プレリュード②
西暦一九二四年、帝都ピッドシュレイアの春の終わり。
ルイ・ヴィトンの工場で働いているアデイル・フェンディは出来上がってくるスーツケースの最終チェックをしながら悩んでいた。
ここのところずっとアデイルは悩んでいる。
一定のインターバルで溜息を吐きながら、縫いが甘いスーツケースを左に転がす。左に転がしたスーツケースは隣に座る同僚のマチルダ・ミウが縫い直す。「アデイルってば、どうしたのよ、溜息なんて吐いて」
「なんでもない、」アデイルは前方から転がってくるスーツケースを受け、まず外装に傷などないかを確認する。そして開けて内装を見て解れなどがないか見る。問題がないものは右に転がる。スーツケースはアデイルの右側で出荷準備に入るために整列している。「マチルダには関係のない話だわ」
「その溜息は、誰か私の話を聞いて、っていうサインかと思ったのにな、」マチルダは針を素早く動かしながら不満そうに口を尖らせる。「明日から旅行でしょ? そんな溜息を吐いていちゃ、楽しめないわよ」
マチルダが言うように、明日からアデイルは旅行に出かける予定だった。普通の旅行じゃない。アデイルが予定しているのは、最近流行の世界旅行というやつだった。
今、ピッドシュレイアの北東の港にはヴィヴィアンヌ号という豪華客船が停泊している。ヴィヴィアンヌ号は明日の正午にピッドシュレイアの港を出て、世界の都市の港を経由し半年という時間をかけて世界を一周して、再びピッドシュレイアの港に戻ってくる。
そのヴィヴィアンヌ号の乗船券をアデイルは買ったのだった。途中で下船出来る乗船券もあったが、アデイルは世界を一周する乗船券を買った。その乗船券を購入した自分の勇気、というか、その時の無謀な気持ちを、アデイル自身、今でも信じられない、というか分析出来ないでいた。乗船券の値段はアデイルがこの仕事に就いてから貯めていたお金とほぼ一緒だった。バカな買い物をしたと思わない、と言えば嘘になる。
どうして買ってしまったんだろう?
どうしてヴィトンの財布のファスナを開いたのだろう?
そう思う。
しかし、それは溜息の理由ではない。
溜息の理由は買ってしまったからには……。
そういうことだ。
工場長は気前よく休みをくれた。工場には今までにないくらい人員が揃っていて、アデイル一人が欠けても問題はないだろう、という判断を工場長は下した。「四年間毎日休まず働いていたんだ、半年くらい構わないさ」
アデイルは十三歳のときにルイ・ヴィトンの工場で働くようになってから四年、祝日を除いて休むことなく働いていた。働き者のアデイル・フェンディと皆は様々な気持ちを込めて呼ぶけれど、アデイルにしてみれば特別、他の人たちに比べて働いている、という実感はなかった。他の人たちは仕事以外にやらなければいけないことが沢山ある。でも自分には仕事以外にやることがなかっただけなのだ。機械の歯車のように一定のリズムで動き続ける仕事が、変わらない生活が快適だから、それを失わないように同じことを繰り返してきただけなのだ。
そんな風なアデイルだから、彼女が突然、ヴィヴィアンヌ号の乗船券を買って来たことに工場の皆は驚いていた。そしてなぜか皆は自分が豪華客船に乗れるわけでもないのに嬉しそうな顔をアデイルに向けた。その理由は分からないが、とにかくアデイルは乗船券を買ってしまったのだ。この事実はどうしたって消すことは出来ない過去だ。
だから……。
買ってしまったから。
溜息が止まらない。
「世界一周よ、世界一周、」マチルダはアデイルの顔を覗き込み言う。「そんな風にぼうっとしてないで、一生懸命楽しんでくるんだよ、世界を見て来るんだよ」
「一生懸命楽しむって変じゃないかな?」アデイルは目を逸らさずに言う。「なんだか、疲れそうだわ」
「楽しくなりたい気持ちがなくちゃ楽しめないってこと、」マチルダは修正を施したスーツケースを勢いよく右に流す。「疲れるくらい楽しくなくっちゃ、なんていうか、もったいないでしょ?」
「そうだね、」アデイルは小さく笑った。「そうかもしれないね」
そうだ。
せっかく買った乗船券だ。
溜息の理由がどうなろうとも。
楽しまなくてはもったいない。
「かも、じゃなくて、絶対そうなのよ、お姉さんの言うことは信じなさいよ」
「マチルダも一緒だったらいいのにな」
「あら、さっきは関係ないって言った癖に?」
「怒らないでよ」
「怒ってないよ」
「マチルダが一緒に行けないなら」
「ええ、私はお金がなくてアデイル嬢のお供をすることは叶いません、豪華客船よりミニ・マチルダのミルクのことで頭が一杯のマチルダです」
マチルダは去年の春に子供を産んだ。女の子。先週一歳のバースデイを迎えたばかりだ。彼女はマチルダに似て愛らしい唇をしている。将来は綺麗な少女になるって、両親よりもアデイルの方がきっと夢中で、信じている。「マチルダのリボンを頂戴、マチルダのリボンと一緒に私は行くよ」
「これ?」マチルダは長い綺麗なブロンドの髪を黒いリボンで束ねていた。「別にいいけど、あなたの髪は黒いじゃないの」
「いいの」アデイルはマチルダのリボンを摘まみ、ゆっくりと引っ張って解いた。
いいんだよ。
飾るためのリボンじゃない。
縛るためのリボン。
そして解くか。
解かないか。
それを選択するためのリボンだから。
「いいんだよ、このリボンで、このリボンがいい」
アデイルは黒いリボンで、自分の黒い髪を束ねた。
その時。
帝都ピッドシュレイアの正午を告げるベルの音が工場に響く。
そしてそのベルの音から、二十四時間後。
黒いリボンで髪を縛ったアデイルはルイ・ヴィトンのモノグラムのスーツ ケースを転がしてヴィヴィアンヌ号に乗り込み、そしてデッキに立っていた。
体に海風を受け。
そして一生懸命楽しむ決意をして。
素敵な恋でもしようかしら、なんて思って。
その場で軽くジャンプした。




