始まり
いつものように、見る夢がある。
一場面だけの、短い夢。
大きめの部屋に、一人立っている。
それが誰なのか。
知っている人なのかそうでないのか。
男なのか女なのか。
そんなことも判らないくらいに、朧気な姿。
そして此方を振り向き、何かを言っている様に思える。
それもまた、何であるのかは分からない。
分からないだらけの、分からない夢。
──ただ、その部屋が血に塗れているかのように赤い。
それだけは、はっきりと分かった。
ふと、目を開く。
またあの悪夢。
夢自体は短いし、別に怖いものでもない。
でも私には、あれはとんでもない悪夢なのだと思わずにはいられない。
「おう、起きたか、夕。」
不意に女性の声が聞こえた。
寝惚けているのと、まだ馴れていないせいで、それが誰のものであるのかを思い出すのに、暫しの時間を要した。
「あ…宮比、さん。おはようございます…。」
原江宮比。
そうだ、私を引き取ってくれたらしい人、だ。
美人だと断言出来る程の容姿だが、如何せん口調は粗野で性格は男勝り。
二十代半ばであるが、恋人もいないのはそれのせいだろうか。
「随分とうなされていたみたいだが…。悪い夢でもみたのか。」
その問いに私は俯く。
宮比さんには、あの夢のことを話してはいない。
私にそれを上手く伝える語彙虜が無いのと、何故か言わない方が良い気がするからだ。
「まあ、話したくないなら良い。悪夢を見ても仕方ないしな。朝飯出来てるから、準備できたら来い。」
私の気持ちを察してそう言ってくれた。
そう、仕方ない、のだ。
私には、記憶がない。
自分の名前、年齢、出身地、全て見知らぬ他人から教えて貰ったものでしかない。
聞いたところによれば、私の両親は事故で死んでしまったのだという。
そして、その事故に同様に巻き込まれた私は、命こそ助かったものの記憶をなくしていた。
その話を病室で聞いたとき、私は何の悲しみも抱かなかった。
親の記憶が、さっぱりと抜けてしまっているせいだろうか。
そして身寄りのない私は、遠縁のお姉さんであるらしい宮比さんに引き取られた…そういう事情であるらしかった。
それらの情報は、本当に自分のものなのだろうか、と思わないでもないけれど…。
今はそれを信じるしかない、と自分に言い聞かせてきた。
布団を片付けて居間へ行くと、朝食が卓上に並べてあった。
あんな性格ながら、宮比さんは家事全般そつなくこなす。
だらしのない私にとって、そこら辺は見習いたい程だ。
「おう、夕。いよいよだな。」
朝食を食べ始めると、宮比さんは言った。
「どうだ、不安か?」
そう聞いてきたのは、今日が記憶を無くしてから初めての登校日だから、だろう。
別の土地から流れてきた私は、所謂転校生。
学校に馴染めるか、友人を作ることが出来るか。
考えれば考えるほどに、不安は募るばかり。
だから私は、その問いにただ頷く。
「そうか。まあ、大丈夫だ。最初は辛いかもしれんが、直ぐ慣れる。学校への行き方は分かるか?何なら送っていくが…。」
「大丈夫です。一人で行けます。宮比さんも忙しいでしょうから…。」
出来る限りの笑顔で、私は言う。
宮比さんはそうかと呟き、少し間をおいて、別に忙しくはないが、と付け加えた。
彼女がどんな仕事をしているのか、詳しくはしらない。
一度それを質問したとき、宮比さんは散々考え込んだ挙げ句
「まあ…霊能力者、とでも言えばいいのか。」
と答えた。
それは私の予想した、どの職業とも違うものであり──
正直反応に困ったのでそれ以来聞くのは止めた。
世の中には色んな人がいる、ということで納得しておくことにした。
「御馳走様でした。」
朝食を済ませて時計を見ると、7時を少し過ぎたところだった。
学校へは8時までに行かなくてはならないから、そろそろ支度をしないといけない。
歯を磨き、顔を洗って、制服に着替える。
馴れていないせいか、それらの動作にひどく手間取ってしまった。
「それじゃあ、行ってきますね。」
私が家から出ていこうとすると、宮比さんはちょっとまて、と引き留める。
「天気予報じゃ、今日は雨らしい。傘を持っていけ。」
そう言い、ビニール傘を一本渡してくれた。
