけだ。
そう自分に言い聞かせ、今度はゆっくりと、全身の力を込めて立ち上がる。
「み、宮比さん…?」
「……いや、大丈夫だよ。んじゃあ…」
しかし言葉とは裏腹に、足元が覚束ない。
ふらふらとよろけながら、扉にぶつかるようにして辿り着く。
どうやら、かなり切羽詰まったところまで来ているようだ。
頭がぐらぐらとし、今朝の怠さはいつの間にか酔ったかのような気持ちの悪さに変わっていた。
…明らかに、酷くなっている。
「宮比さん、その…私が家まで送りますから…。」
比較的楽天家の新香が、深刻そうな表情で言う。
普段余り見ない彼女のそれが、自分の置かれた状況を切に伝えてくる。
それが堪らなく嫌で、鼻の頭を掻きながら、私は横を向いた。
「なんだよ、何時もは専属運転手か何かかと文句言うくせに…。」
「…私だって時と場合くらい、考えますよ。」
そう呟くなり、私の体を支えるようにして寄り添ってくる。
こうなると、その助けを拒むこともできない。
…正直、自分の情けなさと申し訳なさで一杯だ。
祖父さんも、こんな気持ちだったのだろうか。
ともかく新香の助けを借りて仕事場の急な階段を一歩一歩降り、側に停めてあった車に乗り込む。
「あの…宮比さん、すいませんでした。」
新香も運転席に乗り込むと先ずそう言った。
「あ?なにがだ?」
「いえ、その…宮比さんの窮状もよく理解しないで一人で馬鹿みたいなこと言ってて…。」
ああ、その事。
まあ確かに、推理自体は馬鹿みたいなもんだったが…。
と、その時、よく見ると新香の肩が小刻みに震えている事に気付く。
…まさか、泣いてるんじゃなかろうな。
「別に気にしてないよ。だから、お前も気にすんなよ。」
それに、お前の推理のお陰で一つの矛盾に気がつけた──と続けるつもりだったが、そこまで言うと逆に面倒な事になりそうだったから、止めておいた。
調子に乗りやすく、かといって、へまをすると凹みやすい彼女の性格を考慮した結果だ。
この言葉は、無事生き残れたら伝えよう。
そう考えながら、私は後部座席で寝転がった。
その後は特に会話もせず、家の近くまで車で乗り付けて貰い、降りるときもまた手を貸して貰う。
そして家に上がると、中で寛いでいた和男が驚いたかのような顔をした。
「お、おい、どうしたんだよ?」
「…いや何、ちょっと具合が悪くなってな。お前の言う通り、仕事休めば良かったかな。」
虚勢を張って、私は顔に笑顔を作る。
次にここまで付いてきてくれた新香に礼を告げた。
まだ悄気ているのか、何だか暗い表情のまま頭を下げると、和男に何事かを言って出ていく。
「…おい、今何て言われたんだ?」
「お前の看病頼むって…。」
「やれやれ、とことん病人扱いか。別にそんなに気にするほどでもないのにな。」
こういう負の感情は、得てして連鎖するものだ。
だからそれを吹き飛ばそうと私は努めて平気そうに振る舞う。
そして、手近にあったタオルを手にとって広げ、そのまま床に寝転んだ。
「お、おい、寝るならちゃんとしたところで…」
「いいんだよ、これくらいちょっと寝れば治る。」
本当は、自分の部屋にまでいく気が起こらなかったのだ。
下手に歩いてふらついて、余計に和男が心配し出すかもしれないし。
私は時計を見、夕食までまだ猶予が有ることを確認すると目を閉じる。
藤次郎に取り憑かれてから、三度目の睡眠。
最早奴に呼ばれているかのように、あっさりと夢の中へと、落ちていく。
「よう、また会ったな、藤次郎よ。」
流石にもう馴れたもので、私は自分があの森の中に来たことを知ると、袋を見ながらそう言う。
袋は、中にガスでも溜まっているのか妙に膨らんでいた。
どうせなら風船の様に浮いてくれれば助かるのだがな。
溶けた肉の漏れも今は無く、そのまま再び固まってしまったらしい。
「………。」
恐らくもう殆ど骨になってしまっただろう藤次郎は、相変わらず沈黙を守っている。
泣き声も、もう聞こえない。
「藤次郎よ、少しお前に聞きたいことが有るのだが…何故お前は、小動物の類いと一緒くたにされたのだ?」
「………。」
「本当に、お前を畜生道に堕とそうという理由だったのか?」
「………。」
「そもそも本当に、犬猫の死体と袋に入れられたのか?その事が無念でならないのか?どうなんだ、藤次郎よ?」
「………。」
今まで以上に、反応がない。
ぴくりとも動かないし、どうしたというのか。
(ちぇっ…。あてが外れたかな。まさか、今朝ので拗ねてるってこたァ、無いだろうし。)
私の気付いたその矛盾は、奴の無念には無関係だったのだろうか?
