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霧衣半裂

町が、濃霧に覆われていた。

夜半であることも相俟って、外は殆んど何も見えない。

これほどの霧は、間違いなく奴の仕業だろう。


「…そろそろ、行くか。」


そう、独り言を呟く。

夕はもう眠っていた。

起こしたら自分も連れてけと五月蝿いだろうから、なるべく音をたてないように、慎重に外に出る。

もう夏も近いと言うのに、霧のお蔭で随分と肌寒い。

本土へと渡っても、霧の濃さは相変わらずだった。

ぽつぽつと点在する街灯の明かりが、唯一道を示してくれる。

私はそれに沿ってただ道路を歩いていく。

田舎の夜中は人がいない。

増してこれ程の濃霧となれば言わずもがな、だ。

まるで町全体が寝静まったかのように思えた。


(…霧が、一層濃くなったな。)


海沿いの道に出たとき、最早一寸先さえ見えないほどに霧が濃くなる。

それはつまり、この霧の中心部に来たことを意味していた。

私はガードレールに手を掛けながら身を乗り出し、海を見渡す。

が、兎に角何も見えない。

せめて月明かりさえあればまた違うのだろうが、生憎今夜の月は雲に隠れてしまっていた。


「あれ?原江さんじゃないですか。どうしたんですか、こんなところでこんな時間に。」


不意の声かけに、私は振り替える。

二人組の人間が、そこに立っていた。


「お、確か磯竹くんと……えっと……あの、変な名前さん。」


「誰が変な名前ですか。椎名ですよ。長束椎名です。」


「ああそう、それさん。中学生がこんな時間に外出してる方がおかしいぞ。まさかお二人さん、出来てるのか?」


私のその言葉に、長束さんは即否定する。

余りの迅速さに、寧ろ磯竹くんが可哀想に思える。


「ちょっと個人的に入り用になったものが有ったので、コンビニに寄ってたんです。」


「それで何で磯竹くんもいるんだ?」


「なんかボディーガードとしてメールで呼び出されまして…俺達、家が隣同士なんですよ。」


成る程、これは嫁の尻に敷かれるタイプだな。

まあ、それでちゃんと出てくるところは、男として褒められる事かもしれない。


「原江さんだって、女の身でこんな夜中に外出すると危険ですよ。」


「まあ、ちょっとな…。この霧のことで話し合おうと思ってたんだよ。」


私のその言葉に、二人は顔を見合わせる。

事情を知らなければ、仕方無いことだ。


「私がなんの仕事をしてるかを考えれば解るだろ?」


「原江さんの仕事…あ、まさかこの霧って妖怪が原因なんですか?」


流石に夕曰く成績上位者であるらしく、頭の回転が速い。

対する磯竹くんはまだ釈然としない様子だった。

私はガードレールに寄りかかり、二人に説明をする。


「ああ、そうだよ。今年の梅雨、空梅雨だったろ?その上冷夏になられたら、農業やってる人間からすれば堪らない。そこで何とかしてくれって言われたんだよ。」


「いや、無茶振り過ぎませんかそれ。自然現象を何とかしろって…。」


半ば呆れ気味に磯竹くんは言った。


「ま、冷夏になりそうだと必ず入る仕事だからな。…岩手が冷害を被りやすい原因は知ってるか?」


「えっと…大平洋側から吹く風、やませが冷風だからですよね。奥羽山脈もあるから、その湿潤な空気も溜まりやすく、雲が空にかかって日照時間が少なくなるとか…。反対に秋田では豊潤の風として喜ばれてるんですよ。フェーン現象で日照時間が増えるから豊作になりやすいんです。」


…思った以上に知ってるな。

今まで夕相手にばかり説明してたから、何か調子が狂う。


「科学的には、そうだな。では昔からの伝承的にはどうだと思う?」


「伝承的に、って…科学的にすら解らない俺には解りませんよ。」


「私も。美琴なら知ってるかもだけど。」


私は煙管を取りだし、刻み煙草を火鉢に盛って火を着ける。

霧のせいか、煙管の火が弱い。

呼気を送って火力を安定させたところで私は話を続けた。


「二人には、どんてんの話をしてなかったな。先ずそっちから話そうか。」


「どんてん?」


「奥羽山脈に住む龍でな。今年の梅雨が空梅雨だったのは、そいつが梅雨全線を食っちまったからなんだが…。兎に角雨雲を貪り食うんだよ、そいつは。」


二人は夕や堀野さん程に霊的なものを信じない質なのか、あまりピンとこないようだった。


「その…どんてん?とかいうのと、今回のこの霧に何の関係が有るんですか?」


「磯竹くんはともかく、長束さんは霧と雲の違いが地面に接してるかどうかにある、てことは知ってるだろ?」


「俺は兎も角ってどういうことですか…いや、確かに解んないけどさ。」


「つまり…霧もどんてんの食事になりうる…てことですか?」


理解が速いと、説明をする側としては有りがたい。

夕もこれくらい察しがよくなってもらいたいものだ。


「ご明察。だがこんな平野の霧までは食べない。ここまでいくと、どんてんは地面にぶつかる可能性があるからな。だが、山にかかる霧は食うんだな。」


「ふむふむ、なるほど。」


磯竹くんはそう言いながらしきりに頷いている。

そういう仕草をされると、逆に解ってないんじゃないか、という疑念に駈られるが…まあ、良しとしよう。


「それで、この霧の原因になってる奴だけど…そいつは夏と冬に奥羽山脈を越えるなんて大層なことをやらかすんだ。“奥羽越え”なんて呼ばれててな。」


「わざわざなんでそんなことを?」


「確かそいつ高温に弱くて、夏は水温の低い日本海に、冬は餌の多い大平洋にいるんだったかな…。ま、兎に角その為に山を越える。その際、乾燥に弱い肌を守るために霧を伴って行くんだよ。」