見上げると、分厚い雲が暗く立ち込めている。
確かに雨が降りそうだ。
私の不安感を表したかのような…そんな空だった。
「あ、ああ、秋田県から引っ越して来ました、 五木場夕子 (いつきば ゆうこ)です。よ、宜しくおねがい、します…。 」
朝のホームルームの時間。
真新しい教室の中に、私のどもって上擦ったような声が響く。
一挙に30人もの衆目を集め、ひどく揚がってしまったためだ。
まるで、一人大舞台に立たされたかのような気分──。
そんな私の姿を見てか、笑いを堪えたのだろう数人が肩を 振るわせている。
それでもすぐ後に、皆が声をあわせて宜しく、と答えてくれた。
どうやら、和気藹々とした雰囲気のクラスらしい。
私はほっと、胸を撫で下ろす。
新しい場所で、うまくやっていけるかどうか。
その一番の不安が、和らいだような気がして。
ここは岩手県日諸市 。人口約5万人程の小さな市だ。
そこにある日諸中学校が、私が新たに通う事になった学校だった。
「ねえ、夕子ちゃん。」
自己紹介を終え、緊張から解かれた私にそんな声がかけられる。
それは私の前の席にいる、女の子の声だった。
椅子の背凭れに両腕を乗っけて、反対向きに座りこちらを見ている。
「…?あ、わ、私…?」
再び慌てる私を見て、その子はくすくすと笑った。
「うん、このクラスには、ゆうこって名前は他にいないからね。」
いきなり声を、増して親しげに下の名前で呼ばれるなんて微塵も思っていなかったから、更に焦ってしまう。
「あ、え、えと、何…かな?」
「あのさ…。」
そこまで名前も知らないクラスメイトが言いかけたとき、 ホームルームで何事かを話していた先生から、叱責を投げ掛けられる。
「こら、そこの二人!先生が話しているんだから、私語は慎みなさい!」
そしてまた、何人かの笑い声が聞こえる。
転校早々、こんなに笑われるなんて思いもしなかった。
私は恥ずかしさのあまり、少し顔を伏せる。
「あ、ごめんなさい先生。静かにするので、続けてください。」
対して、彼女は慣れているのかそう言って前へ向き直った。
その際、此方を見ながら小声で (ごめん、夕子ちゃん。話はまた後でね。) と言った。
話って、何だろう。考え付く限りの理由を頭の中に浮かべる。
そのせいで、私は先生の話に集中することができなかった。
それから少しの時間でホームルームが終わり、暫しの休み時間に入る。
それと同時に、再び前の席のクラスメイトが私の方を向いた。
「ごめんごめん、早く話がしたくて、待ちきれなくって… 」
「待ちきれない…?」
それ程までに、私に話したいこと…。
考え続けていた割りに全く思い当たらず、更に混乱する。
そんな私の背後から、今度は別のクラスメイトの声がした。
「堀野、お前早速迷惑かけてんのな。五木場さん、明らかに困ってるぜ。」
見てみると、その声の主は見るからにスポーツマンという感じの男の子。
注意というより、半ばからかっているかのような口振りだった。
「まあ、転校生がウチのクラスに来るって聞いて一番喜んでたの美琴だもんねー。」
また別の女子が話に入ってくる。取り合えず、彼女の名前は“堀野美琴”であるらしい。
「ああ、もう!椎名も隆斗もいきなり入ってこないでよね !私も自己紹介しようとしたのに、名前が夕子ちゃんに伝わっちゃったじゃん!」
そして三度、教室が笑い声で満たされる。
やっぱり私は、良いクラスに転校してきたようだ。
「ま、一応言うけど…私、堀野美琴。美琴ちゃんでもミコちゃんでも、好きに呼んで良いよ!」
「正直、似合わねーよな。余りに女子っぽすぎる名前で。 」
隆斗と呼ばれた男子がそうこぼす。
それに対して堀野さ…いや、美琴ちゃんが睨み付けると、慌てるように教室から出ていった。
どうやら美琴ちゃんは男勝り、もとい快活な子であるらしい。
…何かそんな女性が周りに多いな。
「それで…私に言いたかったことって、なあに?」
流石に痺れを切らし、私は聞く。
「あ、重ね重ねごめんね。実は、夕子ちゃんに究明部に入って欲しいんだ。」
「…きゅうめいぶ?」
ぽかん、と口を開ける。
救命?糾明?いや、究明か?