貴重な残り時間を無為にしてしまったことに、私は再び後悔する。
その残り時間は、どれくらいか。
気になった私は、枝と袋を繋ぐ縄に目を向ける。
「うへ、こりゃあ洒落にならんな…。」
思わず、そう漏らしてしまう。
それほどに、縄は頼りなくなっていた。。
縒り合わされた糸の幾本かで、漸く繋がっている程度。
寧ろ切れていないのが不思議であり、今朝より明らかに進行している。
起きたとき、既に私は死んでいるのではないか。
そう思ってしまう程だった。
ふと、そこで目を覚ます。
結局、何の収穫もなくあたら自身の寿命を縮めただけだった。
寝る前より体の怠さは酷くなっており、最早起き上がるのさえ辛い。
「あー…今何時だ?」
けれども、外の暗さから時間が結構経ってることを察し、無理矢理頭だけを動かして、時計を見る。
すると、それはもう普段なら夕食を食べているだろう時刻を指していた。
「あぁ、もうこんなか。夕飯の支度しねえと…。」
更に無理をして体を起こそうとすると、和男がそれを制止する。
「いや、良いって休んでろって。たまには店屋物でも 大丈夫だから…。金も俺が出すからさ。」
何時ものようなヘラヘラした様子は微塵もなく、心底心配したかのような顔をしている。
ああ、新香とおんなじだ。
その気遣いが、私がか弱い存在だと思わせる。
それが、情けなくて、申し訳なくて。
病床の祖父さんも、こんな感じだったのかな。
私があれこれと世話をしようとするのを嫌がっていた事を思い出す。
視線を横に向けると、直ぐそばに夕が、同じく心配そうな顔をしながら佇んでいた。
「…ああ、夕。帰ってたのか。お帰り。」
「あ、ただいまです…。」
その声も、戸惑いと不安を含んでいた。
夕には一番、こんな姿を見られたくなかったんだがな。
こいつを守ることを自分の指命だなんて勝手に思って、今日まで生きてきたが…。
恐らく明日には、自分はどろどろに溶けた腐乱死体と変わり果てるのだろう。
…もう、時間はない。
「今日も部活に行ったんですけど…柱女に憑かれまして。大変でしたよ。」
場に流れる陰鬱な雰囲気を嫌ったのか、夕はそう話を切り出した。
柱女。
己が見える人に取り憑き、その恐ろしい見た目で精神的に追い詰めてくる厄介な怨霊。
…まあ、対処法さえ知ってれば、大丈夫だが。
「ああ?柱女がこの辺りに来てたのか…。それで、どうしたんだ?」
「茅輪さんが祓い方を知っていたので、それで何とか 凌ぎました。蠱毒以外でも茅輪さんも頼りになるんですね。」
そこは憑き物の専門家の面目躍如と言ったところか。
…そうか、私がいなくなっても、和男がいる。
新香もいる、尾白さんもいる。
夕を頼める人は、沢山いるんだ。
その事に気付いた私は、視線を天井へと移し、ぽつりと呟く。
「…ああ、そうか。それなら、少し安心かな…。」
死ぬこと自体には、さして恐怖はない。
何より向こうには、祖父さんがいる。