「あー、なるほどね。そこでさっきのどんてんか。その理由なら確かに途中で霧を食べられたら堪んないもんな。」


合点がいったかのように、磯竹くんは手を叩く。

しかし、長束さんはまだ納得できてないようだった。


「それだけじゃ、冷夏の説明が出来てないじゃないですか。」


「ああ、そうだったな。やませはそいつの呼吸によって起こると言われててな。つまり、いつまでも日本海に行けずに大平洋に居られると、やませが吹き続けてこっち側が冷夏になっちまうんだよ。」


「じゃあどうすんの?」


「どんてんを怖れてまごついてる訳だから、安全に奥羽山脈を越えられる時期を教えてやれば良いのさ。」


そして今夜がその時期。

丁度昨日、梅雨前線が消えていた。

それはつまりどんてんが梅雨前線を食い尽くした事に他ならない。

いかに大食のどんてんとはいえ、満腹になっている筈だ。


「ところで…それの名前、何て言うんです?」


「ああ、そういえば言ってなかったな。そいつの文献には、“霧を恰も衣の如く纏い、その姿は山椒魚の如し”という説明文があるんだが…。」


その時、雲間から月が顔を覗かせた。

辺りは僅かながらも光に照らされ、多少視界が広がった。

そして二人は、呆然としたような表情をした。


「そこから、こんな名前が付けられたんだと。奥州の大山椒魚、“霧衣半裂(きりえはんざき)”ってな…。」


言うと同時に、私は振り返る。

そこには月光のもと、小島程もある影が、霧の中に写し出されていた。

それに付いた二つの眼が、私たち三人を見下ろしている。


「相も変わらず、でっかいことで…。これでもどんてんより小さいってんだから、人間の小ささたるや…。」


二人は動けないのか、その場でただ震えている。

まあ、こんだけのものを見たら、誰だってそうなるだろう。


「安心しろ。こいつは人を襲いはしない。」


「…は、はあ…。」


辛うじてそう漏らしたのは磯竹くんだった。

長束さんは磯竹くんに抱き付いて目を瞑っている。

…案外ここから恋が始まったりしてな。


「おう、霧衣半裂。奥羽山脈を越えるなら今だぞ。どんてんも梅雨前線を食い尽くして満腹だろうから、お前の霧の衣を食いはせんだろう。」


「…。」


何回かこうやって時期を教えてきたが、私はこいつの声を聞いたことがない。

言葉を話せないのか。それとも話す気がないのか。

そもそも私では話せないのかもしれない。

ただいつも言うことを聞いて山登りを始めている辺り、人語を解す能力は有るのだろう。

そして今回も、飛沫を上げながらゆっくりと陸に上がり始める。


「おい、二人とも。さっさとここから離れるぞ。あんま近くにいると、踏み潰されかねんからな。」


まだ動けない二人の手を取り、私は一目散に走り抜ける。

毎回毎回、この仕事は命懸けだ。

まあその分、報酬も悪くないのだが。

半キロほど走ったところで振り返ると、大きな影がのそのそと山を登っていくのが見えた。

腰を抜かすほどに驚いた後に全力疾走をした二人は、かなり息を切らしていた。


「ま、中学生が真夜中に出歩くなってことだわな。」


「いや…その…、すいません。以後控えます…。」


「今回は見逃してやる。さっさと帰って、早く寝ろ。明日も学校だろう。」


なんだか酷く悄気たようにして、とぼとぼと歩いていく二人。

流石に気の毒に思えてきて、私は後ろから声をかけた。


「そう言えば、初めてなんじゃないか?」


「え…?」


「夕や堀野さんが知らなくて、お前たち二人は知ってる怪異、ってのは。」


顔を見合わせる二人。

そう言えば確かに、といった感じの表情だった。


「明日、二人に自慢げに話してやれ。いつもそうされている代わりにな。特に堀野さんは、さぞ羨ましがるだろうよ。」


「は、はい!今夜は、ありがとうございました!」


急に満面の笑顔を作り、何事かを話し合いながら霧の中に消えていく二人。

とりあえず、気を取り直してくれたようだ。


「明日は多分、夕や堀野さんに問い詰められるな…。」


まあ、たまにはこういうのも良いじゃないか。

気づくと辺りの霧も薄まり、視界が広がっている。

…霧が晴れるまでには、帰れるだろうか。

私は自分の家に向かって、歩き始めた。


挿絵(By みてみん)



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