一体何をする部活なんだろう。
さっきから混乱しっぱなしだなあ、私。
「まあそうなるよね、普通。」
私の顔を覗き込みながら、椎名さんが呟く。
「究明部っていってもさ、正式な部活じゃないんだよ。美琴が自称してるだけでね。因みに部員は三人。」
「へえ、意外といるんだね、部員。」
本音をうっかり漏らしてから、失礼な事を言ってしまった、と後悔する。
けれども美琴ちゃんは全く気にした様子もみせない。
言われ慣れているのかもしれない。
「うち二人は幽霊部員みたいなもんだけどねー。だから実質、私一人みたいなもんなんだ。」
「仕方ないじゃない。隆斗はサッカー部、私は美術部に籍置いてんだから。帰宅部のあんたみたいに暇じゃないの。 」
成る程。だからまだ何の部活もしていない私に目をつけた 、と言うことか。
ちょっと打算の入った声かけだったわけね。
「あ、そういえば私の自己紹介はまだだったね。私の名前は長束椎名。さっきの男子は磯竹隆斗。幼馴染みの縁で究明部に入れさせられてるの。」
いそたけりゅうと と なつかしいな…。
…隆斗くんはともかく、椎名さんの名前はとても突っ込みたい。
でも初対面なので我慢しておくことにしよう。
「で、返事はどう?あ、他の帰宅部の人に声かければ、って言うのは無しね 。もう学校の人全員に断られてるから。
「あはは…そうなんだ…。」
部活なんて、全く考えたこともなかった。
ただ、この学校でやっていけるかどうか、ということで頭が一杯で…。
別に運動は得意でもないし、絵も下手、楽器も何も使えない。
だから、運動部 文化部両方とも入る気は無い。
けれど…。
「うん、わかった。入るよ、究明部に。」
「本当!?」
私がそう答えると、目を輝かせながら、美琴ちゃんは前へ身を乗り出す。
「おいおい、本当に良いのかよ?そもそも五木場さん、活動内容聞いてないだろ?」
いつの間に戻ってきたのか、隆斗君が極めて冷静に、且つ至極当然な事を言った。
…そういえば聞いてない。
究明部が一体、どういうものなのか。
「究明部って言うくらいだから、謎を調べて、それを究明する…のかな?」
「あー、まあ、大体あってるような…。おい部長さん、詳しく教えてやれよ 。」
美琴ちゃんは任せなさい、と言わんばかりに得意気な顔をしながら説明を始める。
「究明部はね、ここ日諸市に伝わる怪談の真偽や謎を明らかにすることを目的としているの。えっと、活動日は私の気紛れです。」
……それは部活として、いい加減すぎはしないだろうか。
いやそれよりも、私には気になることがあった。
「でも、そんなに調べるべき怪談とかあるの?日諸市だけじゃ、足りないんじゃ…。」
その私の疑問に対しては、椎名さんが答えた。
「それは大丈夫。嘘かホントかは別として、意外と曰く付きの場所ってのは有るもんなんだ。ちょっと調べるだけで、些細なものから大層なものまで、沢山見つかったよ。」
それ調べたのは私だけどね、と美琴ちゃんが横から注釈を入れる。
「で、本当に良いの?こんな部に入って…。別に強制じゃないし、もっとゆっくり考えても…。」
「大丈夫。思った通りの部みたいだし、面白そうだから。 」
そう答えた私に、椎名さんはそう、なら良いけど、と言った。
私がその部に入ることを決めた理由。
転校したばかりで不安だった私に、親しげに話しかけてく れた美琴ちゃんに恩返しがしたかったから。
心霊現象や怪談話とかに、興味があるから。
──いや、本当にそれだけだろうか。
自分でも、自分の真意が分からなかった。
放課後になり、私は美琴ちゃん達と別れて独り帰路につく。
どうやら今日は、部活動はないらしい。
理由を聞くと
「転校初日で、夕子ちゃんは大変だろうから。」
との事だった。
その転校初日で、友達が三人もできるなんて。
予想外の事に、自然と笑みが溢れた。
今朝、あんなにもあった不安は跡形もなくなり、今はこれからの希望で満ちている。
記憶喪失という心配事はあるけれど、だからといって落ち込んでばかりいても仕方ない。
明日から、皆と一緒に楽しい生活をしていこう。
そんな私の気持ちとは裏腹に、空模様は予報の通り、雨が降り始めていた。