また会えるのだと思い直せば、寧ろ楽しみですらある。
ただ、夕を残していくことだけが、心残りなのだ。
…そういえば部活と言ったが、また私には無断で何処か行ってきたのか。
その事を咎める元気も最早無いが、一応聞いておく必要はあるかな。
和男が何か、見逃してるかもしれないし。
そこはまだあてにならん。
「…ところでよ、何処に行ってたんだ?他にも変なの憑けてきたんじゃねえだろうな?」
「えっと、隣町の外れの森です。何か薄暗い森の中に 古木があって、その枝にロープが結ばれてて…。昔そこで誰かが首を吊ったとかなんとか…。」
夕のその言葉に、脳裏に光景が浮かんでいく。
薄暗い森の中。
古木。
枝に結ばれた縄。
それらが夢のそれと合致した瞬間、私の身体中に電気が流れたかのような衝撃が走る。
「おい、その場所詳しく聞かせろ!その木、どの町の どの森だ!?」
自分でもまだそんな力が残っていたのか、と思う程の勢いで身を起こし、夕の肩を掴んで揺さぶる。
突然の変わりように、夕は動揺を隠せないようだった。
「え?で、でも宮比さん、そんな身体で…。」
「いいから、早く!」
私の勢いに負けたかのように、夕は詳しい場所を話始めた。
そこは存外、ここから近い場所だった。
特に曰くのある話は無かったから、行ったことはないが…。
ともあれ、ぐずぐずはしていられない。
着替えもしないでそのままに、私は立ち上がって走り出した。
「あ?おい、宮比!どこに行くんだよ!?」
電話をしていた和男の横を通り抜けると、そんな戸惑いの声が聞こえた。
しかし、それも無視して私は家から飛び出す。
走って、走って、人目も気にしないで日の暮れた街を駆け抜ける。
さっきまでの不調が嘘だったかのように、身体が軽い。
まるで、導かれているかのようだった。
そして街を抜け、森に至る。
その威容を見て、私は確信した。
──間違いなく、あの夢に出てきた森だと。
中は真っ暗だったが、躊躇もしないで足を踏み入れる。
ここから先の道は、夕からは聞いていない。
それでも、何処に行けば良いのか、直ぐにわかった。
方向音痴の気がある私にとっては、驚くべき事だ。
そして、どれくらい森の中を進んだだろうか。
漸く、正に夢にまで見た場所に辿り着いた。
古木があり、その枝に縄がある。
麻袋はないが、長い月日に朽ち果てたか、風に飛ばされたのか。
どちらにせよ、それはどうでも良いことだ。
「…ここに居やがるな、藤次郎。」
そんな感覚がした。
見当たりはしないが、間違いなく、奴の死体…骨はここにある。
その場所も、私は見当がついた。
木の…この古木の根元にある、と。
動物に埋められたか、人為的なものかは解らないが、奴は埋められている。
そう感じた私は、石や木の枝を使って、そこを一心不乱に堀り始める。
すると、そこまで深くもない所から、骨の欠片などが多数出てきた。
(だが…いやに小さいな。小動物の骨か?)