私が住むことになった家は本土にはなく、褄吾島 という、小さな島にあった。
人口は千にも満たず、どことなく、寂しさを感じる島だ。
本土からさほど離れてはおらず、一本の橋で繋がっているのは利点と言える。
「ただいま帰りましたー。」
がら、と玄関の戸を開く。
宮比さんの家は昔ながらの日本家屋だが、比較的新築であるらしく、中は綺麗な家だ。
宮比さんの掃除が行き届いている、というのもあるだろう。
ふと聞いたところによると、借家であるらしい。
「おう、おかえり夕。晩飯出来てるぞ。」
台所の方から、宮比さんが出てくる。
この人のエプロン姿程、似合わない者はないだろう。
気分がよかったのも相俟って、私は思わず吹き出した。
それを見た宮比さんは、珍しく笑った。
「なんだ?朝の不安そうな顔とはうって変わって、随分と嬉しそうじゃないか。何か良いことでもあったのか?」
「はい、とても嬉しいことがありました。ご飯の時に、詳しく話しますね。直ぐに鞄を置いて、手を洗ってきます。」
ああ、そうしろと宮比さんは言い、再び台所の中に姿を消した。
私も手伝いをする為、急いで自分の部屋に戻り、鞄を置いて私服に着替える。
「それで、何があったんだ?」
晩御飯を食卓に並べ、座ったところでそう聞いてくる。
余程気になっていたのだろうか。
もしかしたら、ずっと不安気であったせいで、宮比さんに心配を懸けさせてしまっていたのかもしれない。
「今日早速、友達が3人もできたんです!堀野美琴ちゃんと、磯竹隆斗くん、あと椎名さんって子とも。」
椎名さんだけフルネームで言わなかったのは、決してわざとではない。
「ほお、そうか。いきなり異性の友人が出来るのは凄いな。」
「私も驚きました。美琴ちゃんに声をかけられて、部活に入らないかって誘われたのが切っ掛けなんですけど。」
「部活?」
とても意外そうな顔をして、宮比さんはこちらを見た。
「夕、お前何の部活に入ったんだ?」
「ああ、いえ、正式な部活じゃあ、無いんですけどね…。」
入るときは何とも思わなかったが、いざ口にして見ると言いにくい。
宮比さんは半ば呆れたように笑った。
「正式じゃない部ってなんだよ?」
「美琴ちゃんが自称してるらしい、です。究明部って言って。部員がさっきの3人で、この日諸市の怪談とか言い伝えを調べて謎を解明するとか何とか…。」
そう私が言ったとき、宮比さんの顔が一瞬、驚きに満ちた表情になる。
余りの反応に、私は戸惑う。
「み、宮比さん…、どうかしたんですか?」
そう聞くと宮比さんは直ぐに我に帰った。
「ああ、いや。名前が珍妙なら活動内容も随分と珍妙なんだな。美琴って子は、随分と面白そうな子だ。」
その後はとりとめもない様な話をして終わった。
それでも、今までに無いくらいに宮比さんと話し、そして笑い合った気がする。
いかに自分が今までを暗く過ごしてきたか、つくづくと思い知らされた。
食後、片付けも終わり、私は何をするでもなくテレビを眺めていた。
宮比さんはというと、縁側に腰掛けながら日課のような煙管のヤニとりをしている。
この禁煙が叫ばれるご時世に、煙管を吸う人など、絶滅危惧種なのではないだろうか。
「…夕。」
宮比さんが私の名を呼ぶ。
煙管の掃除の時はいつも無言で、近寄りがたい空気すら漂うので、一言喋るだけで意外だった。
「なんですか?」
「…お前はどうして入ったんだ?その…究明部とやらに。」
「…分かりません。もしかしたら、入れば早く皆と仲良くなれるかも…とか心のどこかで思ったのかもしれません。」
私は正直にそう答えた。
「そうか。まあ、楽しくやれ。お前くらいの年頃の子は、笑って暮らしてるだけで良いんだからな。」
縁側に腰掛けるその背中が、何時もよりずっと小さく見えた。
ふと、先程のあの宮比さんを思い出す。
一体何が彼女をあそこまで驚かせたのだろう。
何かいけないことを言ってしまったのではないか?
考えても分からないが、それだけに一層、疑念と不安は募っていく。
…いつか、その理由を知る日は来るのだろうか。
その時、一段と屋根を叩く雨音が激しくなる。
明日も雨が続きそうだ。何となく、そう思った。