明らかに人間の、成人男性のものではない。
更に掘り進めると、手にした枝に、かつんと固い何かが当たった。
そこを掌で撫でるようにして土を退かすと、面積のある、茶色いものが顔を出した。
…人間の頭骨だ。
「…やっと此方で会えたな、藤次郎よ。」
そう呟き、それに手を触れる。
夢の中では感じられなかったが、ここでなら、知れるかもしれない。
蓑虫藤次の、こうして人に憑く理由が。
私は目を瞑り、意識を集中させる──。
──昔々の有るところに、藤次郎という者がいた。
農民の出で、早くに両親を亡くし、自分の僅かばかりの田畑を耕して細々と暮らしていた。
うだつが上がらず、冴えない、地味な男だった。
…ただ、酷く優しい男だった。
人は勿論、小動物の類いにまで情を掛ける質で、そこにつけこむ不逞の輩も多く、生活は困窮していた。
そんな折、彼にも一つの幸福があった。
ある女性が、彼に惚れたのだという。
その、人一倍の優しさに惚れたのだそうだ。
何回も、何回も出会いを重ね、二人は愛を育んでいった。
けれども、そこには大きな問題があった。
その女性は、地元でも大きな影響のある家の娘。
しがない一農民の藤次郎では、不釣り合いも甚だしい。
その父親も娘が恋をしている事、それが貧民であることを薄々感づき、会うのを止めるように言った。
だが、一向に止める気配もない。
そこで、その父親は一計を案じた。
いや、一計と呼べるものか、どうか。
藤次郎を悪人にしたてあげる事にしたのだそうだ。
悪いことに、藤次郎は柄の悪い連中にも情を掛け、少なからず繋がりもあった。
当然、そういう噂も無くはなかったのだ。
その不逞の輩に金を渡して裏で悪事を働いていたと嘘の証言をさせたりした。
しかし、娘も幾度と出会いを重ねていたから、そんなことはないと突っぱねた。
そこで、その父親は最後の手を使った。
先程の不逞の輩連中を集め、藤次郎の家を襲ったのだ。
大人数で包み込み、叩き殺した。
そして、彼の飼っていた小動物の死骸と共に袋に積め、人気のない森の中に吊るした。
身の程も知らずに自分の娘に近づいたその男が、それほどに憎かったのだろう。
後日、娘に藤次郎の失踪を告げた。
人を雇うのに使った金を、彼に盗まれたと偽って。
最初からそれが目当てだったのだと、そう思い込ませるために──。
人々は、藤次郎の事を稀代の悪人と謗った。
しかし、それから僅かに数年後、奇妙な噂がたち、同時に死人が出始めた。
蓑虫のようなものが、夢に出る、と。
そして、それを見たものが次々と死んでいると。
被害者は皆、藤次郎を襲った連中だった。
無論、女性の父親も含んでいた。
その噂がたってから、人々は藤次郎は既に死に、怨霊となっていることを知った。
けれども当事者がいなくなり、藤次郎の無実を証すものもいなくなった。
その結果、稀代の悪人という汚名も晴らされることもなく、怨霊“蓑虫藤次”の存在だけが、有ること無いことの噂を含み、後世まで伝えられていったのだった。
そこで、私は我に帰る。
「……。」
頬を涙が濡らしていた。
それが酷く温かく感じるのは、それほどに自分の体温が無くなっていたからなのだろう。
身体の不調も既に治っている。
藤次郎が私から去ったという証拠だった。
──生き延びた。
その喜びがあるはずなのに、悲しみの涙が止まらない。
…藤次郎は本にあるような悪人でなかった。
いやむしろ、善人と言えるだろうのに。
後世の人々は、彼を極悪人と罵り、私も罵倒した。
そうして積もり積もった凄まじい怨念が、彼が助けを求めて取り憑いた人すらも死に至らしめていたのだろう。
藤次郎の無念も、無理はなかったのだ。
「藤次郎よ…。」
掘り出した彼の頭骨を前に、両膝と掌を土につける。
そして、私はゆっくりと頭を下げて、声を絞り出すようにして言った。
「すまなかった……。」
本に書かれている事だけが、真実ではない。
頭の中では、そう解っていた筈なのに。
私は暫くそのままに、心の中で何度も何度も謝り続ける。
その間にも涙は頬を伝って流れ落ち、柔らかな地面の中へと消えていった。




